言葉にしてみる
前に比べて感情や思考を拾わない。
先にちょっと面倒に思われることが予定されているならば、その瞬間まで気にしない。
誰かの問題はその誰かにお任せして気を揉まない。
エネルギーを使うところ、使わないところを選ぶようになってきた。
不安に巻き込まれないのはまだ練習中かな。
先日のリトリートの後に巡礼ツアーと称してスワミジと一緒に色んなところへ行ったのですが、西湖に行った時に
みんなで小声ではあるけれどオームを唱えたり瞑想したり、一般の方から見たら異様で少し警戒されるようなシチュエーションがあった。
近くを歩く人たちの声が聞こえる。「なにをやってるんだ?」「通報しよう」と聞こえてくる。ドキドキドキドキ。
しかし思い直す。
「あれ?こっちには覚者がいるのよね?諏訪さんもいる。わたしごときが心配する必要あるのか??もしそれが必要ならば必要なことが起きるだけだわ。そうそう、これがわたしのパターンだな。」
無理することもなくただ気がつく。止めようともしない。あんなにこだわっていたこともどうでも良くなる。
そして何も起こらない。
そこに居た釣り人は集合写真を撮りましょうか?とまで言ってくれた。
そんなレベルのものなんだな。
刻々と変わる景色。心の色。
ちょっと引っかかった誰かの態度や言葉も「ま、いいか」と流れていく。
ポリシー、正義など思いやりだと思っていたことも全部、ただ自分のためのものだったんだと思う。
あんなに誰かのためを背負って頑張っていたのだけれど、その人に任せればいいのだ、その人の問題だと手放すこともできるようになった。
わたしは力んでいたんだなあ。
世界でも救うつもりだったんだろうなあ(笑)
良い人って下手すると誰かの甘えを助長してしまうのよね。そうやって誰かの甘えや都合を自ら好んで背負って背負って自分を置き去りにしてきた。
誰かの肩代わりもしないけれど、自分のためにも頑張ることはしなくなった。
気を揉まないし、自分の力でなんとかしようと努力もしなくなった。
なるようになる。宇宙がわたしをいいように使うからお任せする。瞑想をしてヒマラヤの神々、アヴァター様やババジ、スワミジに繋がっておく。
エゴを入れず空っぽになることだけを意図する。そのために瞑想をする。
人間的なわたしの感情が面倒だなと思う結末な時も当然起こり得る。そんな時はそれが必要なのだと考えて受け入れる。
感情は出来事に反応する。でもそれは表面的なわたしだ。
深いところに平穏があり、大いなる流れに委ねると、与えられているものの素晴らしさも理解できてくる。
世界はどんどん美しくなる。ご縁や起きてくることの有り難さを思い知る日々。
本当に本当にご縁に感謝なのだ。今日の空も美しかった。
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