「見たい写真」嬉野さんの言葉の切れはし#356
私が今一番見たい写真は、まったく無名の人が、遠い昔、ひっそりとした熱意に勇気付けられながら、自分のごく身の回りの日常に向けてカメラを構え、ひっそりとシャッターを切っていった写真の中にあるのだろう。
ーー嬉野雅道
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カメラ雑誌に一枚の写真が掲載されていました。
その写真というのはね、ただ、玄関先を写した写真で、それはそれは、ずいぶんとレトロな玄関先でございました。
すっきりと掃除の行き届いた土間にね、履物がいくつか並び、脇に傘が一本だけ立てかけられていたような気がします。
玄関の土間に向けられた写真でしたから、奥にほんの少しだけ玄関扉のガラスの引き戸の格子の足元が見える。
手前には、廊下の床板が少しだけ写り込んでいる。
きっとその手前には、この写真を撮った人が立っていたのだろうと思うと、その時のひっそりと安定した日常の空間がどこまでも静かに広がっていくようで、ついつい見とれてしまったのであります。
そして、それは70年も前に撮られた写真だったのです。
その瞬間、思いました。
あぁ、私が今一番見たい写真は、まったく無名の人が、遠い昔、ひっそりとした熱意に勇気付けられながら、自分のごく身の回りの日常に向けてカメラを構え、ひっそりとシャッターを切っていった写真の中にあるのだろうなと。
今度は、その人のひっそりとした日常が、その人の目を通じて世間につながっていくのではなくて、世間の方から、その人のひっそりとした日常の中に分け入って行くことになる。
時間を超えて。
そういう体験をしてみたいと、今の私は思うのだろうなとぼんやり思いついたのでございます。
ーー嬉野雅道(水曜どうでしょうディレクター)