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四十八文字の話『ケ』 「系図」を見てみよう2 (徳川将軍家)

 

個人的な話になりますが、私は小さい頃、
「『徳川御三家』には徳川宗家に将軍の跡取りがない場合に備えるためのお役目が有る」と、聞い た記憶が有ります。

ですが、現実は同じ「御三家」でも実際に将軍に就いたのは
徳川吉宗公の「紀州家」系統のみです。
それも人数にすれば、吉宗公以降八人の方々が将軍なりました。
(慶喜公も含めます)
徳川将軍は十五代ですから、紀州家が実に過半数❗を超える事になります。


これらの事を纏めてみると、いかに八代将軍「吉宗」公の存在が「歴代徳川将軍家」において、何とも重要な存在であるか❗、            重要な「キーマン」であったのか❗、その偉大さ❗が「②の系図」から推察されます。    

そして、この「②の系図」から改めて、「疑問点」も出てくるようにもなりました。

それは先程から記している「御三家」の存在目的です。


他の二家「尾張家」「水戸家」の存在目的が不明瞭になります。                     以下はその存在目的を「はっきり」させるヒント?、になるかもしれませんので記してみますね。
以前、私が聞いた話です。 

徳川「水戸家」二代目の黄門様「徳川光圀」(とくがわみつくに)公もそうらしいのですが、「徳川吉宗」公のホントの『出自』に関しては、色々な諸説が有るようです。  


✳️このお二人、実は徳川家以外の外部から『ある目的で御三家に入った?』などの逸話があるようです。
例えば
「幕府財政再建(金策、銀行家?)のため」とか、  
「徳川宗家監視(スパイ?)のため」など。
まっ、ホントか、どうかは分かりませんが😂。


しかし、そういう話があるくらいですから、御三家は、その家々にしかない「存在目的」があったのでしょうね。                 


激動の幕末期、薩長に最後まで、最も抵抗した
会津藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)公と                 桑名藩主「松平定敬」(まつだいらさだあき)公。

こちらの兄弟は、系図を遡れば、共に「水戸家」の系統です。

その「水戸家」の喜公が示した見せかけ?の恭順に対する、最後の「露払い」の役目を、こちらの同じ系統の兄弟達が演じたのではないのでしょうか?

○徳川慶喜公



○松平容保公



○松平定敬公(函館戦争中)
 


系図の話を戻します。  

②系図からは、徳川将軍家と言うものが、

「徳川家康公の子孫」と言うよりも途中から「徳川吉宗公の子孫❗」と言われる方が、よりガテンがいく様に思えると思います。


実際、吉宗公が質素、倹約を旨とする「享保の改革」(あまり評判は良くないのは事実ですが)を行った事により、それまで財政が逼迫状態であった徳川幕府を救い、実はもっと早く滅亡していてもおかしくなかった徳川幕府を、その後、150年以上も幕府を存続させる結果に繋がった、と言う話が残っています。 

このように、②の系図から見る事により、今まで見えなかった事(御三家の存在目的に関する疑問も含め)、重要な「キーマン」を特定できる事例を述べさせて頂きました。

が、

こういった事例は何も徳川将軍家の「系図」に限った事ではないのです。 

それは、次回で取り上げる予定の「足利将軍家」の系図でも述べさせて頂きたいと思います。         
皆さん、何卒、宜しくお願いします。🙇‍♂️⤵️

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