世界

世界の中心でまだ愛を叫んでいるのは誰だ

第48回衆議院議員総選挙への積極的棄権を唱えている東浩紀に対して各方面から本当に多くの批判の声が寄せられている。これを真正面から批判する人々というのは、とても真面目な生き方をしておられる方々なのだと思われる。理想的な日本国民としての姿がそこに見えてくるようだ。まさに日本人たるものかくありたいものである。学生時代の教室内でいうならば、学級委員を務めたり委員会活動にしっかり取り組んだりホームルームでの話し合いにも積極的に参加する生徒がそうした方々にあたるのではなかろうか。ただし、教室内にいたのは、そういうちゃんとした生徒らしい生徒たちばかりであったとは決して思えない。少なくともぼくはそのタイプの生徒ではなかったような気がする。だから、東浩紀のいわんとしていることも、さらさら訳が分からないということもないのである。この世代の(一部の)人間にとっては、今回はとても辛く苦しい暗澹たる気分にさせられるような選挙となっている。ここまで選挙に何の積極的な意味を見いだせなくなるというのは、本当に初めての経験だといってよい。これまでにも、こんなちっぽけな一票が何の役に立つというのだろうという巨大な不信にかられてしまうことは、何度となくあった。それでも何かしらの未来への希望を繋ぐ一票なのだと信じてささやかな投票行動を行なえてきたのである。しかし、そのように思って自分を納得させることが、今回はとてつもなく難しいのである。70年の大阪万博があったころに生まれ、ベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧の民主化の波や共産主義の大国であったソ連邦の呆気ない崩壊を目の当たりにして、90年代初頭に選挙権を得たぼくらの世代は、この日本でも何か新しい時代の波が起こり、黒と灰色に染まっていた日本の政治も一新されて全く新しい時代を迎えることになるのではないかと、密かな希望の光を胸中に灯しながら成人になった。そして、投票というのは、いつだって旧来の日本型の政治体制(=自民党政治)に対して否を突き付ける意思表明という意味をもつものであった。この世代は、初めて選挙権を得たときから新しい時代の新しい政治の幕開けをずっと待ち望み続けてきたのである。その思いは何度も何度も挫かれた。それでも諦めずに、そこにまだあるはずの積極的な意味と未来への希望を見いだして投票を続けてきたのである。71年生まれの東浩紀もこうした世代のうちのひとりであるに違いない。だからこそ、今回の選挙には解散総選挙が現実のものとなった瞬間から大きく落胆させられっ放しで、積極的棄権という最後の最後の意思表明としての無投票行動の提案を唱えるまでに至ったのであろう。10月10日、目まぐるしく状況が移り変わる中で遂に選挙が公示され、実際に蓋を開けてみたら、そこにはもう本当に目を覆いたくなるほどの惨憺たる有り様が広がっていた。ここまで有権者をゲンナリさせる選挙がいまだかつてあっただろうか。全くもって酷いとしか言い様がない。自分の選挙区を見てみると、60代の自民党(前)と共産党(新)の候補と民進党から希望の党へ転身した前職の三名が立候補の届け出をしている。一体全体どこに投票したらよいのか。このあまりにもお粗末な現実には、暫し呆然とさせられる。現代の日本の政治情況というものが、見るからにスカスカで吹けば飛ぶような選挙ポスターの掲示板の余白に如実に表れている。ぼくたちがベルリンの壁の崩壊を固唾をのんで見守っていた頃にはすでに今のぼくたちと同じぐらいの年齢で社会の中で一定の成功を収め未来を見据えて政治活動に乗り出していたのであろう60代の候補者たちに、ぼくたちの世代の抱える何を託せというのだろうか。そうしたぼくたちの世代の声を代弁してくれるような可能性をもつ候補者が、どこにも見当たらないことに深く深く落胆せずにはいられない状況が目の前に現実としてある。これまでの25年ぐらいの年月は、一体何だったのかと思わざるを得ない。夢か幻であったのか。だが、時間の経過とともに自民党だって積極的支持層の頭数が疎らになってゆくことはもはや疑いようのない事実なのだから、一気に谷底に転がり落ちるように没落し、無惨にもバラバラに解体されて、いつしか消えてなくなってしまうこともあるだろう。ほんの少し先の20年代の初頭には、そうした徴候がはっきりと目に見えて現れてくるのではなかろうか。もしかすると、今回の選挙が、自民党が自民党として伝統的な自民党政治の選挙体制における強さを謳歌する最後の機会となってしまうということだって決してないわけではないはずである。そうした迫りくる危機の接近を当事者として強く肌で感じているからこそ、自民党政権はますます強権的な保守になってゆかざるを得ないのかもしれない。もうすでに破滅の物語は始まっているし、溺れかけているものほどよく足掻くものである。たぶん、東浩紀も次の総選挙では積極的棄権を唱えることはないだろう。今回があらゆる意味でドン底であることは間違いない。だから、次はもう少し苦しみのない状況を迎えられているのではないかと思われる。ぼくたちの世代はあの時代の激動に強い衝撃を受けているせいで相容れない人々を安易に排除したりはしなくなっている。そんなことをするのは全く〈いき〉ではないからだ。ただし、その代わりに、古い日本の政治を支えてきた人々がゆっくりと退場してゆくのをジッと待ち続けなくてはならなかったというだけのことなのである。
積極的棄権という姿勢には、どこかとてもX世代的な心性に通ずるものがあるようにも感じられる。ゆえに、その部分を踏まえずに既成の社会の正論をもってしてどんなにそこに批判を浴びせかけようとも、何とも的外れな印象しか受けなかったりもするのである。今回の総選挙は、この国におけるこの世代の存在というものを、もしかすると初めて目に見える形でくっきりと浮き彫りにする出来事となったのではなかろうか。ぼくらが実に面倒臭い厄介な世代であるということだけは、この機会にどうか覚えていておいてほしい。全世界的にX世代には旧来の世の中の常識というものはあまり通用しないようである。

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