四十八文字の話『シ』 「渋沢栄一」と小栗上野介2
⚪実は「技術の日産」も Made in 横須賀
話が少しずれます。 嘗て戦中まで「中島飛行機」という企業が 存在してましたがご存知ですか?
エンジン、機体の開発を自社で一貫生産出来る 高い技術力を誇り、 戦前戦中まで、東洋一、世界有数の航空機メーカーで ありました。
あの日本陸軍の主力戦闘機 「隼(はやぶさ)」を製造した企業です。
そして戦後、 その高度な技術力を警戒したGHQの命令により、 幾つかの企業に解体されました。
その中で今も残る有名な企業は、
嘗ての「富士重工」、 現在でも日本を代表する 自動車メーカー「スバル」。
そしてもう一つ、
「プリンス自動車」。
この企業は その後昭和41年(1966)「日産」と合併しました。 今でこそ「技術の日産」と呼ばれていますが 正にその「技術」の部門においては この「中島飛行機」から受け継いだ 「プリンス自動車」が担っていました。
現在でも製造されている代表的な車種「スカイライン」。
この車、まだ合併前の「プリンス自動車」が 昭和32年(1957)に製造した車デスヨ❗ これだけ聞いても 「中島飛行機」の技術力が素晴らしい物だった事が 解ります。
で、何でこんな話を記したかと言うと この「中島飛行機」の創業した 「中島知久平」(なかじま ちくへい)氏。 この方、『横須賀造船所(製鉄所)』の出身デス。 (当時は「横須賀海軍工廠」でしたが)
近代日本の礎となる「技術力」と「人材」を 江戸時代から育ててきた、その結晶❗ですね。
「幕府」「薩摩長州」等との狭い俯瞰を 越えていた「小栗上野介」の 未来を見据えた「構想力」は改めて凄い‼️と思います。
奇しくも 中島知久平氏は群馬県出身、 小栗上野介の最後の地は同じ上州権田村です。 「小栗上野介」の意志は引き継がれていたんですね。
話を戻します。 「富岡製糸場」が出来た明治初期の時期で こんな状況でした。
では、『横須賀造船所(製鉄所)』が建設された 江戸時代末期、1865年当時なんて、 器械、工具、部品などを製造している工場など この日本にはどこにも存在してません。
ではどうしたか?
⚪全て自分達で
「全てを自分達でやるしかない、 一から自分達で揃えるしかない‼️」
それこそ「鉄鉱石を溶かして鉄を作る工程」から デスヨ❗。
勿論、当初は仏人技術者から指導を受けていましたが。
これが 今でこそ『横須賀造船所』と言われてますが、 当初は『横須賀製鉄所』と言われていた由縁です。
⚪小栗上野介と渋沢栄一との「笑い話」
慶応二年(1866)のパリ万博の開会に合わせて、 将軍「徳川慶喜」公の名代として 弟「徳川昭武」公(とくがわ あきたけ 水戸藩最後の藩主 今回の大河ドラマでは「板垣李光人」さんが演じます)が 派遣される事になり、「徳川昭武」一行は十二月、横浜でその準備に追われていました。
パリの撮影所でポーズを取る「徳川昭武」公
幕府のパリ万博出品総責任者である 勘定奉行「小栗上野介」は 出発前に「徳川昭武」公の元へ挨拶に出向きます。
その時パリ万博の随行員の一人であった「渋沢栄一」は、会計・俗事(庶務)担当をしていました。 そしてパリ万博の後は 英国はじめ欧州各国を巡歴したのちに、 パリに長期留学する予定の「徳川昭武」公。 (その後大政奉還が起こりましたので、留学は取り止め) その間の滞在経費等についての件もあり、 渋沢栄一は小栗上野介へ挨拶に行きます。
「留学の五年間、滞在するその期間の諸々の経費などを、くれぐれも滞ることのないようお願いします」、 との旨の挨拶をした渋沢。
これを聞いていた小栗上野介、 こう返しました。
(小栗は江戸神田生まれの「江戸っ子」ですから、 当然「江戸弁」で)
『お前さんって奴は面白い男だねえ~
ついこの間まで、攘夷討幕を唱えて 「高崎城」なんかを乗っ取って、 武器を奪い幕府を倒し、 横浜へ押し上げて 外国人を海の向こうへ追い払うと 計画していたんだってね。
なのに、五年先の、それもお前さんが 倒そうとしていたその幕府の行く末を どうして心配するのかい?』
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