四十八文字の話『テ』天神様(菅原道真公)のご夫人など、のちに神仏となり今でも祀られている「実在した女性達」
皆さん。皆さんは色々な機会でよく神社やお寺に行き、拝み、祈る事が多いと思います。そしてご自身が贔屓にしている「神様」「仏様」もいらっしゃいますかと思います。
例えば「神社」なら、『天照大御神』(アマテラスオオミカミ)、『素戔嗚尊』(スサオノミコト)、『大国主尊』(オオクニヌシノミコト)」、『宗像三女神』(ムナカタサンメガミ)等々。
「お寺」ならば、『釈迦如来』(しゃかにょらい)、『大日如来』(だいにちにょらい)、『薬師如来』(やくしりょらい)、また仏教を守護する神々では『毘沙門天』(びしゃもんてん)」、『帝釈天』(たいしゃくてん)、そして「女神」である『弁財天』(べんざいてん 所謂七福神の弁天様)、東京都武蔵野市の「吉祥寺」の地名ともなった『吉祥天』(きっしょうてん)、等々。
ですがこれらの神様や仏様は、神話の世界、仏典などに登場する『神々しい存在』です。
では皆さん、実際のこの現世に生まれ、私達と同じ様に生活し、人生を全うした「実在した人物」が「神」として祀つられている神社を、一体いくつご存知でしょうか?
例えば、「白幡神社」(神奈川県藤沢市)は、「源義経」(みなもとよしつね)公。同じ社名ですが「白幡神社」(神奈川県鎌倉市)は、源頼朝(みなもとよりとも)公。「武田神社」(山梨県甲府市)は、武田信玄(たけだしんげん)公。「東照宮」(栃木県日光市、他)は、徳川家康(とくがわいえやす)公、等々。
歴史に名を残した英雄達です。ですが皆さん、これら方々、全て「男性」ですよね。では「女性」で、今現在でも祀られているのはどんな人達でしょうか?
◯神仏となった気高い歴史上の「女性」達
神仏として祀られている「実在した女性」は以外に多いものです。今回はその話をしたいと思います。ですが「女性」と言う存在は、昔はあまり表に出ず、「夫」「好きな男性」や「自分の一族」を裏側から支える「役割」を担って来た事が多いのは事実ですので、ここでは、「男性の御霊」を弔らうための「お寺」を建立した等の「女性」も含める事にします。
◯推古天皇社………「推古天皇(すいこてんのう)」
日本初の「女性天皇」。
ご自身の甥である「聖徳太子」(しょうとくたいし)を「摂政」(せっしょう 現在の内閣総理大臣の様な役割)に任じて政治をまかせ、太子が行った政策、当時の中国「隋」(ずい)に使いを送り「対等な立場の外交」を宣言したり、「十七条憲法」の制定や仏教を盛んに取り入れ、奈良には現在世界遺産でもある「世界最大の木造建築」の「法隆寺」(ほうりゅうじ)の建立する等々、古代日本を中央集権化させて発展させる政策をバックアップします。
「聖徳太子」
⚪推古天皇社(奈良県奈良市)
(ブログ「Ameba」より )
◯孝謙天皇神社………「孝謙天皇(こうけんてんのう)」
奈良時代の「女性天皇」。
⚪孝謙天皇神社(栃木県下野市)……神社に伝わっている伝説によれば、この天皇が寵愛していた僧侶「弓削道鏡」(ゆげどうきょう)が下野国薬師寺へ左遷されたため、どうしても一目会いたいとの想いで下野国まで来ましたが、程なく病で崩御されてしまいます。それを憐れに想った土地の人々が手厚く葬ったのがこの神社の由来だそうです。
(「とちぎ旅ネット」より)
◯清少納言社………「清少納言(せいしょうなごん)」
平安時代の歌人。有名な随筆「枕草子」の作者。
⚪「清少納言社」……「車折」(くるまざき)神社の末社。毎年催される「三船祭」はかなり華やかな様です。(京都府京都市右京区)
(以下「京都嵐山三船祭フォトギャラリー」より)
◯義仲寺………「巴御前(ともえごぜん)」
(今回の大河ドラマでは「秋元才加」さんが演じています)
「巴御前」
同じく「青木崇高」さんが演じる「源(木曽)義仲」(みなもとよしなか)公の愛妾。
女性ではありますが、その武勇は譽れ高く、坂東武者の間までに鳴り響いてました。
「義仲」公が、鎌倉から進軍して来た従兄弟にあたる「源義経」軍と京都で戦った「宇治川の戦い」においては、「坂東武者の鑑(かがみ)」と称される程に、剛勇の名を届かせていた「畠山重忠」(はたけやましげただ 同じく大河ドラマでは「中川大志」さん)と、何と!「一騎討ち」するほどの腕前❗、です。
ですが「義仲」軍は奮戦するものの「義経」軍に敗れます。
どんな事が有っても最後まで付いていく覚悟を持ち続けた「巴御前」。
落ち延びていく「義仲」公に付き従う武者が僅か五人にまで減っても、最後まで付いて行こうとします。
そんな「巴御前」に対し「義仲」公は、
「最後まで女を連れていたと言われるのは恥となる」と、無理やり「巴御前」を突き放そうします。
⚪ですがおそらく、この時の「義仲」公のホントの心中は、【巴、お前だけでも逃げよ】、だと思われます。
こう言われても、尚も付いて行こうとする「巴御前」。
この様子を見ていた「義仲」公は、更に、何度も何度も突き放す言葉を駆け続けたと思います 。
ですが、やっとその「義仲」公の気持ちを察っしたのか、「巴御前」は、ついに「軍列」から離れました。そしてこれが「今生の別れ」となります。
源(木曽)義仲公 埴生護国八幡宮(富山県小矢部市)
⚪義仲寺(ぎちゅうじ)……「巴御前」が「義仲」公の菩提を弔うため、公が亡くなった正にその場所に建立した寺だと伝わっています。(滋賀県大津市)
(「刀剣ワールド」より)
(以下「ホテル京阪チェーン」より)
「巴塚」(ともえつか)
「義仲」公の墓
◯静神社、他………「静御前(しずかごぜん)」
(今回の大河ドラマでは「石橋静河」さんが演じます。)
「静御前」
「源義経」(大河ドラマでは「菅田将揮」さん)公の愛妾。兄の「頼朝」公から追われる身となった「義経」公は、京都から逃れ、「静御前」と少人数の共の者と奈良の吉野まで来ますがそこで別れます。
その後、「静御前」は「頼朝」軍に捕まり、鎌倉に送られます。
その鎌倉では、「ぜひ、【静御前】の舞を見てみたい」と言う「頼朝」公。今となっては「義経」公の敵である「源頼朝」公です。そんな人からの命令など聞く気など有りません。
ですが、想う事があったのでしょうね❗、敢えて「舞」を披露する事を受け入れます。
そして「鶴岡八幡宮」において「頼朝」公以下、多くの鎌倉幕府御家人達が揃うその目の前で「舞」を披露した「静御前」。
ですがその舞台で披露したその「舞」は、「【義経公】を慕う」唄を歌いながらの「静の舞」(しずかのまい)でした。
当然「頼朝」公はこれに激怒します。
しかし、近くでその様子を見ていた妻の「北条政子」(ほうじょうまさこ)。後に「尼将軍」(あましょうぐん)とまで言われ、「頼朝」公亡き後の鎌倉幕府を守り通すことになるこの「女性」(この方も神仏となって祀られる様な「女性」だと思いますが)。
この時、「尼将軍」はこう仰ります。
「私がもしこの方【静御前】と同じ立場であったならば、まったく同じ様に振る舞ったと思いますよ」。
これを聞いた「頼朝」公、その後は押し黙ってしまいます。
「静の舞い」(「鎌倉手帳」より)
⚪「静神社」(京都府京丹後市)、「鈴ヶ神社」(岩手県宮古市)……あちこちに伝説が有るのですが、共通しているのは、その土地の人々に自らの「舞い」を披露し、そして舞い方を教え伝えて、人々から愛されていた「姿」です。
鈴ヶ神社(「moonritomama」より)……「静御前」終焉の地だと伝わっています。
◯水天宮………「平徳子(たいらのりこ)」
「平徳子」は平家全盛期を造り上げた「平清盛」公(たいらきよもり 大河ドラマでは松平健さん)の娘であり、「平宗盛」(たいらむねもり 大河ドラマでは小泉孝太郎さん)の妹。
夫であった「高倉天皇」(たかくらてんのう)が若くして崩御したため、菩提を弔うために尼僧となり、それからは「建礼門院」(けんれいもんいん)と称します。
「源義経」公に率いられた源氏軍により京都から追われ「都落ち」し、平家一門や母の「平時子」(たいらときこ)、息子の「安徳天皇」(あんとくてんのう)と共に山口県「壇之浦」(だんのうら)まで逃げます。
ですが、戦に敗れてしまい、壇之浦に入水しようとしますが、源氏方に捕らえられてしまいます。
自分は助かりましたが、この「壇之浦の戦い」において、まだ幼少、僅か五歳の息子「安徳天皇」、母親の「平時子」は入水し、亡くなりました。
その後、京都大原「寂光院」(じゃっこういん)に入寺し、我が子、母親や平家一門の御霊を弔います。
「平徳子」(建礼門院)
⚪水天宮(福岡県久留米市、東京都中央区日本橋)
◯水天宮………「平時子(たいらときこ)」
「平時子」は「平清盛」公の正妻であり、「平宗盛」「平徳子」(建礼門院)の母親。この方の位階が従二位だったので「二位ノ尼」(にいのあま)と称されます。
源平の最後の戦い「壇之浦」において、「負け戦」を悟った「二位ノ尼」は入水を決意。抱き抱えたのはご自身の孫でもある「安徳天皇」(あんとくてんのう)。
この幼き帝から
「お婆さま、これからどこへ行くですか?」
と問われた「二位ノ尼」。
それに対して「二位ノ尼」はこう言います。
「海の底にも、素晴らしい都があるのですよ」
そして幼き帝を抱き抱えて共に入水します。
神社「水天宮」では、娘「平徳子(建礼門院)」、孫「安徳天皇」と共に祀られています。
下の絵は、「平時子」(二位ノ尼)が、ご自身の孫である「安徳天皇」を抱いて海に入水する絵図です。
「安徳天皇」
⚪水天宮(福岡県久留米市、東京都中央区日本橋)
わずか五歳で、幼くして崩御した「安徳天皇」への想いからでしょうか。「水天宮」は「安産の神様」として崇敬されています。
⚪「水天宮」 (東京都中央区日本橋)
◯明治神宮………「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」
明治天皇のお妃。明治天皇と共に東京都代々木に御鎮座する「明治神宮」に祀られています。
それまで、古代から続いてきた「皇室の伝統」「慣習」の中には無かった事。それは、天皇のお妃である「皇后陛下」ご自身が、一般の人前に出る事、一般の人前で語る事を初めて実践された方です。
それは日本の近代化のためには、西洋の王室と同じ様な振る舞いをする必要が有ったからです。
更に皇太后様は、これからは日本の「女性」への教育が大変重要だと認識し、女子教育に力を入れます。現在の「学習院女子中、高校」や「お茶の水女子大」を開校なさりました。
また福祉、医療分野にも尽力します。
「日本赤十字」創立を援助し、国際医療機関「赤十字国際委員会」に対し多大な寄付を下賜されました。その援助は今現在でも「昭憲皇太后基金」として実際に運営されています。
⚪明治神宮(東京都渋谷区代々木)
◯吉祥院天満宮………天神様(菅原道真公)のご夫人
⚪吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)…京都府京都市南区
吉祥院吉祥天社 (「御朱印から学ぶ京都」より)
平安時代前期、時の天皇に見出だされ、藤原一族を尻目に異例の出世をして大活躍した「菅原道真」公。
この菅原家では「道真」(みちざね)公の祖父「清公」(きよきみ)公の代から、冒頭でも述べさせて頂いた、仏教を守護する女神『吉祥天』(きっしょうてん)を祀っていました。
「清公」公が遣唐使として大陸を行き来している時に海難に合った際、その『吉祥天』のお導きにより救われたと言う話が伝わっており、それ以来菅原家では『吉祥天』を祀るようになります。
その邸宅には正に「吉祥院」という名前の「祠」(ほこら)が建てられていました。一族が如何に『吉祥天』に対し信仰心が篤かったは、「道真」公が、幼少時に「吉祥丸」と名付けられていた程です。
その後「道真」公が、藤原一族の謀略により、不幸にも「大宰府」に左遷されるまで住んでいた京都の邸宅後に、菅原家が崇敬して建てた「吉祥院」を含め、その「怨念」を鎮めるために造られたのが現在の「吉祥院天満宮」です。
京都市上京区に御鎮座している「北野天満宮」よりも創建が古く、「日本初の天満宮」と言われています。
◯約千百年の時を越えて、「怨念の神」を「学問の神様」へと導いたのは一体誰ですかね?
長い年月を経て、恐怖の対象であられた「天神様」に対する人々の想いが変化して行ったのは、皆さまもご存知かと思います。
⚪「怨念の神」から「学問の神様」へ
「吉祥院天満宮」には当然の事に「道真」公はもとより、公の祖父と父、そして「伝教大師(最澄)」「孔子」などの方々が祀られています。ですが、どうした事か、公のご夫人の名が祭神の中には記されていません。
不当な仕打ちより不幸な死を遂げた「道真」公。
その怨念を恐れた人々の「どうか、どうか、お願いですから鎮まって下さい」との願いから「天神様」として祀られますが、文字通り「神童」と言われ、時の天皇に大抜擢され異例の出世をした「道真」公を支えていたご夫人。
その「道真」公が福岡大宰府に左遷された時、このご夫人も、京都から遥か遠い奥州、現在の岩手県一ノ関にまで左遷させられてしまいます。
それまで、京都において、平和な時を過ごしていたご夫人の胸中は、どうだったのでしょうか?
そして左遷されられたその地で、「道真」公の死を聞いた後、程なくしてお亡くなります。
この方もはっきり言わせて頂ければ、「怨念の女神」となってもおかしくない❗、と思います。ですが、その様な事はありませんでした。
では、何故このご夫人の名前が「御祭神」の中にないのでしょうか?
これに関して察するべき、そして悟るべき、重要な「存在の方」がいらっしゃいます。
それは女神『吉祥天』です。
実は、この天満宮に祀られている祭神には、もう一柱の神が存在してます。その祭神の御名前、それは『吉祥天女』。
「道真」公の奥様は、この『吉祥天女』、つまり『吉祥天』と「習合」(しゅうごう)されて祀られている、と伝わっています。
「仏教の守護神」と、「菅原家」のため力を尽くしたであろう「実在の女性」。
正に同一神、「幸福」「美」「福」の女神とされ、祀られている様です。
🌕『吉祥天』は「仏教の守護神」、所謂「天部」(てんぶ)の御一人であり、『鬼子母神』(きしぼじん)の娘、『毘沙門天』(びしゃもんてん)の妻、とされています。
「幸福」「美」「富」の功徳があり、度々『弁財天』(べんざいてん ご存知の弁天様)と同一神と見なされる場合があります。
『吉祥天』(東京都豊島区雑司が谷「清土鬼子母神」)
何故現在、天神様が「学問の神様」として祀られているのか?
それは嘗てこの女神により海難から助けられた「道真」公の祖父と同じ様に、『吉祥天』のお導きによって、「怨念の神」として恐れられいた「天神様」は、「学問の神様」へと「昇華」されたのではないでしょうか?
◯菅公夫人の墓………もう一つの「伝説」
先程も記しましたが、「道真」公の奥様は、現在の岩手県一ノ関市に左遷され、その地でお亡くなります。
その一ノ関市東山町において、大正二年(1913)に編纂された「田河津村誌」には、その一連の話が記されています。
子供三人と共に左遷された事、当地にはその子孫に当たる「菅原家」が存在している事、そしてその方々は昔から「梅を絶対に食しなかった」事等々が書かれています。
そして更に注目すべき点が有ります。
左遷先の土地、京都から遥か北の地に残るこの「村誌」でさえ、この「ご夫人のお名前」が「吉祥女(きっしょうめ)」❗、と呼ばれている事です。
(以下「いわけんワールド」より)
「道真」公夫人の墓堂
そして時が経った、平成六年(1994)。
岩手県一ノ関市に、今現在でも「道真」公のご夫人の墓が存在している、との話を聞いた当時の福岡「大宰府天満宮」の宮司様。その宮司様が、なんと「門外不出」であるはずの「大宰府天満宮の梅の木」、「紅白梅の木」三本を、自らがお運びして植樹されました。
「大宰府天満宮」の宮司様が自ら植樹した「梅の木」
更に同年、神奈川県鎌倉市の「荏柄(えがら)神社」から、そして平成九年(1997)には京都の「北野天満宮」からも「梅の木」が贈られています。
「北野天満宮」から贈られた「梅」
これらの日本を代表する天満宮から「梅の木」が贈られるくると言う、この出来事は、この「菅公夫人の墓」の存在が正式に認められた事ではないかと思われます。