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四十八文字の話『ケ』 「系図」を見てみよう(続3)「足利将軍家のキーマン」

⚪経済                       (義教公)                       長らく中断していた「日明貿易」を再開します。    その利益は膨大だったでしょうね。          ですが注目すべきは、                貿易だけではないのでしょうけど           実際その治世においては、              庶民の生活も潤ったきたのか、            それまで起きていた「一揆」が落ち着いてきます。   また逆に、「義教」公が亡くなると、世間では再び  「一揆」が頻発します。              「強権政治」と度々批判される義教公の治世ですが、  安定には、ある程度の「強権」が必要なのでしょうね。

(信長公)                       なんと言っても「南蛮貿易」デスネ。         これによりかなりの財力、また諸外国の情報が持たら  された事でしょう。                 また有名な「楽市楽座」も当時の庶民を潤したんで   しょうね。                     と言う事はやはり、治安の安定には、ある程度の「強権」が必要なんでしょうね。

⚪宗教                       (義教公)                       何と言っても「第153代天台座主」デス。

(信長公)                       以外だ、と思う方が多いでしょうが、         織田家は代々「神官」の家柄です。          信長公のご先祖様達がご奉仕した、越前国二ノ宮   「劔(つるぎ)神社」の「ご祭神」は、やはり何かの因縁で しょうか?                     荒ぶる神『スサノヲ尊』です。


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⚪対「比叡山延暦寺」                (義教公)                       

先程も書きましたが「天台座主」は正に  「延暦寺の住職❗」です。 

             

そんな方でも立場が変わると、あ~だ、こ~だと何かに 付け、無理難題を言ってくるお寺に対し、       硬強な態度で接します。               和解の為やって来た四人の比叡山の使者の首を     ハネル程❗です。

(信長公)                       ご存知の通り延暦寺を「焼き討ち」にしました。    お二人共、自分にとって敵対する勢力には容赦しません。

⚪親族                       (義教公)                       室町幕府に対し、対抗する態度を取った「鎌倉公方」で あり、同じ一族でもある「足利持氏」公を徹底的に   攻め、本人はおろか、まだ幼い持氏公の子供達をも殺害 します。

(信長公)                       やはり敵対する勢力には容赦しません。        ご自分の弟さえも、殺害しました。          その後も、義理の弟である近江の「浅井氏」なども。


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⚪天下統一                     (義教公)                       皆さん、あまり知られてない事かもしれないですが、  ほぼこの「日ノ本を統一した最初の方❗」がこの   「義教」公なんです。                

まず、鎌倉公方を滅ぼした事により、         その権力が関東以北~東北まで及びます。       また、豊臣秀吉による「九州征伐」の遥か前、     まだまだ当時では敵対する「南朝勢力」が残っている  九州をも纏め上げ、                 更に薩摩の島津家には徳川時代の遥か前、「琉球統治」の安堵許可も出しておりました。     

 つまり、東北から沖縄までをその治世下に置いた事になります。


(信長公)                       たぶん最初の時期(尾張の小大名時代)は「天下統一」と  言った事など、これぽっちも!考えていなかったと   思われます。                    

ですが、時の勢い、そして正に義教公の子孫❗「曾孫」である、第十五代将軍「足利  義昭」公との出会いなどで、      「天下統一」という意識❗が、      芽生えたかと思われます。


⚪癇癪持ち?                    お二人共「天才」であるがゆえ、          

「どうしておまえはこんな簡単な事が解らぬのか❗」 

と、自分の身内、臣下に対しても思っていたんで    しょうね。

⚪そして、その最後                 (義教公)                       臣下である、播磨の守護大名            「赤松満祐(あかまつ みつすけ)」に          暗殺されてしまいます。               赤松満祐は、いずれ「義教」公により、        自分が領地没収やお家断絶を受けるであろうとの    恐怖を常に抱いておりました。

(信長公)                       ご存知の通り、ご自分の臣下、「明智光秀」公により殺害されます。


このお二人、共に身内側からの手に掛かってしまいます。


ここからは、あくまで私の意見で申し訳ないですが。  

このように何かと共通項が有る「天才」のお二人です。 

ですが、あえてここで言わせて頂きます。 

このお二人名声、現代における認知度に  どうしてこんなに「差」が有るでしょうか?


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「歴史教科書」を例にしますと            「織田~豊臣~徳川」時代の扱いと          「室町時代」の扱いに                ちょっと「差」が有る、とは思いませんか?     

足利将軍、徳川将軍は共に15代ですが、       「足利将軍15代」の内               何人ご存知ですか?         

それに比べて「徳川将軍」の名は           結構認知度が有ります。               

同じ「日本の歴史‼️」なのに、この「差」は、     何故なんでしょうかね?               

度々「この問題」を書いてしまいまして        申し訳ないですが。

皆様も、是非お考えて頂ければ、と思います。 


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