幸せを呼ぶモリタ君
2023/8/20
宿を移ることにした。
いや、今の部屋に不満が有るわけではない。
むしろ快適だったのだが、隣に滞在中のタカさんにあまり気を遣わせるのは申し訳ないと思ったのだ。
訪ねて来た私が隣にいると
「じゃあどっか食べにでも行こうか」
という話になり、それが2、3日ならともかく1週間や2週間、毎日ともなれば流石に負担だろう。
タカさんは生活者で、私はあくまで観光客。
「現地の文化を知り、その人達と同じ生活をしたい」
などといっても、やはりそこには明確な違いがある。
時刻16:30。
宿に着くと、オーナーらしき女性が訊ねてきた。
まだ予約した旨が伝わっていなかった様で、説明すると
「部屋掃除するから5分待って」
私も突然だったので、仕方が無い。
どうぞ、と通された部屋の鍵は壊れており、施錠出来ないことは無いが、何度かドアを揺らすとすぐに開いてしまう。
ちなみに今回もまた個室だ。
『まぁ後で対策を考えるとして、とりあえず落ち着こう』
そう思い荷物を置き、冷蔵庫を開けると、中には前客の残し物らしき腐った飲食物がパンパンに詰まっていた。
異臭が酷い…。
しかし使える物も残っていた。
未開封のヨーグルト、パン、プロテインドリンク。
腐敗物を外のゴミ箱へ持って行こうとすると、オーナーが私に話しかけてくる。
「ごめんね、冷蔵庫に物が入ったままでしょう?」
わかってんなら片付けろや…
一通り冷蔵庫を整理すると、視界の端を横切る黒い影。
ゴ○○リだ。
すかさず殺虫剤で駆除。
『そりゃあ出るよな…』
宿はジャングルの様な林の中。
個室とはいえ1泊1,400円の安宿だ。
それでも、いつもの1.5倍の値段だが。
腐敗物も虫も片付け、シャワーを浴びようと服を脱ぎ、部屋に入る。
その瞬間
「ガタガタッ」
と、物音が。
反射的に目を向けると
鏡の裏から見た事もない生物が飛び出てきた
「ふぅおおおおおおんっ…!」
私は息を吸ってるんだが吐いてるんだか分からない、裏声混じりの高音な叫びを上げた。
齢40にもなろうというオッサンが、人生で一度も発したことの無い、至極ダサくて情けない声だ。
これがもし初デートなら、一瞬で相手の気持ちは冷めて終わるだろう。
しかし、なんだコイツは…
俺の足よりデカい…
30cm位あるぞ…!
これまで、ゲッコーはいくらでも見てきた。
部屋の壁沿いを素早く動く、所謂ヤモリだ。
体長数センチ程、せいぜい大きくても10センチ位だろうか。
最初こそ驚いたが、今はもう当たり前で気にもしない。
だがコイツは桁違いだ…!
体長も太さも比にならない…!
どうすんだよコレ…
シャワー浴びれねぇよぉ…
ひとまず、殺虫剤を噴射してみるがビクともしない。かと思うと、このカラフル模様の生物は、その大きさからは想像もつかない速さでシュルシュルシュルッ!と壁を渡り歩いた。
マジかよ…
走攻守、最強じゃん…
完全にシャワー体勢だった私は再びパンツを履き、長袖にブーツと装備を整え、この強敵に立ち向かう。
ダメだ、防具だけじゃ何にも出来ない
何か武器を…
どうにかして窓から出ていってもらいたいのだが、多少ツンツンしても全く動じない。
私は作戦を変え、テレフォンを使う事にした。
電話先はラオス、タイでお世話になった旅仲間のアリキ君だ。
彼は民族だけでなく、こういう動植物にも詳しい。
少なくとも、私にはそういう印象だった。
画像を送り、聞いてみるとアリキ君からすぐに返信が。
どうやらこの異様な生物はトッケイヤモリ、通称トッケーというらしい。
この瞬間から私の中で、モリタ君という名前が付いた。
こういうモリタ系統の生き物に慣れているアリキ君は、トッケー画像にウキウキな様子で
「噛みますけど、金○マ噛まれなきゃ大丈夫っすよ♪」
とメッセージを送ってくる。
いや…俺これからシャワー……
「触れそうなら触ってみてください♪」
絶っっ対に触りたくない…!!
そんなやり取りを何度かしているうちに、このモリタ君について少し分かってきたのだが、どうやら彼はタイで食用とされ、薬にもなると信じられているのだとか。
また、鳴き声を7回聞くと幸福が訪れるという言い伝えもあるらしい。
「仲良くシャワー浴びてください♪」
そうメッセージをくれたアリキ君に私は
「う、嬉しいなぁ…幸せになれるかなぁ…」
と返事をして終わり、再びパンツを脱いだ。
そして景気付けにと、ウイスキーの栓を開ける。
酔ってなきゃ立ち向かえない…!
いざ決戦の場、シャワー室。
裸にGoProだけ持った変態仕様の私は、一瞬たりともモリタ君から目を離さず、彼も私を見つめて譲らない。
……ちょっとお湯をかけてみる。
動じないモリタ氏。
『やっぱり逃げてくれないか…』
諦めた私は、目を見開きながらシャンプーをし、顔を洗い、ボディーソープをタオルにかける。
その間一歩も動かず、私の裸をずっと見つめるモリタ君。
モリタ君……!
流石に少し慣れてきた私は少しだけ、ほんの少しだけモリタ君に心を許す様になり、バスタオルで身体を拭く頃には心の中で
じっとしてくれて、ありがとう…!
と彼に伝え、金○マを噛まれる事も無く部屋を後にした。
モリタ君の鳴き声は
一度も聞くことが出来なかった