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良識ある者の振る舞い

思ったこと考えたことを外に出すという行為はとても大事だ、と言う話。

最近は色々なことに配慮が必要な世の中になっている気がする。何か主張をするにも、最後には、「まあ人それぞれだけどね」と注釈をつけるのが癖になっている。

それはいいことだと思っていた。自分の主張によって誰かを意図せずに傷つけたりすることは避けたいし、周りから配慮のある人だと思われたいという気持ちも少なからずある。自分の主張がアクセルだとすれば、「まあ人それぞれだけどね」という注釈はブレーキだ。「これが正しい!自分の考えていることはこうであって、そうじゃないものはここがおかしい!」という強い気持ちを進めるのは楽しいが、加減を間違えると視野の狭い意見、わがままな意見になってしまう。そこにブレーキをかけてあげることで過度な思考の加速を防ぐことができる。私はアクセルを踏み続けるスリルを楽しんでいたこともあったが、時代の流れとして、「全部いいよね、全部認めようよ」という空気が充満し始めた頃から、アクセルを踏むことに対してかなり慎重になり、いつでもブレーキを踏めるような状態にしておこうという意識を持つようになった。自分の極端な意見を伝える行為に対して保険を掛けるようになったと言ってもいいかもしれない。強い意見は強い共感を呼ぶと同時に強い反発も生む。「全部いいよね、全部認めようよ」の時代では肯定は認められるが否定は認められない。強い反発はこの時代で強い力を持つ。強い反発は強い共感よりも大きな意味を持って大きな音が出せる。その大きな音はSNSなどを利用していれば嫌でも目に入ってくる。私はその大きな音が怖かった。だからブレーキを踏むし、保険を掛ける。それが当たり前であって良識ある者の振る舞いだと思っていた。けれども実際にはその良識ある者の振る舞いが自分の首を絞めていた。

自分の意見にブレーキを掛ける行為はいつの間にか反射として自分の体に覚え込まれ、アクセルを踏むと同時にうっすらとブレーキを踏むようになっていた。これでは思うように前に進まず、どこにも辿り着けない。いつまでも同じ場所に留まることになる。自分の体はその同じ場所に留まるということすらも癖として覚えてしまう。そしてどうせ進めないのならアクセルを踏んでも無駄だと考える。思考停止。自分の意見を言ったところで誰にも届かない、と何の根拠もなく絶望し、口を噤む。こうなってしまうと人と話すことが億劫になり、自分の考えをますます溜め込んでいく。溜め込まれた思考は出口がないので自分の中で消化するしかない。だが消化したとしてもその先で排泄する手立てがないので結局それも溜まっていってしまう。だから人と話そう。話せる人がいなければ文字にしよう。溜め込まず口に出す。それが出来ずに消化したものは排泄する。

世の中のバランスを自分で取ろうとしてはいけない。それは私の役割ではない。