平成の都市開発を振り返る(その2)

■震災・災害への対応

 自然災害が多い国ですが、平成の30年間にも大規模な自然災害がほぼ毎年、全国の何処かでありました。しかも、火山の噴火、豪雨、大地震、洪水等とあらゆる自然災害に見舞われました。
 特にその中でも、阪神・淡路大震災と東日本大震災を含むこの平成は災害の時代であったことが記憶に残ります。
 これらにより大きく被災し、甚大の被害を受けましたがその都度、関係者の尽力により、乗り越えてきました。また、関連の法制度もかなり整備されました。
 主な震災・災害を下表に記載しました。地震が目立ちますが豪雨による災害も増えていて、被害も甚大になっています。災害が起こるたびにその教訓を次の災害対策に生かして来てはいますが、同じ地区で同じ被害を受けているケースも多々見られます。
 最近では6月18日に山形県沖でM6.7、最大震度6強の地震がありました。不幸中の幸いで死亡者は無く、甚大災害ではありませんでしたが、該当自治体や住民は他の経験なども踏まえて迅速に行動したようです。たとえば、羽越本線では今川駅 - 越後寒川駅間に緊急停車した特急いなほ13号は、停止位置が海に近かったことから、乗務員が乗客51人を近くの高台に避難させ、同じく坂町駅に停車中だった普通電車も乗客14人を高台に避難させたとのことです。これは東日本大震災の三陸鉄道被災の教訓であり、日ごろの訓練が迅速な行動に繋がったと思われます。

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■阪神・淡路大震災と東日本大震災

 以上のように平成だけでも多くの大災害がありましたが、何といっても阪神・淡路大震災と東日本大震災が多くの人々の心に残っています。
 両震災はそれぞれ特徴がありますので、それらに応じた対応策がとられました。そして、その経験が次の震災対応への教訓として法制度や市民の心構えなどとなっています。
 ここでは関連の法制度について記載し、その後で、私が提案した取り組みなどを紹介したいと思います。
 阪神大震災は大震災発生可能背が低いと言われた想定外の地域での発生であっため驚きでありました。地震発生予測の困難さを改めて知ることになりました。
 阪神・淡路大震災が起こった当時、出張先のドイツのハンブルグのホテル内のTV放送で「日本が燃えている」と伝えられ、驚愕した覚えがあります。異国の地で日本の大災害を見るのはつらいものでした。
 両震災の概要を比較してみました。いずれも未曽有の被害でしたが、阪神・淡路大震災は都市型であり建物の倒壊等が集中的に起こりました。一方、東日本大震災は津波により東北地方を中心にした沿岸一帯の非常に広範囲な地域が被災しましたし、さらに、原発の被災がさらに被害を深く、複雑なものにしてしまいました。
 原発の被災は直接的には本体自体ではなく変電機の不適切な配置による間接的な被災でしたが、結果的には水素爆発を誘発し、放射能被害となってしまいました。これにより、被災者が帰還困難となり、風評被害という新たな被害と重なり復興が遅れてしまいました。また、原発への不信が増強し、エネルギー政策自体の見直しも迫られることになりました。まだまだ、復興の過程ですが、この経験を次世代に伝え、活かしていくことが我々の使命だと思います。原子力発電にはいろいろな見方がありますがもし編電機が高台に設置されていれば原子炉は適切に冷却され、あのような深刻な問題にはならなかったと思われますので、本件により原発政策自体に甚大な影響を与えてしまったことが残念です。

「被害状況の阪神・淡路大震災との比較」

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出典:復興の現状と課題(令和元年5月 復興庁)
出典:https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat1/sub-cat1-1/material/2019.05_genjoutokadai.pdf

 阪神・淡路大震災は都市型災害として未曽有のモノでしたが、復興計画の大枠が発生後2カ月後には専門家の指導の下、住民の参加を得て作成されたことは特記すべきことだと思います。
 建築制限期間としての2カ月はその後のまちづくりの準備期間であり、その間に策定できたのは神戸市という都市開発・基盤整備等の実績があり、さらに住民参加も含めたまちづくりの経験豊富な職員が潤沢であったことに起因すると思われます。また、地元及び全国の大学関係者等との連携も比較的円滑に進められたことも背景にあると思います。大学関係者はともすれば地域の事情よりは自らの研究テーマとしての取り組みが前に出がちであり、最後まで責任を持つことができませんので地域住民との齟齬が発生することが多く見られます。一部ではそのような場面もあったようですが、自治体職員の経験により住民と学識者、行政をうまく繋ぐことができたのではと思われます。
 復興の過程は大きく言えば、「インフラ復興3年」、「住宅復興5年」、「人口回復10年」と言われていますが、高速道路の倒壊も含めたインフラ被害を3年間で復旧したことは素晴らしい実績です。人口は10年後には概ね回復したものの、経済面では従業者数や事業者数は震災前には届いていません。さらに、神戸港の港湾機能は大幅に低下し、復興の間に他国へと機能が移転されてしまいました。
 関西地域全体の経済低下の影響もありますので難しい面がありますが、それでも一定の回復がなされたことはさすがというべきでしょう。
令和に入り、関西経済は復活の兆しを見せていますし、新たなまちづくりへと羽ばたくことと期待したいものです。

■大震災の教訓

 災害は大きな傷跡を残しますが、同時に、その後の災害対策に大きな教訓も残しています。それぞれが大きな災害であり、様々な状況とその対応に関する教訓が得られますので、それらは膨大な量になりますが、個々に関連資料としてまとめられています。例えば、都市型の大震災であった阪神・淡路大震災に関しては発生後4年後の1999年(その後も適宜追加されている)には、教訓となる情報資料集が内閣府によりまとめられています。当時、発災対応から復旧・復興に携わった公的機関や防災専門家をはじめジャーナリスト等のマスコミ関係者、あるいは被災者自らによって多分野にわたり様々な情報が発信されてきましたがそれらの文献が10,000点を超えており、それらから「震災によって発生した事態」、「それに対する対応」、「その事態や対応における課題」を教訓情報として収集し、これらを理解しやすいかたちで整理し、とりまとめたものです。その後の対策に大いに活かされています。
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/hanshin_awaji/data/index.html#anc01
ここでは、下記の4つの発災後の時期区分に分け、更に適宜中区分及び小区分を設けて整理されています。
第1期・初動対応(初動72時間を中心として)
第2期・被災地応急対応(地震発生後4日~3週間)
第3期・本格的復旧・復興始動期(地震発生後4週間~6ヵ月)
第3期以降も続く課題(地震発生後6ヵ月以降)
 これは多くの情報を広く取集しており有用なものですが、客観性を重要視したこともあり、個別具体性にはやや物足りない面もあるため、その後の東日本大震災の発生まとめも踏まえて、さらなる関連情報を集約・発信する動きも見られます。
 震災の渦中で大活躍された室崎教授は来年1月の発生25年目に向けて「25年史」をとりまとめるとのことですが、実際に専門家として携わった具体的な事象が整理されるとさらに後世に有用な教訓となるのではと期待しています。

 さらに2021年5月には大震災後につくられた「まちづくり支援機構」の発展形として、建築士や弁護士、技術士などの専門家が大災害時に連携して、被災者支援や復興支援に取り組むための全国組織である阪神全国災害復興支援士業連絡会の設立大会が解されました。被災後継続的に関係者が尽力している成果です。

■関連法制度の動向

 災害からは逃れられない我が国としては災害に対する予防、応急そして復年旧、復興までの一連の対策を切れ目なく、効率的に実施することが必要であり、そのためには国や自治体による公的支援が重要です。
 それらの多様な支援の根拠となる関連法制度が極めて重要となりますが、災害を経験する度に必要な法制度が制定され、改正されてきました。
 災害対策の最も基本的は法律は「災害対策基本法」です。
 この下に予防・応急そして復旧・復興関連の所法制度が整備されています。災害対策基本法は伊勢湾台風(1959年)を踏まえて、1961年に策定されましたが、基本的には風水害を念頭に置いていましたので、建築物の倒壊等による大きな被害は想定していませんでした。
こ の視点から、大震災の教訓から成立した法制度の具体的な事例として「マンション建て替えの円滑化に関する法律」をそしてソフト面から「NPO法」について触れてみたいと思います。


<マンション建替え円滑化法>

 阪神・淡路大震災では約5000棟の分譲マンションがあり、建て替えの必要な分譲マンションは、約130棟一万戸にのぼりました。当初はマスコミでは合意形成等多くの困難があり、建て替えの困難さが強調されましたが、臨時措置による救済もあり、再建方針が立たなかったものは意外と少数でした。とは言え、大きな問題でした。建て替えの課題は建て替えのための合意形成に集約されます。権利者の事情は個々で異なり、特に資産、収入面の違いが建て替えに要する負担への対応に影響します。
 このマンション建て替えは今後の都市型災害のさらなる大きな課題となるとともに、平常時においてもマンションの老朽化や耐震化等を背景に建て替えが必要になってきます。
 このため、平成14年に律「マンションの建て替えの円滑化等に関する法律」が災害による建て替え、耐震性不足のマンションの建て替えなどを円滑に進めるために制定されました。
 その後、平成25年に改正が行われて、「マンションの建替え等の円滑化に関する法律」へと名称が変更されました。法律の改正で、耐震性不足のマンションに関しては、マンション敷地売却制度の創設(4/5以上の賛成)や容積率の緩和により、新たなマンション建て替えが可能となりました。
いままでのマンションの再生方法は、補強か建て替えの2つの方法しかなかったのですが、この改正により、第三の方法としてマンションの敷地を売却して資金を得ることができるようになりました。東日本大震災で被害を受けたマンションの中には、被災マンション法を適用して、4/5以上の多数決で敷地を売却したマンション事例もあります。
 建築関係では耐震基準については改正がされませんでした。1981年の新耐震の建物については倒壊等の大きな被害が少なかったからです。旧耐震の住宅はかなり倒壊して、多くの死亡者が出ましたので、耐震補強の補助制度や家具などの固定の必要性等が認識されました。このため1995年12月には「耐震改修促進法」が施行されました。この対象は旧耐震建築物等ですが、新耐震も十二分では無いため、基準以上の耐力を持たせるに越したことはないと思います。

<NPO法>

 また、阪神浅地大震災では多くのボランティアが参加して、大きな役割を果たしたので「ボランティア元年」とも呼ばれました。1990年頃からボランティア活動や市民活動等のまちづくりなどへの市民の参加やその役割そしてそのための法制度等の議論が盛んになっていましたが、これほど、多くの国民が全国から集まり、瓦礫の処理、炊き出し、避難所での支援等多くの役割を担ったことはなかったと思います。
 NPO法(特定非営利活動促進法)は市民活動を支える法制度として、海外の市民活動等の実態や関連法制度を参考に議員立法で1998年に制定されましたが、阪神淡路大震災での諸活動も大きく影響を与えたと考えられます。その後の震災等では、多様な団体が支援のために地域に入り、その活動はそのたびに洗練され、高度化してきたと思われます。


■東日本大震災復興に向けての兆し

 当該被災地域は面積も広大であり、少子高齢化が進んでおり、震災が起こらなくても人口減少・高齢化が進行して地域の衰退は避けられない状態でいたと考えられますので復興はさらに難易度が高いものがありますが、当時から多くの計画が立てられ、膨大な資金が投入されました。
 発生後8年を経過して、現在、多くの地域では区画整理、防潮堤整備、浸水地の嵩上げ等の基盤整備の段階であり、多くの他地域への避難者は地元に戻らず、将来が見えないままですが、一部地域では行政と民間との連携により、復興が進んでいます。
 石巻市の再開発や大船渡市の取り組みも等、各地で成果が上がっていますが、その中で参考となる2つの例を挙げてみます。

①女川町の復興

 女川町は宮城県の小さな漁港町ですが海岸沿い一帯に大きな被害を受けました。人口も従前の約1万人から約6千人へと減少しました。震災発生後、各地で復興の兆しが見えてきましたが、その中でも女川町は行政・地元・外部コンサルタント等の官民パートナーシップ(デザイン会議等)により地域の再生が具体化している数少ない地域です。
 再生の目的は単に元の姿に戻るというものではなく、さらに本来の将来像を提示し、それに向けて地元の行政や企業が中心となり、外部の専門家と連携して実現化に向けて取り組んでいます。特に女川駅及び駅前一帯は「レンガみちとシルビーピア女川」という優れたデザインの街並みを形成し、地元の商店等により活気をとりもどしています。この「女川駅前レンガみち周辺地区」が平成30年度の都市景観大賞「都市空間部門」で最高賞の国土交通大臣賞に選定されました。

「女川駅前一帯の風景」

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出所:平成30年度「都市景観大賞」(都市空間部門)応募申請書(女川町)

 これは区画整理後、デザイン会議のアドバイスの下に公共が中心に整備したものですが、近接の地権者もこのデザインに沿った建物を建設していますので面的な街並みが形成されつつあります。このように単に目立った独りよがりのものではなく周辺に影響を及ぼすようなデザインが重要です。
 2018年には視察ツアーを行い、現地を見て、行政担当者に詳細にお話を伺いました。

②リアス鉄道の復興

 リアス式海岸沿いを走る「三陸鉄道」も大きな被害を受けましたが、発生5日後には久慈・陸中野田間で運行再開し、3年後には南北リアス線全線が開通しました。さらに、山田線が平成31年3月に三陸鉄道に移管されることにより、南北リアス線と繋がり、リアス線として一つになり、全線163kmの日本一長い第三セクター鉄道になりました。
 従前から厳しい経営状況にあり、将来的には廃線も危惧されていましたが、震災を乗り越えて、新たな展望が開けていると期待されます。三陸エリアのリアス式海岸の風景の価値を再認識し、観光鉄道として様々なアイデアが出されています。
 当該地域全般として人口回復は難しいため、定住人口では無く交流人口を軸とした観光戦略のインフラとして大いに活用が期待されます。

■復興への提案(私案)

 阪神淡路大震災の際には海外出張(ドイツ・ハンブルグ)から帰国した後も何もできませんで忸怩たる思いでしたが、東日本大震災に関してはわずかですが提案を致しました。
 国は震災発生時当初から素早く集中的・迅速に各エリアごとに現状把握調査を実施し、被害状態を把握するとともに、津波で流された地域の土地の権利者の把握そして土地区画事業の計画や高台地区での新たなまちづくり計画等を自治体とともに策定しました。
 また、民間での取り組みも迅速でした。例えば、日本政策投資銀行では震災発生後2ヵ月後の2011年5月には「東日本大震災の被災状況と復興への課題~現地写真・分野別エリア別分析~」を取りまとめています。これには資本ストック被害推計・人的被害(死者、行方不明者、避難者数等)の現況とともに復興への課題が記載されており、さらに、産業別に基礎データ、被害状況と復興への課題がまとめられています。
 仮住居の建設は阪神淡路大震災の経験を活かして迅速に行われました。入居者はできるだけ従前のコミュニティを存続させたいとの意向も強く、早期に選定することはかなり困難のようでしたが、結果的には仮居住者達はすぐに新たなコミュニティを形成し、帰還する際には逆にこれが足かせになった地域もあったようです。もちろん、一人暮らし等により体調を崩すなどの問題も発生しましたが、8年を経てようやく仮住居も整理されつつあります。

 このような状況の中で阪神淡路大震災の際には海外出張から帰国した後も何もできませんでしたが、東日本大震災に関しては提案を致しました。
 検討した2つの提案を簡単に紹介したいと思います。これは単に当時検討していたことの正当性や実現しなかったことの後悔ではなく、かつて、こんな提案があったことを念頭においていただくことにより、今後、大きな災害があった際に役に立てられればと思うからです。

①「仮のまち」から恒久的な「新生自治体・都市形成」へ

 原発事故の影響により、被災地では当面居住出来ない地域が相当発生し、住民は県内外の各地に転居せざるを得ませんでした。それを受け止めるためにできるだけ被災地に近い地区に「仮のまち」をつくるという考え方が広まりました。
 「仮の町」とは従前のコミュニティや行政サービス水準を極力維持しながら、帰郷するまでの間の生活拠点を形成するという考え方とされています。(当初、当事者からは「仮の町」との表現はしておらず、良い響きではないのですが、復興庁が『「仮の町」構想で、関係省庁の課長級で構成する長期避難支援チーム(仮称)を設置し課題の抽出に取組む方針を明らかにした』ため、ある意味、正式的な呼称となったとも言えます)。
 帰還困難地域等の状況から長期に亘る仮住まいが想定されることから考えられましたが、そうはいっても恒久的な取り組みではありません。結果的にはいわき市等の一部にそれらしきエリアが想定されましたが、具体の展開にはなりませんでした。
 他の地域に転居した方々は転居先が新たな生活の拠点になってしまいます(特に小中学生の居る世帯)ので、一定期間を過ぎると元には戻れなくなります。また、高齢者も気持ち的には戻りたくても事実上戻れなくなるのが実態です。
一定水準の生活拠点としての「仮のまち」を形成し、その後に、そこから元の居住地に戻ることは事実上、無理なことと思われました。しかし、当時は表向きは出来る限り元の生活に戻ることが共通の目標となっていました。他に移ることを推奨することは故郷である被災地を捨てることと捉えられていまいますし、自治体首長は高齢者を中心とする帰還希望を無視することは出来なかったと思います。
とはいえ、仮に元に戻せたとしても衰退傾向は変わるわけではないことは多くが認識していたはずです。
 そこで、思い切って、当該被災地に近接して、災害の可能性が低いエリアに新たなまちをつくることが考えられます。福島等にはかつて、首都移転候補地がありますので、例えば、このエリアを対象にして世界に誇れる新しい都市を形成することは十分有用だと思います。自然を生かしたクラスタータイプ、ゼロエミッション、資産価値のある住居、農と都市との融合、災害研究機関の誘致等のコンセプトそして国際コンペにより世界の注目と英知を集める等として、被災者の転居先というばかりではなく、全国さらには世界から人や機能を誘致する受け皿とするのです。今後、大きな災害があった際には  このような新たな都市形成も念頭に置いて支援方策を講じることが重要かと思います。さらに言えば、いずれ来る災害に備えて今から新たな都市開発を始めても早くは無いと思います。人口減少時代に無駄との意見もありそうですが、真に価値があり、世界から人・機能を呼べるエリアを新たなコンセプトで形成することは必要・有効だと思います。
 当時考えた内容は下記にそのまま置いてあるので見ていただければと思います。
https://sites.google.com/site/citymuramasa/

③第二の故郷構想 -避難者受け入れ地域とのwin-win事業-

 多くの被災者が被災地から他の自治体に一時的に避難しました。特に温泉街では多くの避難民を受け入れて、手厚く支援をしたことは記憶に新しいところです。温泉街という特性を活かして居住、食事等十分な手当てができました。しかし、一段落すれば他の地域に転居する必要がありました。
 もちろん、すべてというわけにはいきませんが一部でもそのエリアに永住することもあり得ると思います。受け入れ先も衰退地域であり、少しでも居住者や利用者が増えることは有用ですし、避難者もそこに定住できればその日から安心して暮らすことができます。
  このような考えのもとに会津若松市の避難民を受け入れた温泉街と同市内の大熊町回居住者を対象にして、両者がwin-winになる提案をしてみました。
具体的には、受け入れ先の宿泊施設の一部をリノベーションして恒久的な住居とすることです。温泉街はかつての賑わいがな空いている建物がかなりありました。その中で一部、有能な旅館再生者により復活しつつある地区があり、そこを軸に展開しようとしたものです。その経営者はこれにより温泉街全体への波及効果もあると考えて積極的に取り組みましたし、市サイドも地域活性そして被災者の恒久的支援になるということで前向きでした。これがうまくいけば他の宿泊施設においても適用できるはずでした。
   一方でアンケートやヒアリングで被災者の状況や考えも調べました。仮居住者は遠方まで行けない、出来るだけ元居住地の近くに戻りたいと話す方が多かったのですが、本音は大半が戻りたいが戻れないだろうと思っていました。
  町の調査では戻りたいとの回答が多かったため、町長をはじめ町としては除染などに時間を要しても原則帰還として計画が策定されました。当時の状況からは町の対応は当然だったかもしれません。しかし、避難者は冷静に状況を判断していました。気持ちと現実が違うことを理解し、域外に転居出来る方々は出て行ってしまいました。
  出るに出られない人達が残ることになるだろうと想定される中で国・自治体そして宿泊施設の連携の中で住まいの提供を検討しましたが、町は転居を推奨できないため、国、県、市は協力の姿勢が取れないまま当時の検討は終了しました。

「未利用宿泊等のリノベーション事例(農地付きタウンハウス)」
  ∸従前に農家であった高齢世帯用の居住タイプ-

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出所:官民連携による長期避難者支援に関する検討業務報告書(平成24年3月 国土交通省総合政策局)

 本件は避難者を受け入れた旅館をベースに温泉街と被災者とのwin-winの関係を構築するプロジェクトでしたが、中心市街地等でも応用が利くと思います。中心市街地では多くの空き家等が発生していますが、外部からの転入を促すことは難しい面があります。しかし、被災者の場合は原発事故による帰還困難のみではなく、がけ崩れや浸水の危険地域であるなどの場合は転居せざるを得ないケースや被災を契機に転居して新たな生活をスタートさせるケース等があり得るため、それらの方を地域で受け入れて協働的にまちづくりを進められる可能性があります。





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