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【23-11-25】本と、音楽。意識の流れ。:悲願、ごはん食べながら本を読む。

●ある日とつぜんテレビが壊れたため家の中がとっても静かである。静謐といってもよい。そして、ごはん食べながら本を読むという悲願がかなう。って、のんきに構えている場合じゃないよ、ドラマどうすんの。チューナーはハードディスクドライブなので予約してるのは録っててくれて欲しい。あとはNHKプラス、TVerか。ある意味便利な社会ではある。ってなことを言っても多くの人はテレビなんて観てないんで、なにそれって感じかな?いやホントに観てないの?なんで観ないの?家康とか下剋上とかセクシーとかブギウギとかONE DAYとかミワさんとか孔明とか、すきな花とか弁護士とか、なに食べたとかフェルマーとか映像の世紀とか72時間とかアド街とかなんで観ないの?とか詰め寄ると、じゃあなんであなたはyoutube観ないんですか?って水のかけ合いになるな。うん議論はよして新しいテレビが来るまで本を読もう。
●ごはん食べながら読むとか言っててまず手に取ったのはこちら『日本お菓子クロニクル』(日本懐かし大全シリーズ編集部/辰巳出版)。ごはん食べながら読む本命でも本旨でもないけどおもろいからまあいいや。ジャケ写にあるような感じで昭和から平成までのお菓子について全体網羅性が絶妙のバランスでピックアップされている。資料としての完成度はけっこう高いんじゃないかな。70-80年代のをみてると、そのときの自分がどんなだったっけ、みたいなことが甦ってきて、なんか生きた証っぽい気がして気づいたら買ってましたという代物ですね。お菓子が生きた証って……。

日本お菓子クロニクル 表1
日本お菓子クロニクル 表4

●次に手にとったのは『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』(大谷能生/フィルムアート社)。本命&本旨っぽい。『東京大学のアルバート・アイラー』とか『植草甚一の勉強』とかはふつうに読んでいるとはいえ音楽の人なので、その彼が言葉の本とは、いい意味での違和感がある。もちろん不安もある。こういう本は「目視」して買うしかない。どういうことか。
わりと多めに本を買っている方だけど何から何まで買っているわけではなくて、こう見えて中をいちおう確認してから買っている。目視とはそういうこと(だから書店は重要である)。もちろんあらためて確認する必要のないもの(例えば、町田康の『ギケイキ』とか)や、これ現場で探すの大変かもと思われるもの(グッドマンの『世界制作の方法』とか)はAmazonを利用することもあるが、まれである。いま調べたら今年はAmazonで22冊しか買ってない。じゃあ現場では何を目視しているのか。4-5回ザッピングしたときに目に留まるキーワードは重要な指標だ。『〈ツイッター〉にとって……』はこのパターン。タイトルだけみるとやや社会批評っぽいじゃないですか。そんなのなら別に読まなくてもいいかなと思ったのが先ほど触れた不安。を、払拭したのはこんなキーワード。「言語にとって美とはなにか」は言うまでもなく、「精神現象学」、「明るい部屋」、カフカ、ヴィトゲンシュタイン、「声と現象」=音声中心主義、橋本治、本居宣長、フーコー「言葉と物」and so on。これは即レジでしょう。じっさいに冒頭の、菅谷規矩雄という詩人から引いた、日本語のリズム的原則、「等時拍」「無音の拍によるグルーピング」「音節数の組み合わせによるテンポの変化」の話とかめっちゃ面白くて箸が止まる。そう、ごはん食べながらこんな読み方したかったんだよ!悲願達成。

『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』(大谷能生/フィルムアート社)

●もう食べるものもなくなったきたけど、せっかくなので本を変えてみる。『文学のエコロジー』(山本貴光/講談社)。山本貴光氏はもうほぼ全幅の信頼ですね。なにが信頼を支えているかというと、よくわからない本を書くところです。正しく言うとこれまでのどのカテゴリーにも当てはまらない本を書く。例えば、『文体の科学』、『世界が変わるプログラム入門』、『「百学連環」を読む』、『文学問題(F+f)+』、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』『人文的、あまりに人文的』。書店員を悩ませるどこに置けばよいかわからない本。鈍器本は市民権をえてきたけど対置するなら強記本(狂気本)。で、『文学のエコロジー』は、どんな本か。

「ある文芸作品に描かれた世界が、どのような要素とその関係からなるのかというエコロジーを見てとる。」
「作品になにがどのように記されているかを見てとる目を養うと、おそらく日頃普通に小説や詩を読むときの目も複雑になる。平たくいえば、いっそうよく味わえるようになる。(……)そのように読む目が養われると、ものを書く目も変わるはずである。」

『文学のエコロジー』

つまり、

「ある文芸作品に記された世界がどのような場所なのか、そこに登場する人物や事物は、どのようなものなのか、そうした関心から作品を眺めてみたいのであって、解釈や評価にはあまり関心がないのだった。」

『文学のエコロジー』

どうですか。文芸批評じゃないんですよ。ある意味、唯物的といってももいい。善悪ではなく、そこに「在る」ことの意味を称える読解なのかもしれない。そんなこと言っている論を私は知らない。もしかしたら退屈になってしまいそうなテーマを山本貴光はとても楽しそうに料理している。だから楽しい。というところで食べるものもなくなったので、食べながら読書は終了。

『文学のエコロジー』山本貴光

● 『臨床のフリコラージュ』(斎藤環×東畑開人/青土社)、『私の先生』(大澤真幸/青土社)もテーブルに載っていたけどこれはまた別の機会に。ちなみにフリコラージュはブリコラージュの誤植ではないです。

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