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四十八文字の話『ハ』「バロン西」オリンピック馬術競技において日本はもちろんアジア地域における唯一の「金メダリスト」。

皆さん、「西竹一」( にしたけいち ) 大佐という方、ご存知でしょうか?
あまり知られていないかもしれませんね。

平成18年 ( 2006 ) に封切られた、映画「硫黄島からの手紙」( いおうじまからのてがみ ) 。
主演は「 渡辺謙 」( わたなべけん ) さんの映画です。
その映画で、俳優「伊原剛志」( いはらつよし ) さんが演じたのが実在の日本陸軍々人、「西竹一」大佐です。


○「硫黄島からの手紙」

映画ポスターの上の部分。
左から主演「渡辺謙」さん、その隣が、一般民間人から召集され「硫黄島」守備隊に配属された役を演じたジャニーズの「二宮和也」( にのみやかずなり ) さん、そして「西竹一」大佐役の伊原剛志さん。



ですが皆さんに敢えて聞かせて頂きますが。
実際、皆さんは「西竹一」大佐という人物の事、ご存知でしょうか?

仮にも映画で描かれいる歴とした実在の人物です。

そして同じ様に映画、TV等で描かれている歴史の教科書にも出てくる「偉人」達がおられます。

それらを単純に比較するのはちょっと軽率かもしれませんが、同じマスコミ媒体で描かれている人物である以上、私にはもっともっと日本人は「西竹一」大佐という歴史上の人物を知る必要がある❗、と思います。

例えばNHK「大河ドラマ」ではご存知の様に幾多の歴史上人物、「源頼朝」( みなとものよりとも )、戦国大名では「武田信玄」( たけだしんげん )、「上杉謙信」( うえすぎけんしん )  や「織田信長」( おだのぶなが )、「豊臣秀吉」( とよとみひでよし )  などなどの偉人達が描かれています。

そういう意味で言わして頂ければ「西竹一」大佐と言う人物は、映画の登場人物になるほどですから、これら歴史上の人物達と【同等の偉人】であり、歴史上に語り継がれるべき人物ではないのかな?、と思っています。


○【昭和天皇】に随行する西竹一大佐 ( 当時は中佐 )
ロサンゼルス=オリンピックで「金メダル」を獲得した六年後の姿



西竹一大佐が金メダルを獲得した種目は「馬術」。私も詳しいわけではないのですが、この「馬術」の世界は昔から今現在に至るまで、圧倒的な力を持つのが「欧米諸国」。

ましてや「ロサンゼルス=オリンピック」が行われた当時の1930年代の世界は、日本以外のアジア諸国は勿論、アラブやアフリカ諸国の殆どが、欧米諸国の「植民地」になっている時代です。

そんな状況の中で、その「欧米諸国」を相手にして見事に「金メダル」を勝ち取った西竹一大佐。

これを敢えて言わしてもらえれば、日本の戦国時代を例にすると、周囲は強力な勢力に囲まれ、「まず勝てるわけがない」とか「うつけ者に何が出来る?」とか言われながらも、「桶狭間の戦い」( おけはざまのたたかい ) において、東海一の大々名「今川」氏を相手に、奇跡の勝利をした「織田信長」に匹敵する「偉業」( いぎょう ) ではないのかな❗、と思います。


○西竹一大佐の勇姿



そして令和二年 ( 2020 ) に北海道のTV局HBCで流れた、ちょっとしたニュースをご覧下さい。



世界に比べれば弱小の力に過ぎませんが、でもオリンピックの大舞台で勝ち取った「金メダル❗」。
これだけでも凄い事デスヨネ。



日本の戦国時代に起きた「桶狭間の戦い」。
誰も予想していなかったこの結末にビックリしたのは当時の「京都朝廷」、「貴族」や他の「戦国大名」達。

それから約三百七十年後、場所はアメリカのロサンゼルス。

同じ様な奇跡を起こした西竹一大佐の偉業を、事前に誰が想像していたのでしょうか?

この出来事、一人の日本人が獲得した「金メダル」に、正にビックリしたのは、「アジア人」、「日本人」など鼻にも掛けていなかったであろう、欧米諸国の人々、特に馬術を嗜む ( たしなむ ) 「上流階級」の人々だったのではないでしょうか。

アメリカは「移民の国」。
反対に西竹一大佐の活躍に熱狂したこれら移民の方々も多かったことでしょうね。

ましてや当地のロサンゼルスにはアメリカ最大の日本人街「 リトル = トーキョー 」が有りましたので、この地域の人達にも絶大な人気を誇ったことでしょう。


○当時「ロサンゼルス=タイムズ」で報道された西竹一大佐と愛馬ウラヌス


○1910年代のロサンゼルス


ここで冒頭でご紹介させて頂いた映画「硫黄島からの手紙」の話に戻ります。


この映画は実は「日本映画」ではありません。

アメリカ製作会社「ワーナーブラザース」配給の正に「ハリウッド映画」です。

これを取り仕切り演出した監督は、往年の名優「クリント=イーストウッド」。そしてその他のスタッフ、脚本、原案、音楽、撮影に至るまで全てをアメリカ人が行いました。


○アメリカの八リウッド映画「 マカノニ = ウエスタン」 シリーズの名優「 クリントイーストウッド 」



昭和二十年 ( 1945 ) に起きた小笠原諸島の「硫黄島」( いおうじま ) における日本とアメリカの激戦。


それを題材にして製作された、この映画に、西竹一大佐という、実在した日本人、陸軍軍人が登場し描かれています。、

何度も言いますが、この映画、日本映画ではなくアメリカ映画なんですよ。

という事は、この「西竹一大佐」という方の存在は、現在でもアメリカでは記憶されており、語り継がれている事になりますよね?

ですが一方、我が国日本ではどうでなんでしょうか?

正に「知る人ぞ知る」だけで、大多数の方々、殆どの方々は知らないのが現状ではないでしょうか?

アメリカではかなり認知されているのに、当の日本ではあまり知られてないのでは?と思いますので、今回はこの「西竹一大佐」を取り上げさせて頂きます。

なお「西竹一」さんはその最終階級が「大佐」でありますので、このブログでは「西竹一大佐」と記させて頂きます。


○バロン西こと「西竹一大佐」と愛馬「ウラヌス」



⚪ロサンゼルス=オリンピックの英雄「バロン西」


まだ太平洋戦争が始まる前の昭和七年 ( 1932 ) にアメリカで開催された「ロサンゼルス=オリンピック」。


このオリンピックの最終日。

当時の馬術競技はオリンピック最終日、閉会式の前に行われていました。そういう事もあって、この日はスタジアムの観客は、約十万人。正に大観衆です。

その大群衆の中、始まった馬術「大賞典障害飛越」( だいしょうてんしょうがいひえつ ) 。

多数ある馬術競技の中でも、最も高度であり、最も華やか、「五輪の華」と称される競技です。

西大佐はその競技に出場しました。


○ロサンゼルス=オリンピック   スタジアム



当時も現在でも「馬術競技」は欧米諸国の独壇場です。更に西大佐が出場したこの種目は、数ある馬術競技の中でも過酷な種目でした。

出場した人の半数以上が途中で落馬し、完走すら出来ない状況の中で、幾多の強敵を打ち破り、見事「金メダル」を獲得したのが西大佐。

ほぼ無名な東洋の国から来た日本人が軽やかに、そして見事に「金メダル」を獲得した、この出来事は、アメリカ人に強い印象を与えます。

正に「アメリカンドリーム」。

昨日まで全くの無名な人物がたった一夜で有名になる、そんな「アメリカンドリーム」を体現した人物を目の当たりにしたロサンゼルスの人々は、ヤンヤの喝采。

西大佐は、戦前の日本に存在していた「華族制度」( かぞくせいど ) において「男爵」( だんしゃく ) の地位にあった人物です。つまり「西男爵」です。

移民の国アメリカでは、「貴族」や「華族制度」などが有りませんでしたので、それが逆に新鮮だったのかもしれませんね。


「バロン西❗  バロン西❗」


「バロン」とは「男爵」を意味する英語。( Baron )

ロサンゼルス=スタジアムは「バロン西❗、バロン西❗」とのエールの嵐、となります。



○乃木希典 ( のぎまれすけ ) 将軍の「言葉」

ここで西大佐の生い立ちの話をさせて頂きます。

西大佐の父は薩摩出身。後に外交官、外務大臣にもなった「西徳二郎」( にしとくじろう ) 氏。

「清国」で明治三十三年 ( 1900 ) に起きた「義和団事件」( ぎわだんじけん ) の北京籠城戦を体験した方です。

西大佐は当初はこの父親の影響を受けて、自らも外交官への道を歩んでいました。
学習院幼稚舎から初等科、府立一中 ( 現日比谷高校 ) へ進学。この時の同期に、小林秀雄( こばしひでお : 文芸評論家 )や迫水久常(さこみずひさつね  : 終戦御前会議の時の内閣書記官長【現在の官房長官に当たる】、参議院議員、郵政大臣 ) がいます。


ですがある時、ある人物、明治時代にあっても「江戸時代」の武士道の信念を貫いて生きた軍人、「乃木希典」( のぎまれすけ ) 将軍が残した、ある言葉に感化されます。

○「乃木希典」将軍



「華族たる者、国のために、国民のために、その命を尽くすべきである」



この言葉に、「ご自身のあるべき姿」を感じ取ったのでしょうか?
この後西大佐は「軍人」への道を歩んで行きます。



○オリンピックへ

当時の陸軍には、「歩兵」「工兵」「砲兵」「騎兵」の兵科が有りました。

入隊して士官養成の教育課程を終了すると、どの「兵科」を選ぶか決めなければなりません。

西大佐、その教育課程の一科目にすぎなかったのですが、その中で出会った、それまで全く気にせず、接する事の無かったであろう、「馬」の存在がかなり強烈だったのでしょうね。


「騎兵」になることを選びます。

有史以来の大昔から陸戦の主力であった「騎兵」。
ですがこの当時、既に陸戦の中心は、第一次世界大戦 ( 1914~1919 ) で登場した「戦車」の時代になっていました。「騎兵」の存在価値は低くなっていく一方の時代。

そんな中でも「騎兵」を選んだ西大佐。

そしてやはりです❗、デスネ。
持って生まれた才能が有ったのでしょう。

軍隊任務としての「騎兵」ですが、その腕前が徐々に上達していき、昭和七年 ( 1932 ) のオリンピック馬術競技の日本代表に選ばれます。


○「車越え」

下手すりゃ、人馬共に大怪我するかもしれない、こんな妙技までもスンナリとやってしまいます。



そして「ロサンゼルス=オリンピック」。





繰り返しになりますが、今現在でも「馬術」の世界は、圧倒的に「欧米諸国」が中心なんです。

数々の国際試合、ましてや「オリンピック」と言った大舞台では、日本は勿論アジアの諸国など全く相手されていない世界。

そんな世界に、突然彗星 ( すいせい ) の如く現れて、アレヨ、アレヨと快進撃して「金メダル」を勝ち取った西竹一大佐。



この出来事、そして市民達の熱狂に、当時のロサンゼルス市長は「ロサンゼルス名誉市民証」を贈ります。

○ロサンゼルス名誉市民証


○日本に凱旋し、声援に応える西大佐 ( 東京駅丸ノ内 )




○主人のために、愛馬「ウラヌス」は自らの意思で自分の身体を捻り ( ひねり ) 障害を越えた❗


逸話を一つ。

この競技における、最後の大障害。
高さが1m60センチにも及ぶ大障害です。
これを前にして、さすがの愛馬「ウラヌス」も怯んでしまいます。

ですがをこれに対し西大佐は、見事な手綱捌き ( たづなさばき ) で体勢を整え、この大障害をクリアしました。

ですが、これには「ウラヌス」の献身的な姿が垣間見られます。

オリンピックの祝勝会で西大佐はこんな事を言ってます。


「実は、最後の障害物で 高さが足りず失敗を覚悟しました。 しかし、我が友ウラヌスは バーを避けるため巧みに後ろ足を捻ったのです。 本日は私が優勝したと言うより 『二人で勝った!』と言う方がふさわしいのです」


○最後の大障害で、自らの身体後方を捻り、障害を越えた「ウラヌス」

これを見て頂ければ解ると思います❗

正に「以心伝心」 ( いしんでんしん )、「人馬一体」( じんばいったい ) です。

○「I  Won」ではなく、「We  Won❗」。


「金メダル」を取った後のインタビューで、西大佐はこう言います。

「We  Won❗」  ( 二人で勝った )

最後の障害、1m60㎝の大障害を前に躊躇した「ウラヌス」を的確な手綱捌きで対応し、先ほどの写真が示します様に、それに反応した「ウラヌス」は、自ら自分の身体を捻りながらその障害を超えました。

言葉を変えれば、生まれながらの「竹馬の友」( ちくばのとも ) なのかも知れませんね❗




⚪日本からロサンゼルスまでの二週間の船旅。長旅の中でコンディション維持が難しい事を約六百六十年前の出来事が証明しています。

当時日本からアメリカへ渡るには「船」が利用されていました。約二週間の船旅です。

人によっては船が苦手な方もいるでしょう。そういう方にとり「二週間の船旅」は、中々辛いでしょうね。

ましてやスポーツの国際大会に出場するために渡米する方々にとっては、その期間中、体調やコンディションの維持には苦労されただろうな、と思います。



それは「馬」も同様です。

馬は元来大草原の中を走り回る動物。
その馬が二週間もの間、船という狭い空間で生活したらどうでしょうかね?

嘗てその事象を如実に表している歴史的な出来事がありました。ここでその出来事について述べさせて頂きます。


○「元寇」(げんこう)の時代

ここで鎌倉時代の出来事、「元寇」の話をさせて頂きます。

何故「元寇」の話になるのかと思われる方も当然いらっしゃると思いますが、意外に関係性が有るんですよ。

嘗てアジア、アラブ諸国からヨーロッパ大陸までを制覇した、モンゴル帝国「元」( げん ) 。
こんな広大な領域を領土として、制覇出来た原動力は何か?

それは「馬」。

「馬の機動力」を用いた一点集中的な「打撃力」。
長い距離を走り抜ける「走力」。
これを武器にユーラシア大陸を席巻します。

そして日本の鎌倉時代に、その勢いが北部九州に及んできました。


皆さんご存知の所謂「元寇」です。

ですが当時の鎌倉幕府執権「北条時宗」( ほうじょうときむね ) の指導のもと、日本はモンゴルを撃退しました。

何故それができたのか?
その要因は数々の説が伝えられています。

例えば、ちょうどその時の季節は秋。毎年その頃にやって来る「台風」。
この時もやって来た「台風」による風水害でモンゴル軍は甚大な被害を出し敗北、という話はよく聞きます。

またこういう話も伝わっています。

モンゴルは馬を用いず北部九州に攻めてきた。

馬がいれば突然の敵方の夜襲にも迅速に対応出来るので、まだ交戦中の地域でも「陣地」を築く事が出来ます。

ですが、馬がいないという事は陸上に陣地を築ける事も出来ず、仕方なく夜になるとモンゴル軍は全軍「船」に戻る事となります。

これがより「台風」による被害を甚大にした、といわれてます。

また戦術の面から言えば、イチイチ船に帰るなどをしていれば、いつ迄経っても北部九州を「占領」することなど出来ません。

こういった話はよくテレビや書籍にも載ってますよね。

ですが真実はかなり違う様です。


○モンゴル軍の敗因はやはり「馬」

モンゴル軍、「馬」を用いなかったのではなく、せっかく運んできた「馬」達が北部九州に着いた頃は、全く使い物にならなかった、のが敗因なのだそうです。


朝鮮から対馬 ( つしま )、壱岐 ( いき )、北部九州に渡るため用意された船。その船を造ったのは当時の朝鮮「高麗」( こうらい ) 。いわば「朝鮮式の船」です。

当時の朝鮮の船大工達は、遠く日本に向かうための船を想定した船造りをしてません。ましてや「馬」を運ぶなどといった事までを考えていなかった事でしょう。

対馬海峡 ( つしまかいきょう ) や玄界灘 ( げんかいなだ )、短い海路ですが、荒波が激しい海域。

「馬」という生き物は元来神経の細かい、ナーバスな生き物です。


大陸の雄大な大草原の中で生きてきた「馬」達。
その馬達が船という狭い空間に長時間閉じ籠められるという事象は、彼ら「馬」達にとっては辛い事だったでしょうし、おそらく大半の馬は、船に乗ること自体、初めての事であったのではないでしょうか。

九州博多湾に着いた頃は、船中の馬達は「船酔い」「体調不良」の状態、とても軍陣に立てる状態ではなかったはずです。

馬が使えないため自分達の思う様な戦い方が出来ないモンゴル軍。先ほども記した様に、夜になればイチイチ船まで戻る、などしていれば、「台風」などが襲って来なくとも自ずと勝敗は決していたのではないでしょうか。

それがモンゴル軍敗退の最大の要因であった様です。



○1930年代

そんな「元寇」から遥か約六百六十年後。

ロサンゼルスへ向かう日本馬術代表。
選手は勿論、馬達も船で移動しました。

朝鮮から北部九州の距離に比べれば遥かに長い太平洋航路。その間、馬達はどうだったのでしょうか?


元寇の時代と比べれば、そりゃ船は大型になってますし、当然設備技術などは進歩している事でしょうから、馬達もかなりリラックス出来ていたのではないでしょうか。
船の中には「厩舎」( きゃうしゃ ) の様な施設を用意して馬の世話をしていたんでしょうね。


○イメージです


先ほども述べた通り、馬というは概してナーバスな生き物。

そんな馬達は二週間もの間、どんな世話を受けていたのか?

ウラヌスは「絶好調の状態❗」であったため、「金メダル」を獲得出来ました。

ウラヌスがその体調を高いレベルで維持出来たのは、常に、二週間もの間、船中で馬達の世話をしていた名もない人達の献身的な努力が有ったからだとも思います。


○船中でおどける馬術日本代表の面々    一番後ろが西大佐





⚪硫黄島での戦い


○映画「硫黄島からの手紙」より   
井原剛志さんが演じる「西竹一大佐」


昭和十六年 ( 1941 ) から始まった「大東亜戦争」( だいとうあせんそう ) の一局地戦としての「太平洋戦争」 ( たいへいせんそう )。

「ロサンゼルス=オリンピック」の英雄である西大佐も、当然帝国陸軍々人ですから、軍の命令により、あちこちに転戦します。

そして昭和20年 (1945 ) の2月下旬、日本の領土である小笠原諸島 ( おがさわらしょとう ) の「硫黄島」( いおうじま ) において、アメリカ軍を迎え撃ちます。

この時西大佐は、「第二十六戦車連隊」の連隊長でした。
生身の馬ではなく、「鉄の馬」に乗っていたわけです。




○小笠原諸島  火山列島

小笠原諸島の南部地域。四角枠内にある「火山列島」のほぼ中央に「硫黄島」が有ります。


○「硫黄島」全景

南北四キロ、東西八キロ、かなり小さい島である「硫黄島」。
現在、住人はおらず、三十人ほどの自衛隊員、気象庁の職員が滞在しているだけです。


こんな小さい島に攻め込んで来たアメリカ軍。
その総兵力は陸海空合わせて何と約二十五万人❗。
艦船の数は八百隻にもおよび、保有する軍用機は約一千八百機。

片や「硫黄島」を守る日本軍は約二万人。
飛行機などは一つもありません。


○硫黄島に上陸するアメリカ軍


「こんな小さい島、五日で落とすわ❗」と豪語していたアメリカ軍司令官。ですがいざ上陸すると、想定以上の、予想をはるかに越える日本軍の激しい抵抗により、「五日間」などはとうに過ぎてしまい、また想定以上の甚大な被害を出していきます。

結局、占領するのに約一ヶ月以上の期間を要する事となり、そしてこの戦いでのアメリカ軍の死傷者の数は、日本軍のそれをはるかに越えます。

○硫黄島に上陸したアメリカ軍の様子

砂浜に寝たきり。あまりの日本軍の抵抗により身動き一つ出来ません。

太平洋戦争の末期、常に圧倒的な物量の差で力を見せつけていたそのアメリカ軍が体験した、数少ない「負け戦」の一つです。

○破壊されたアメリカ軍の艦船


この激戦の中、馬ならぬ「戦車」の連隊長として奮闘したであろう西大佐。

結局、約一ヶ月後。
硫黄島を守っていた日本軍は玉砕 ( ぎょくさい ) 。

西大佐は、部下の日本兵と同様、戦死します。


○西大佐のご家族


⚪馬事公苑での最後の別れ


この激戦が行われた硫黄島に赴く前、西大佐はウラヌスに会いに行ってます。

当時のウラヌスはもう既に現役を引退しており、静かな余生を東京の「馬事公苑」( ばじこうえん ) で送っていました。

「馬」という動物は足音を聞いただけで一体誰が来たのか、解るんだそうです。

西大佐の足音を聞いたその瞬間から、ウラヌスは嬉しさのあまり、狂喜乱舞。
馬の愛情表現である頬擦り ( ほおずり ) をして迎えます。

暫くして西大佐は、ウラヌスの鬣 ( たてがみ ) の一部を切り、それを胸ポケットにしのばせて、その場を離れ、硫黄島に向かいます。

この時の鬣を肌身に離さず持っていた西大佐。

その大佐が戦死したわずか七日後にウラヌスも老衰 ( ろうすい ) のため亡くなります。


○馬事公苑  「馬の像」



⚪奇跡❗アメリカで発見されたウラヌスの鬣 ( たてがみ )


太平洋戦争が終わってから五十五年後。
もう平和な時代である平成二年 ( 1990 ) にアメリカであるものが発見されます。

それは白い紙に包まれていた「髪の毛」。

その後の調査でそれが「馬の鬣」だと判明します。

詳細はよく解りませんが、嘗て硫黄島で戦ったアメリカ兵が、当地で偶然拾った白い紙。

その後本国に持ち帰りますが、その紙が何か気になり処分に困っていたのでしょうか、近くの博物館などの施設にそれを預けていた、そしてそれを博物館の学芸員が五十五年後に発見した、のかも知れません。


硫黄島で、それも「馬の鬣」。
となれば、その持ち主だった方は誰なのか、解りますよね?

「馬事公苑 」での最後の別れ。その際、愛馬の鬣を切り取り、それを大事にして持ち帰り、硫黄島では肌身離さずポケットにしのばせて、戦っていた。



持ち主は「西竹一」大佐。
「馬の鬣」はウラヌスの「栃栗髪」( とちくりげ )  です。

○「本別町歴史民俗資料館」より



これを持ち帰ったアメリカ兵が「西竹一」大佐の事を知っていた事は十分考えられます。だからわざわざ本国へ持ち帰ったのでしょう。
何せ「ロサンゼルス=オリンピック」の英雄ですから。

○ある美談

あの硫黄島の戦いの中、アメリカ軍は「ロサンゼルス=オリンピック」の英雄、「バロン西」がこの硫黄島にいる事を知ったのは事実。

そして「英雄を亡くすわけにはいかない」と思い立ったアメリカ軍は、大型スピーカーから呼び掛けます。

「バロン西、貴方は勇敢に戦いました。もう十分に任務を果たしています。どうかお願いします。降伏して出てきて下さい。」

ですが西大佐はこれには応じず、最後まで姿を現しませんでした。

この様な話が伝わっています。
ですが、この話はちょっと「美談すぎる」ような気がしますが。


現実問題として、まだ硫黄島での戦闘は続いており、確かに大局的にはほぼ勝利しているアメリカ軍でしたが、規模は小さいながらも、まだまだ日本軍は激しい抵抗をしています。そんな状況の中、敵軍の、それもたった一人の「日本軍人」に対して、降伏を呼び掛ける余裕が有ったのかどうか?
ましてや呼び掛けを始めたその時点で、はたして「バロン西」がまだ生きているのかどうかも解らない状態です。

そんな不確かな状況の中、はたしてアメリカ軍がそんな事したのか、甚だ疑問です。


ですがこういった逸話が伝わるほどに「バロン西」は敵のアメリカ兵達に知られていた、という事でしょうね。

⚪もっと伝えるべき

不幸な時代であったため悲しい出来事となりましたが、日本馬術界に取っては大変素晴らしい事です。

よく戦争の時代の話になると、耳を貸さない方々がいますが、そういう人達は私から言わせれば「不幸な人達」だと思います。

当時の日本人全員が好き好んで戦争したわけではないのですから。また「軍人」は職務が敵と戦う事ですから。この日本の、どんな時代にも立派な方々は沢山いらっしゃいました。

ですが私の子供時代もそうですけど、「学校教育」「歴史教科書」の中で、この時代が登場する頃は、春休みの直前。ですので、ほとんどスルー状態。この時代の事は満足には教えられていません。

今の子供達は、この時代の偉人、そして特に「軍人」の方の名を何人知っているのでしょうかね?

自分の生まれた国の歴史を知る、こんな当たり前な事を早く出来る様に改善するべきです。

でも「お先が、全く真っ暗」、だとは思っていません。

幸いな事に現在は、たとえばこの「ブログ」の様に、色々と物事を伝えるための手段が複数存在してます。

こういったツールを駆使し、たとえ不幸なこんな時代でも、動物を愛し、世界中から愛された「立派な人物」がいた事を、子供達に伝えなければならない、と思っています。


○硫黄島に佇む ( たたずむ ) 「西竹一」大佐の碑   









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