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映画『落下の解剖学』




1 裁判の意義


 この映画を観終わったとき、とても良かった、人生で観た映画の中で一番良かった、という言い過ぎた感想を抱いた。その理由は、表面的には「裁判の意義」について考えさせられたからだ。そして、その奥には、裁判を通して人間が、そして自分が結局は何を求めて生きているのか、人間が集団で生きるということは、社会を作って生きると言うことはどういうことなのかを考える結果となった。さらに、この映画の中で描かれていた様子が違和感の固まりとなって、僕が今まで固めてきた思考や価値観のようなものとガンガンとぶつかり合った。端的に言えば「こんな世界に生きていたくはない」というような拒否感が自分の心の中心に生まれたのだ。裁判という制度はこの社会の中にとても大きな存在感を示しているのは間違いない。悪いことをすれば、裁判によって裁かれるという約束は、自分の行動を大きく制限しており、ましてや日常生活に基準を設けてしまうほどに、影響を持っている。僕は裁判に具体的に関わったことは一度もない。見たこともない。そんな自分が裁判について語るのは滑稽かもしれないが、考えてみようと思う。映画の中では「殺人か自殺か」を明確にするために裁判が立ち上がっていた。そして、「この人なら殺してもおかしくない」という雰囲気が主人公に次々と注がれていく。そして、ずっと「殺人か自殺か」ということだけが重要かのように裁判は進んでいく。これは、カミュの『異邦人』という小説によく似ている。『異邦人』では「事故か他殺か」ということが追求され続ける。お母さんが死んでも翌日に彼女と遊びに行くような人間が、正当防衛によって人を殺すわけはなく意図的に殺したはずだと、そういう裁判の結論に至る。しかし、その真実というのは、客観的にはよく分からないものだ。なぜなら、人柄と殺人の動機の繋がりは証明できないからである。主人公はその議論には納得はいかないが、自分の心の正当性は自分でしか決められないということを悟り、世間がどのように自分をイメージづけようが、自分は自分、自分は自分の人生をこれからも送り続けるだけのことであり、そこへ他人が介入できる余地を与えない。心を強さによって、裁判の不明瞭な結果を乗り越えるという、そういう話である。これは実存主義文学として大いに賞賛された小説である。『落下の解剖学』の主題も、違うところもあるが個人的には概ね同じようなものを感じた。

 『異邦人』も含めて、僕は裁判の意義について大いに疑問に思うのだ。「この人なら殺してもおかしくない」もしくは「この人が殺すはずかない」というようなことを裁判で明らかにすることに違和感を感じるのだ。『異邦人』では、確かに主人公が(意図的かどうかは別にして)殺したことが分かっている。『落下の解剖学』では、主人公は殺していないことは分かっている。裁判の結果としては、殺したら罰せられ、殺さなかったら罰せられないという、どちらも、とてもシンプルな結論に至っているのであるが、裁判中に問われるていることは、それが中心にはないような雰囲気がある。「この人なら殺してもおかしくない」もしくは「この人が殺すはずかない」である。


2 法の意義


 法は、もしくは法律は、そのような人間性の評価をすることはできるのだろうか。法の意義もとても考えさせられる。法というと、僕の場合は三つの観点から考えさせられる。一つは「自然の法則」としての法である。これは例えば、種から芽が出て、花を咲かせて枯れていく、そう言った自然の法則である。自然の法則は言葉にできていようがいまいが、人間が気づいていようがいまいが、常にそこに存在する、そういうものである。自然科学者や哲学者が追求しているのは、こういったものであろう。二つ目は「自己の法則」としての法である。これは「自然の法側」の中でも「自己」というものに視点を当てた法である。「自分はどのような人間か」「自分はどのようなことが好きで、嫌いか」「自分は何が得意で、苦手か」「自分はどのように生きていくことが楽で、苦しいか」「自分にとっての善悪とは何か」と言ったような、自分を主体にすることで分かる「自己の法則」である。「自分の法則」は「自然の法則」を参考にすることでよく見えてくるものである。三つ目は「社会の法則、組織の法則」である。これは「自然の法則」を参考にしたときに、人間が意図的に、もしくは自然かもしれないが、社会や組織を作る場合に、「どういう社会、組織が良いか、悪いか」と言ったことが分かる法則である。つまり、どの「法」も、自然の中から見出されるべきものであるということだ。自然か、不自然かが問題なのである。法に「善悪」といった二元論は存在しない。自然そのものが法という訳である。

 そこで人間は「法律」というものを定めている。法律は「社会の法則、組織の法則」を基にして作られているものだと思う。法律には「善悪」が大きく関わってくる。法律を破ることはいけないという、一旦のお約束と言うわけだ。ここからは僕の意見だが、この法律を定めることは、重要であると思う。理由は、全ての人間が「自然の法則」「自己の法則」「社会、組織の法則」を見出して、上手に生きられるとは思えないからだ。法律がなかったら、たまにはやましい気持ちが起きて、人を殺してしまうかもしれない。全ての人が「自然の法則」「自己の法則」「社会、組織の法則」を見出す機会を守られるべきだと思う。つまり、法律とは、僕の「命」と「人権」を守るために必要なものであると考えられる。僕は「自己の法則」を見出したい。とても見出したい。しかし、少し苦戦しているので、これからまだまだ時間がかかりそうだ。その時間を確保したい。しかし、殺されたら自己の法則を見出す時間が無くなってしまう。僕にとって、殺人の「抑止力」として絶対に法律は必要なのだ。

 ただ、法律は裁判においては「抑止力」ではなく「判断基準」として用いられる。映画の話に戻ろう。映画で問われることは「この人が殺してもおかしくない」もしくは「この人が殺すはずがない」ということだ。これは、「この人以外」つまり「被告以外の人」の「命」と「人権」を守るための議論である。つまり被告を世に放っても大丈夫か、被告のような人を世に放っても大丈夫かということが問題である。なので、改めて、必要なことであると思う。必要なことであるのだが、その判断することには、つまり「有罪か無罪か」を判断する能力が、本当に人間にあるのかということも問われなければならない。殺さなくても、手を出しさえしなければ、精神的に傷つけてよいのか、例えば精神的な虐待ならどこまでしても有罪にはならないのか、これは判断が非常に難しい。そして有罪とは、被告の未来を奪うことになる。話が少し変わるが、死刑制度がなければ、被告の命は守られるので、僕は死刑制度には反対なのかもしれないと、ふと思った。



3 真実という言葉の不明瞭さ


 述べてきたように、人が他人を裁ける程の判断力を持っているのか、もしくは法律にその妥当性があるのかということが、あまりはっきりしないことが分かってきた。次に、裁判で追求される「真実」について考えてみようと思う。僕は、もし多くの人が「真実」つまり「殺したか殺していないか」についてしか関心を持たないとしたら、それはあまり良いことには思えない。その理由は、真実はそれだけではないからである。例えば殺したにしても、殺すまでの経緯がある。経緯の中には、事象的な事実に限らず、感情も含まれるだろう。また「今までどのように生きてきたのか」「どのような場所で、どのような人と関わってきたのか」といったことも、関係するだろう。つまり、殺したという事実に紐付く真実というのは、キリがないほどあるのである。それを裁判で全て明らかにすることは難しい。だからこそ、「殺したか殺していないか」という話題に絞っているのだろうが、果たしてその話題の絞り方は正当だろうか。もしくは「この人が殺してもおかしくない」もしくは「この人が殺すはずがない」という話題に絞ることは、正当だろうか。『落下の解剖学』では、死に至るまでの経緯に家族とそれぞれの心に大きな問題があったのであり、そこにこそ真実が隠れているように感じられた。しかし裁判に当たっては殺人の話題以上に、大多数が納得できる話題がないだろう、だからこそ、殺人の話題に絞られていることは間違いない。しかし、なにか、もっと、良い話題はないのか、ということを、僕は思うのである。僕は述べたように「抑止力」が必要だと思っているので、「殺したか殺していないか」という話題は避けないで欲しいとも思う。だからと言って、被告が「こんな裁判ならなければよかった」なんていう風な裁判を行ってほしくはない。それは自分が被告になった可能性を考えてのことだ。裁判が「有罪か無罪か」はどちらにせよ、この裁判があってよかったと、そう思える裁判が存在してほしいと思う。



4 人生の意義


 僕にとっての人生の意義とは、「自己の法則」を見出し、それを実行、または表現できるようになることである。それにはとにかく時間が必要である。その時間さえ守られれば、よい。そのために、僕は他人の時間も守りたいと思う。他人の時間を守るとは、他人を殺さないということだ。曖昧なことを言えば、お互いの人権を守るということである。しかし、人権というものは人に守られるものではなく、自分で獲得するものだということも今までの人生で学んできた。僕は殺されない、それ以外は全て自分次第という訳である。子どもには人権を獲得する能力がないという考え方もあるが、子どもの人権も守られる訳ではない。子どもも大人になる。殺されなければ、大人になってから人権を獲得することができる。細かいことを言えば、働くのも働かないのも、自分次第である。労働の義務など、小さなことだ。憲法などいつでも変えられると思って生きたい。労働契約など、ただの紙である。契約など、いつでも白紙に戻して、自由に変えられると思って生きたい。生命保険に入るのも、入らないのも自分次第である。保険など、入っても入らなくても、人はいつか死ぬ。それだけである。この人のために心から保険に入りたいと思う相手がいないかぎり、保険など入る必要性がない。

 大切なのは自己の法則に従って生きるということである。自己の法則を見出す方法は、とても難しい。そして、僕は自己の法則を見つけにくい人種なのではないかと、そのように感じている。僕より単純な人にはたくさん出会ってきたが、僕より複雑な人には数人しか会ったことがない。僕のことを完全に理解できる人に出会ったことはない。複雑な人間というのは、曳かれたレールの上を走らない。自分でレールを作り、ただ一人でそのレールの上を走るのだ。だから、単純な人間とも合わないし、複雑な人間同士も、別々の道を進んでいるので合わない。そこで参考になるのは、自己の法則のみである。だからこそ、自己の法則を見出す必要があり、それ以外に人生の意義を見出すことはできないのである。


5 あってよかったと思える裁判


 裁判を行うのであれば、「この裁判があってよかった」と思える裁判が行われ続けてほしいと思う。その明確な方法は不明である。述べたように、裁判は裁判の内容に関係のない外側の人々の命と人権にとって、抑止力として必要なのものだが、裁判の内部の人たちにとっても、せっかく裁判をやるのであれば「この裁判があってよかった」と思ってほしいと思う。それは自分が被告になったときの可能性を考えての事である。僕が個人的に考えるに、あってよかったと思える裁判とは、原告と被告が納得して終わるということである。以前読んだ本で、「自白と有罪はセットである」と書かれていたのだが、これは裁判のあり方を至極捉えていると思う。自白をするということは、つまり「自分が悪かった」と認めることである。どんなに悪いことをしたとしても、裁判を通して「自分が悪かった」と思えることは、人間として大きな成長である。法を構成している「自然の法則」「あるべき自然の形」から、自分が逸脱していたことを自覚して、学び、次に進むことができる。また、原告(検察側)に関しても「自分が間違っていた」と思うこともまた同様である。有罪か無罪かという問題は、とても繊細な問題である。裁判がディスカッションではなく、有罪と無罪に別れてディベートをする形式になっている理由はよく分からないが、世界のほとんどの裁判がこの形式になっていることを考えると、ベターな形式の可能性が高いと思われる。しかし有罪と無罪に別れるにせよ、そのどちらになるのかを追求することは愚かで、お互いの納得というゴールを見失ってはならないと思う。そういう点で、『落下の解剖学』の裁判は、あってよかった裁判だとは個人的にはあまり思えない。

 僕は映画の中での被告側の弁護士の戦略が間違っていて、それが「こんな裁判ならなければよかった」と思う要因に感じている。弁護士の失敗は、情報操作をしようとしたところにある。つまり、被告が「人殺しなどしない、よい人」に見られるように考えて情報を操作したのだ。例えば、夫婦の仲が悪かったこと、家族の中で問題が起こっていたことなどを隠そうとした。これは被告も然りである。この戦略が裏目に出たのが今回の裁判の反省点だ。反省を活かすには「よい人」ということについてよく考えなければならない。「夫婦の仲は悪かった、家族の中に問題はあった、自分の心も弱かった」ということを正直に認め、その原因による失敗は数多くした、惨めな思いもした、後悔もした、けれど、前向きに生きる道が見つからなかった、しかし、前向きに生きたいと思う気持ちに嘘はない。自暴自棄にもなっていたことに嘘はないし、家族も捨てたいと思ったことも嘘ではない、しかし、それでも生きる道を模索したい気持ちがないわけではなかった。と言うように、気持ちや葛藤を整えて話ができるように弁護士は被告を促さなければならなかった。さらに、そのように「正直に語る人」が持つ「よい人の印象」というものを裁判の中で活用しなければならなかったと思う。これはある意味では怖いことである。弁護士の一つの戦略によって一人の人生が変わるのだから。しかし、それは中途半端な戦略を実行したところで同じである。一人の人間の、被告の正直さを信じ、人は弱いが変われることを信じ、検察や裁判官、陪審員の人間的な良心を信じ、裁判に立ち向かうべきであったのではないかと思う。弁護士が始めての勝訴だと言っていたが、彼には弁護士として人間の心を信じる力が足りないのかもしれない。人を信じられる裁判が繰り広げられれば、結果はどうであれ、この裁判があってよかったと思えるのではないかと考える。しかし、裁判を見たこともない僕の感想には、あまりにも信憑性がない。個人的には人間の良心を信じることがどれだけ難しいかを映画から学ぶことができたので、よしとしよう。



6 まとめ


 最後に情報をまとめたい。

 法律と裁判は僕の命を守る上で「殺人の抑止力」として絶対に必要なものである。裁判の中での法律は抑止力ではなく「判断基準」として用いられる。しかし、その判断基準も、人間の判断力も、裁くにしてはやや信頼に欠けるものである。だからといって、「抑止力」の維持のためにも裁判で「有罪無罪」以外のことを話題にするのは適切ではない。しかし、自分が被告になったときのことを考えて、「有罪無罪」だけでなく、何を話題にするべきかは明確には見えないが「この裁判があってよかった」と思えるような裁判が行われ続けて欲しいと思う。その方法は不明である。法を定める際には、「自然の法則」「社会、組織の法則」の綿密な理解が土台にあるべきだと考えられる。社会や組織が、自然によい方向に流れる、その流れを共通言語に落とし込むということである。それを法律に反映することができれば、その社会や組織はその法律を守る限り、よい社会、よい組織で有り続けることができるという訳である。それには「よい」や「善」という概念についての理解も必要である。自然界に「善悪」は存在せず、ただ、その法則に従って流れているだけである。しかし、人間は全てを自然に任せてはいけない。腹が減って、隣の人を殺して食料を得たいと思っても殺してはいけない。それは社会や組織にとって「よい」とは言えない。理由は命を奪うからだ。時間を奪うからだ。僕は命と時間を奪われたくない。まだ人生の目的を達成していないらかである。自分を基準に考える意外に、考える術が分からない。僕は、殺されたくない。だから、法律も裁判も必要なのだ。ニートのような生活を送る僕が言うのも滑稽なのだが、とにかく、よい法律が作り続けられ、よい裁判が行われ続けることを一市民として願うばかりである。

 改めて、『落下の解剖学』を観てよかった。考えさせられた映画ランキング第一位である。

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