他人の「好き」に乗っかればいい。嬉野Dが水どう23年目にたどり着いた、生き方の秘訣。
嬉野:
おはようございます。
T木:
第二部、嬉野さんパートを始めさせていただきます。
嬉野:
「無」責任編集長はですね、第一部が終わったらほとんど終わったと思ってる。
T木:
魔神を倒したぞ、と。
嬉野:
そうなんですよね。あそこで戦々恐々としちゃって。ですから藤村さんが第一部で、わたくしが第二部と。
T木:
これは絶対変えませんからね。
嬉野:
ええ、ええ。でもまだ第二部ですからね。
T木:
実はまだあるという。
嬉野:
たらればさんは四番手だから、この三ヶ月間ずっと戦々恐々として今日を迎えたんですよね。
たらればさん:
そうです。だってこのイベント、事前に何も教えてくれないし、何をどう話すかも分からないんです。
嬉野:
とはいえ第一部が終わったので、もう安心ですよね。
たらればさん:
いやいや、そんなことはないですよ。
嬉野:
いいんですよ、終わったと思ってるぐらいがちょうどいいんです。
人間は、何年たっても変わらない。
嬉野:
早速ですけど、たらればさんは古典がお好きなんですよね?
たらればさん:
おお、その話を振っていただいて。はい、好きです。
嬉野:
私も古典文学的なものは好きなんですよ。でもまぁ、せいぜい中高の教科書読むくらいなもんですけどね。それでも古典の何が好きかっていうと、音が好きなんですよ。耳で聞く、声に出して読んじゃうのが好きみたいな。
たらればさん:
それは古典文学ってことですか? 和歌とかそういう?
嬉野:
いろいろあるじゃないですか、徒然草とか竹取物語とか源氏物語とか。ああいうのを音で聴くのが好きなんですよ。心地いいんです。
たらればさん:
すごくよくわかります。日本語もそうなんですけど、だいたいの言語って紙に書かれた文字になるより前は話したり歌ったり、声で伝えられていたので。
嬉野:
口伝みたいな。
たらればさん:
そうです。口承の歴史のほうがはるかに長い。特に日本語の場合は、独自の文字を持たなかった時代が長くて、それでどうしても文字にしないといけないので漢字を無理やり当てたという歴史があります。話し言葉で広まって、だんだん今の形になってきた。
また、和歌や平家物語などがわかりやすいですけど、古典ってたいていは歌とか節をつけて伝えられてたので、聴いていて心地いいというのはすごく真っ当な楽しみ方だと思います。
嬉野:
たらればさんはそんな感じでもないわけでしょ、好きだっていうのは。
たらればさん:
僕はもちろん元から好きだったんですけど、ウケるかなと思って勉強し始めたっていうのもちょっとあります。みんながちょっとだけ知ってることをよりたくさん知ってると重宝がられるなと思って。
嬉野:
なるほど。僕が面白いなと思ったのは、清少納言が『枕草子』だかで宮中に出仕するのが嫌で「行かない」なんて言って、「出てきなよ」なんて言われてみたいな話です。それも当時で言えば、今の引きこもりとあんまり変わんないじゃないのかっていうことを紹介してて。そういうふうな入口をつけられると、わりと興味持つ自分がいるなぁと思うんですよ。
たらればさん:
ありがとうございます。
……やっぱり癒しパートですねぇ。すごくいい気分にさせてもらえますね。
嬉野:
いやいや、個人的な興味で聞いてるんですよ。
たらればさん:
それがなんとも、温泉に浸かってるような気分になるんですねぇ…。
ともあれ、古典を読んでいると、千年くらい前から人間ってあんまり変わってないなあって気づくんですね。そういう「変わらないな」っていう話がウケるなと思うのと、古典作品って、当然誰かが残そうと思って残してるわけなんです。「これはいいもんだから」って。千年前の作品が残ってるっていうと、偉い人がこれを残すぞと決めたみたいに思っちゃいがちですけど、実はそうじゃなくて。
ほとんどの作品は「これはいいから読んでみなよ」とか「面白いから覚えてみなよ」って他人にそれを薦める人がたくさんいたから残ってる。だから残ってるものが心地いいっていうのはごく自然なことなんだなって、その理由を探すのが面白いです。なんで残そうと思ったのかなとか。
嬉野:
同じ人間がそこにいるって思えると、やっぱり人間は興味を持つっていうことですかね。
たらればさん:
そう思います。普段は教科書の中の人ってあんまり同じ人間だと思ってないんですよね。多分。
嬉野:
だから僕、長いあいだ古文にしても歴史にしても、同じ人間がかつていたっていうふうに思ってなかった自分がいたんですよ。でも、結局何万年経っても我々も石器時代の頃の人間も、意外と変わらなかったんじゃないかなって最近思えるようになった。今の我々と同じように考えたんじゃないかな、なんて。
たらればさん:
嫉妬したりとか、そういう人間味が見えるのは面白いですよね。と言いつつ、古典文学はたいていは貴族の話なので、冷静に「一緒か?」って言われると全然違うのかなと思ったりもするんですけど。
他方、外国文学と古文って実は近くて、どちらも翻訳する過程があるじゃないですか。そこで多分、理解しやすくするために僕らの感性にちょっと寄るんですよね。自分のほうが興味を持って寄って行くし、翻訳の過程で作品のほうも寄っていって、それが合わさって「あ、分かった」みたいになるというような感じなのかなと思います。
嬉野:
なるほどねぇ。
カメラを振らない限り、物語は終わらない。
たらればさん:
この話を続けてもいいんですが、嬉野さんにお聞きしたい話がありまして。
嬉野:
はいはい?
たらればさん:
藤村さんの時にも少しした話なんですけど、(「ヨーロッパリベンジ」で)クワンカの街並みを遠景で撮っている時に、すぐ横で大泉さんがモノマネを始めるじゃないですか。でも、カメラ担当ディレクターである嬉野さんは、面白いことを言い出した大泉さんにカメラを向けなかった。そのことについて、嬉野さんが開演前に「(そこで大泉さんに)カメラを向けたら新たな物語が始まっちゃうから(向けないで遠景を撮り続けた)」っておっしゃったんですよね。
嬉野:
基本的にああいう、現場で大泉くんが「ナレーション生付け」って時には、対象物を撮ったままなんですよ。たとえば、喜界島のテントで四人がギュウギュウに詰めて寝っ転がって「狭い」とか言ってる時に、僕はずっと天井からぶら下がっているランタンを撮っています。
たらればさん:
そうなんですよね。しかも消えてるランタンだから真っ暗でした。
嬉野:
そうそう。消えてるランタンを撮ってる。でも、それはもう確信的にランタンなんですよ。そういう状況でろくでもない話を聞くには、一番見せるべき対象はランタンなんです。これはたぶん僕が幼少期にテレビで観たのか映画で観たのか、何かで体験したからなんですよね。
たらればさん:
昔、ひたすらランタンが映ってる映像を観たということですか?
嬉野:
いやいや、こういう状況で何かを話してる人がいても、その人を映さないで明後日の方向をずっと据えっぱなしで撮る映像がおかしかったっていう体験があったんだと思います。だから揺るぎなくランタンなんですよね。
たらればさん:
揺るぎなくランタン。
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