研究者って⑤
正直者なの?
このnoteは大学3年生や新たに大学院へ進む学生へ向けて研究にまつわる云々をなるべく正直に書いている。そんな中で今回は少し気が重いけれど、避けては通れない話題を書こうと思う。研究上行われる捏造に関して。
※以下に書くことは、私個人の意見であり、研究業界全体のコンセンサスでも、ある大学やある国の政府およびどこかのジャーナルの基準でもないことを前提に読んでいただきたい。また、ほとんどの研究者は当然捏造などしていないことを申し添えておく。
今回最も言いたいことは、「捏造している本人はそれが捏造であることを知っている」ということである。よって、捏造が話題になるたびにそのデータが故意であるかミスであるかが論点になるが、本人が正直に話せば本来議論の余地はない。しかし、「正直」が真実かどうかの見極めは本人以外の誰にもできないし、そもそも捏造をしている時点で正直からは外れているので、周囲が客観的な証拠を積み上げてジャッジを下す仕組みになっている。
それでは、捏造のパターンをいくつか紹介してみる。
1)PI (教員などの研究室主宰者) 主導「直接型」
これは言うに及ばずな悪であるうえ、学生や研究員にはどうしようもない領域で展開される捏造であるため、未然に対処しようがない場合が多い。教員などPI自身が実験をして捏造データを作り上げる場合や、原稿になっているデータの解釈や結論が学生や研究員が出したものと違ったものになっている場合があげられる。また、論文投稿の際に、corresponding author以外は知らないデータや図がいつのまにか挿入されている場合もある。投稿した雑誌社から、あなたはこのsubmitされた論文の著者になっていますが間違いないですか?みたいなお知らせが来る場合もあるが、それは知らずに投稿されている場合のみ有効なアラートであって、中身が改変されている場合にはそのお知らせでは気づけない。revise(改訂)のタイミングで共著者は気づくのだが、そもそもそのボスと一緒にその論文を出したいかどうかは疑問である。対処法としては、そのラボをそっと去るに限る。
2)PI主導「間接型」
研究者の多くは仮説検証ベースで研究を進行させる。仮説検証の結果が肯定されても否定されても本来は同じ価値を持っているのだが、仮説が理想や希望になってしまっている研究者の場合はそうはいかない。教員がその研究者タイプの場合、そのラボに所属する学生は大変な目に会うことがある。それは理想の結果が出るまで何回もやり直させられるからである。極端な例としては、Aが理想の結果である場合、9回連続Bの結果が出ていても、それは学生のミスと片付けられて10回目に偶然出たAの結果が論文になってしまうことがある。学生や研究員は、自分より研究に詳しいはずの先生から9回出ていたBの結果は君のミスだからと言われてしまうと自信をなくすので、反論の意欲もそれ以上の再検証の機会も失われてしまう。その結果、教員の理想が皆が納得した形として正式に表へ出ることになる。実験にミスはつきものであり、確かに手技の未熟さや不手際により不正確な結果が生み出される場合も多々あるため、必ずしも教員の言っていることが間違っているとは限らないところが難しい。ただしその場合は闇雲に繰り返しを求められるのではなく、学生や研究員が行った実験プロセスをじっくり確認したうえで、ここそこをこのように改変してみたらどうか?といった前向きなsuggestionがあるはずなので、ただの繰り返しか必要な繰り返しかの区別はつく。さらに難しい点としては、この手の理想追求タイプの研究ストーリーや論文は「おもしろい」ことが多い。だって理想だもの。そのため、一般的に評価の高い雑誌に論文が出ていたり、研究費をたくさんとってきたりしており、学生や研究員は自分側が間違っていると思いがちになる。しかし、本来は多方面からのアプローチでターゲットとなる現象を検証することによってこの辺の恣意的なデータ産出を防ぐことが科学の基本ルールであるため、学生の頃から「このデータをどうやって別の方法でサポートできるか?」を常に心がけて実行に移すことが必要である。それでも教員側が同じことを繰り返して間接的に理想のデータを強要してくるようであればそのラボをそっと去るに限る。
3)学生・研究員主導型
研究はとにかくデータを捏造してでも論文にしたもの勝ちという考え方から生まれるものや、学位取得・契約更新の期限に迫られてつい。。。というものまで理由は様々である。しかし理由はなんであれ、捏造はいけないし、捏造をした時点で研究業界を去る方が良い人生を歩めるのではとさえ思う。少なくとも、自身の犯した捏造のせいで他人の人生をダメにするようなことはなくなるので、胸を張って生きることができる。反対に捏造をベースにした学位やポジションなどどれほどの価値があるのだろうか。。。
内容は多岐にわたる。パソコン上でのバンドの切り貼りや、サンプルの恣意的なセレクション、数値の改ざんなどなど。酷いものでは、SDS-PAGEの際に電気泳動を始めてしばらくしてから、もう一度サンプルを入れるという荒技を見てしまったという話を聞いたこともある。
一方、指導者側の立場から見ると、この手の捏造は見破りにくいものである。それこそ仮説にとってポジティブな方向に振れることが多いだろうし、ラボのメンバーが捏造をしているとは夢にも思わないので疑いを持ちにくい。そこで簡単な防止策としては、捏造防止セミナーとかではなくて、実験生物学であれば単純に大事な生データを指導者も一緒に見ることである。顕微鏡を覗いたり、Western blotのすべてのバンドを見たり、たったこれだけで多くのデータがより正確なものとして世間にアウトプットされるはずである。私の過去のボスたちは全員ここぞという時にはこれをやってくれていたし、私自身もなるべくそうしようと思っている。しかし、現実には先生方はみな忙しい。そのため、人によっては週に1度、月に1度のラボセミナーで進捗を聞くだけになってしまっている場合もあるだろう。しかも、発表ではパソコンで加工されたデータをスクリーン上で見るだけでありその真実味や細かい点を見逃している可能性もある。大学の先生方が忙しいのは間違い無いのだけど、その忙しさは定量化しにくい。だから、「ラボに所属している学生や研究員の生データを見る時間を確保できる」くらいの用務量で全てのことが回っていけば、我が国の科学界から出るデータのクオリティーや論文が素晴らしいものになるのではないかとさえ思う。全ての大学執行部や文科省の方々、どうですかね?
人によって捏造の捉え方は様々であり、科学への冒涜という考え方も当然あるが、捏造の最も罪深いところは他人のポジションをとってしまうことだと個人的に思う。捏造をしてもバレずにデータを示すことができれば、学生であればラボ内で教員や周りに良い学生として認識されるだろうし、論文が出れば学振の枠を得ることもできるかもしれない。研究員であればファカルティーのポジションをゲットできるかもしれないし、PI教員であればグラントを取ることができるかもしれない。しかし、その全てが競争の産物であるため、捏造で平均よりちょっと上の業績を出してしまうと、真面目に研究を行ってきて平均的な業績を出した人のポジションを奪うことになる。このポジションは短期間ではなかなか覆らないため、捏造によって奪われた側の人々は不遇な時間を過ごしたり、時には研究業界から別の業界に移ったりすることにもつながる。さらに捏造で成功体験を得ると、繰り返すこともあるだろうし、そもそもそれが捏造であることさえ認識できなくなることもあるだろう。一方、あなたが他人の捏造に気づいた場合はスルーしてその人とは遠巻きに接するくらいが今のところ良い方法だろう。特に、自分のボスからその香りがしてきた場合は「そのラボをそっと去る」のがベストである。少なくともこのnoteの読者は正義感を持って捏造と戦う必要はない。なぜなら、捏造側もがんばって否定してくるだろうし、その頑張りに対抗するのもエネルギーの無駄だし、他人のアラを証明することに情熱を注ぐほど科学は暇ではない。捏造を暴いたり否定したり防いだりは、もっと偉い人たちの仕事なのだ。先にも述べたが、根本的な防止策は、ともかくボスが「ラボに所属している学生や研究員の生データを見る時間を確保できる」くらいの用務量で仕事をまわせる環境を用意することから始めることが良いのではと思う。さらにボス自身が手を動かすようなラボの場合は、ボスの仕事・手技にまわりのメンバーが平等に突っ込んで議論できるような環境づくりが大切である。当然個々人が捏造はダメ!というごくごく当たり前の感覚を持ち合わせることが前提にくるのではあるのだけど。