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私のルーツの旅【母方の祖母編】その9一冊の郷土史で急展開した話

先祖は船大工だった:郷土史が紐解く知られざる家族のルーツ



1. 郷土史がもたらした新たな発見

先日、旧土地台帳から先祖の土地の正確な位置を特定したという記事を公開しましたが、新たな調査でさらなる驚きの発見がありました。郷土史をひも解く中で、先祖が「船大工」であったことが記されていたのです。

再調査によって先祖名旧土地台帳を取得できたことで、「まだ見落としている情報があるに違いない」と考え、地元の図書館を再び訪れました。司書の方の協力を得て郷土史を詳しく調べたところ、そこには曽祖父の曽祖父が船大工として活躍していた記録がありました。以前、本家の方から「網元」だったと聞いていましたが、それよりさらにさかのぼる代で、船大工という重要な役割を担っていたことが判明したのです。

この発見により、船大工の家系に育った先祖が、子どもたちに桐タンス職人への転身を勧めたエピソードが、より深く理解できるようになりました。


2. 船大工としての先祖と地域での役割

郷土史には、先祖が携わった造船所「船銀」の名前や、製造した船の具体的な情報が記されていました。例えば、大正13年に建造された「鷹羽丸」という遠洋漁業船に関する詳細な記録です。資料・写真は郷土史「専漁の村」より抜粋です。

  • 船名:鷹羽丸

  • 船種:遠洋漁業船(21人乗り)

  • 造船年:大正13年

  • 大きさ:45馬力、35トン

  • 寄港地:三崎、乙浜、釜石、塩釜

鷹羽丸は、城ケ島で完成し、帆柱には道了尊(どうりょうそん・大雄山最乗寺のこと)付近の山で伐採された木材が使用されました。この船名も、木材を伐採した際に鷹の羽が付いていたことに由来しています。

船大工は単なる職業ではなく、村全体を支える基盤のような存在だったことが、郷土史を通して見えてきます。さらに、釜石が遠洋漁業の基地として機能していたことから、小田原に錦を飾った先祖の成功物語も、釜石との深い縁によるものであることが理解できました。

ただし、地元の船に乗らずに他国で働いた者が村八分にされる厳しい決まりがあったことも記されています。郷土史には、当時の村社会の厳しさと、それでも生き抜いてきた先祖の姿が想像できます。


3. 桐タンス職人への転身:大工の系譜をつなぐ物語

船大工は、当時の漁師にとって命を預ける存在でした。その理由は、船の質や耐久性が漁師の生死を左右するからです。技術への信頼、漁業との連携、伝統の象徴、そして家族を守る役割まで、漁師たちにとって欠かせないパートナーだったのではないでしょうか。当時の村社会では、船大工の仕事ぶりが村全体の繁栄に直結していたことがわかります。

桐タンス職人への転身が勧められた背景を考えると、単に危険を避けるためという理由だけではなく、当時の社会状況や時代の変化も影響していた可能性があります。

① 時代の変革期:大正から昭和への移行

大正時代(1912~1926年)は、産業化や都市化が進む一方で、農漁村では従来の生活様式が揺らぎ始めた時代です。この時期の変化が船大工の職業選択にも影響した可能性があります。

a. 都市化と新しい需要

大正時代から昭和初期にかけて都市化が進み、農漁村から都市部への移住が増加しました。これに伴い、船よりも家具や生活用品への需要が高まり、桐タンスのような高級家具が新たな商機を生む状況があったかもしれません。

b. 伝統的漁業から産業漁業へ

遠洋漁業の大規模化や機械化が進む中で、伝統的な木造船の需要が減少していた可能性があります。大規模な漁船は鉄製やエンジン付きのものが普及し始めており、木造船を手掛ける船大工の需要が下がりつつあったのかもしれません。


②戦争の影響と船舶の軍事利用

太平洋戦争(1941~1945年)の直前には、漁船や商船が軍用に転用されることが増え、漁業そのものが制限される状況が生まれました。

戦時中、多くの漁船や船員が軍事目的で徴用されました。その結果、漁業活動が停滞し、船大工の仕事も減少していた可能性があります。こうした状況は、戦前から兆候があったかもしれません。


③漁業の衰退と産業構造の変化

漁業自体の変化も、職業転換の背景に影響していた可能性があります。

a. 天災や漁場の変化

漁業の衰退の一因として、天災(津波や台風)や漁場の変化が挙げられます。豊かな漁場が減少した場合、漁業に依存していた地域の経済基盤が揺らぎ、船大工の需要も減少した可能性があります。

b. 他国との競争

遠洋漁業が盛んになる一方で、国際的な競争も激化していました。そのため、地元の漁業が衰退し、船大工の仕事が他地域や他国に移っていった可能性も考えられます。


④家族を守る親心

船大工という仕事の責任の重さだけでなく、その危険性が家族に与える影響も大きかったでしょう。漁業に直結する船大工の仕事は、漁師と同様に危険と隣り合わせでした。海難事故や天災などが起きた際、船大工としての責任が重くのしかかります。このリスクを回避するため、比較的安全で安定した家具職人への転身を選ぶのは家族を守る上で合理的だったかもしれません。

親が長男に桐タンス職人への道を勧めた背景には、命を危険に晒さず、確実に家族を養える仕事を選ばせたいという親心があったとも考えられます。

実際、鷹羽丸は帰港中に犬吠埼沖で遭難し廃船となりました。乗組員全員が銚子沖まで泳ぎ着き救助されたという話が残っています。このような危険な仕事を避け、次世代に安定した職を勧めた背景には、先祖の深い愛情があったと思われます。


4. 銀蔵という名前と通字の文化

郷土史には、船銀造船所の「銀蔵」という名で記されている先祖が登場します。しかし、この年代に相当する戸籍上の先祖名に「銀蔵」はおらず、「長蔵」となっていました。これは「通字(つうじ・とおりじ)」という文化に由来します。通字とは、家族や一族で代々使われる名前の一部のことを指します。本家や長男に「長」の字が使われている例が多く、これも家族の伝統を表しているのです。

また、菩提寺の過去帳には初代長蔵と記されており、家として船大工という役割を担っていたことがうかがえます。


5. 当時の生活の様子:郷土史から見える日常

郷土史には、漁の様子や日常生活のエピソードがふんだんに記されていました。なかでも子供の頃の思い出話が談話として紹介されているものがとても興味深いものでした。

子供たちは通常13~14歳くらいから船に乗せられたそうですが、なかには朝の3時に起きて自分の船の船底に隠れ、波の音で海に出たことがわかると顔を出し、船頭に怒られた小学生頃の思い出を語ったエピソード、子供たちが自分の好みの漁船(はえ縄やマグロ漁)を言い合ったりしていつか立派な船に乗ることを夢見たエピソードもあり、時代は変わっても子供たちは同じような感覚で遊んでいたのかなと思います。そうやって船に乗りながら見よう見まねで漁師の仕事を覚えていったのでした。

また、家族であるにもかかわらず、皆、名字が違い不思議に思っていたところ、のちにそれが「貰いっ子」だと聞かされたエピソードなども印象に残りました。貰いっ子は農村では「口減らし」といって家計の負担を軽くするために養子に出したり、丁稚奉公に出したりして養う人数を減らしたことをいいます。子供への脅し文句として、「いたずらしていると千度小路(古新宿隣の小字名)にやっちゃうぞ」という冗談交じりの言葉に親子の会話の情景が浮かび上がってきました。


6. まとめ:郷土史を通じて知る先祖の物語

郷土史をひも解くことで、先祖の暮らしや家族の足跡が鮮明に浮かび上がってきました。1冊の史料から先祖の本当の名前や生活の様子を知ることができるのは、本当に貴重な体験でした。

郷土史を通して先祖を知る旅は、自分を知る旅でもあります。皆さんも、もし行き詰まったら視点を変えて地元の資料を探してみてください。新たな発見が、思いがけない扉を開いてくれるかもしれません。

さて、私の先祖調査は、今までの経緯や調査結果を本家や両親に報告するために一度まとめることにしました。まだまだ調べたい事や不明な点はあるのでそこは課題としていきます。

次回、その報告の様子などをお伝えしていきます。

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