
「手の施しようがない」のその先も、科学にそばに居てほしい。わたしの終末に灯った希望。
嬉野雅道です。
病理医のヤンデル先生が無責任編集を務めてくださった『Wednesday Style』。本日は5月号コラムをお届けいたします。
最新医療に見放され、路頭に迷った患者はどこへ行くのか
病気になったときに頼れるのはドクターです。
ドクターの背後には現代科学に裏付けられた「最新の医療」がある。ドクターは科学のバックアップを得ながら患者を快方へと導いてくれるのです。
現代医療万歳!です。
しかし、ドクターを頼りに出来るのは病気に対処できる科学技術が存在する間だけ。極めて限定的なのです。
これが私にはちょっと気がかりです。
なぜって、その範囲を超えてしまった瞬間から、科学は患者の病気に対して有効な手段を失います。
すると、当たり前なのでしょうが、科学は患者の病気に興味をなくします。
「残念ながらこの先は現代科学では手の施しようがありません。現代科学でやれることはここまでです」と、患者は突然ドクターから別れを告げられてしまうのです。
今まで頼りきっていた人に「明日からもう来なくていいですよ」といきなり言われて、患者は今から誰を頼りにすればいいのか、明日からどこへ行けばいいのか考えあぐねるのです。
仮に目の前にいるドクターに「私はこれからどこへ行けばよいでしょう」と聞いたところで、すでに科学は答えることができないのです。
この瞬間、科学の門は閉じられ、患者は路頭に迷い、この先の自分をどうするかは、患者本人が考えるしかないという状況になるのです。こうして患者の運命は一変するのです。
もちろん、そうなることは仕方のないことだと理解しつつも、でも、やはり患者は心情的に「見捨てられた」とドクターや現代科学に対して失望するだろうなと思います。
そんな失意の患者が「大丈夫。うちへ来れば救われますよ」と言ってくれる宗教に誘われたら、多少インチキなものであっても入信するのかもなぁと私も心情的に共感するところがあります。
だって人間は不安なときこそ誰かに「導かれたい、構われたい」と願うはずですからね。
「打つ手もないのにそばに居る意味」を、科学は自分で見つけてほしい
だからこそ私は、科学者の中から「宗教的な役割」を果たそうとする人が出てほしいと思っています。
それは、たとえば病いに冒された患者に、「現代科学では手の施しようがありませんので、こっから先は迷信にすがってください」と、宣告するようなことではありません。
「現代科学でやれることはここまでです」と、言わない人が出てきてほしい。
言ったとしても、「しかしその先も、私たちは、あなたのそばにいます」と言ってほしい。
科学から迷信にきりかえる、ということでは、ことは為しえません。
科学が最後の最後まで患者のそばに居る意味を、見つけないといけないのです。科学の頭で。
そんなことを考えていたところ、病理医のヤンデル先生という人に出会いました。ヤンデル先生は、科学が患者に対して有効な手段を失った後もまだ、「どうすれば医療者は患者に寄り添うことができるだろう」ということを医療者の立場で考えてくれている人なんだと気づかされ「そんなことを考える人が医療者の中から現れる日が来ていたなんて!」と、私は安心をもらったのです。
患者に対して有効な手立てがなくなった後も科学が患者に寄り添うのなら、「打つ手もないのに科学が患者のそばに居る意味というもの」を、科学は、みずからの持ち場の中から見つけ出さないといけない。
その意味は、いったい、どんなものになるのでしょうか。
「生きる意味」を了解する最後まで、朗らかに自分を生かしたい
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