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どんとこい投票

このところ選挙があるたびに、少しでも投票率を上げるべく投票の呼びかけが盛んに行われている。それだけ低調な投票率の選挙が続いていて、それを由々しき問題だと考える人も多くなってきているということだろう。それでも投票の呼びかけはもはや選挙につきものの恒例行事として行われているだけのようにも見える。それだけ投票率が改善してゆく動きは鈍い。選挙期間中は各メディアは各党の選挙運動の状況について伝えつつ、投票日には必ず投票に行きましょうとどこも投票キャンペーンを展開している。

まだ選挙に行ったことのない若者や政治に関心を持たない若い世代の人々は、投票をするとそれがどう自分が住む社会に反映されるかを知らない、もしくは投票が自分たちの生活にどのような意味を持っているのかを知らないので、わざわざ投票という行動をしようとはしないし政治にも参加しないといわれている。

ひとりひとりの一票がどう政治を左右するか、個人の一票が積み重なってどう社会をよくしていくかを、メディアはこぞって語り、投票行動を行うことの重要さを訴える。それでも、それがまだまだちゃんと広く伝わっていないので数字にはっきりと現れるほどの投票行動には結びついていないと言う。

それは本当に伝わっていないのだろうか。多分きっと全く伝わっていない人々もいるのだろう。だが、そういう人々ばかりではないこともまた確かであろう。投票しても何も変わらない。変わっても、また元に戻るだけだ。そう考えている人というのは、若者に限らず多くの世代で大半を占めているのではないだろうか。投票で何かを変えるというよりも、それ以前に変えなくてはならないものがあるのではないだろうか。投票と変化が直接に結びついていないと感じてしまう現実の実際の感覚をこそ変えなくてはいけないのではないか。何も変化を実感できない投票に時間を割いたり何か変化があることを期待したりしても初めから無駄なのだと見えてしまっていれば、それと関わり合うことすらも無駄にしかならないと思うだろう。そう思う人も少なからずいる。

目の前にある社会は、もうどんなに投票しても変わりそうもないように見えている。若い世代にとっては、物心ついたころからずっとこんな感じなのだ。何があってもさほど大きく変わらずにここまできている。選挙や投票とは関係ないところで、それは保持されているようにしか見えない。それは見るからに保持されるようにしてそこにあり、それを変えられるのは選挙で選ばれた代議士たちなのだろうが、投票で選ばれた代議士たちだってそのシステムが保持する選挙制度によって選抜された人々であり、何かを変えようとする議論も議論を進めれば進めるほどに変わらずに保持されるようにしてそこにあるものをそのまま保持する方向へと向かうものにしかならざるをえなくなってくるのである。投票しても、それによって選ばれた代議士の多くは、その古い仕組みを保持しようとするだろう。何かを変えてくれることを期待されて投票されたのに、どこまでも期待に対して鈍感なのか、元々の思想信条からなのか、実際にはまったく正反対のことをする。古い仕組みによって行われた選挙で選抜されたものは、自分たちの立つ大地を掘り返して自分たちの根を引き出し、それをひっくり返してしまおうとは思わないだろう。立つ場がひっくり返れば、自分たちの手で自分たちを転倒させ突き落とすことになるのだから。逆に、人々がこぞって投票することで、めちゃくちゃにおかしくなってしまうこともある。多くの人々が無責任に投票した結果として、極めて合法的に独裁国家が誕生してしまうこともありうるからだ。

投票しても変わらないし、投票したら投票したでおかしくなるかもしれない。知らないから投票しないのではない。伝わっていないから投票しないのではない。むしろそれを軽い気持ちでやってしまうと後々嫌な思いをすることになるかも知れないということを知っているからこそ投票しないという人々も中にはいるのではなかろうか。そもそも、投票しない人という人々の心は、決して一様のものではない。

どんなにテレビでネットで呼びかけても、それでも投票率はあまり上がらない。いやというほど、選挙の意味についてや投票の重要性についてのアナンウンスメントを目にしたし耳にもした。だが、割合にして有権者全体の半分ちょっとぐらいだけが投票をしているだけだ。国民としての決まり事のようなものだから投票する人ともはや何があっても投票しない人の完全に二種類の人に分かれてしまっているのが現状なのであろう。そして、この種別化された状態というのは、かなりの時間をかけて固定化されてきてしまっていて、そう簡単には変わることはないのだろう。少なくとも、現状の選挙制度や選挙のやり方である限りは。

ただし、そもそも投票率というものは、どんなに躍起になって上げようとしてもそれほど大きく上がることはないものなのではないだろうか。それは投票率が上がるときに選挙をすれば、おのずと上がるものなのであろうから。よって、選挙をしても投票率が上がらないのは、有権者の多くが投票をしたいと思っているようなときに適切なタイミングで選挙が行われていないからなのではないか。

また、本当に素晴らしい非の打ちどころのない代議士たちが選出されていて、全く申し分のない政治が行われているならば、その社会は選挙なんていうものはまったく必要のないものだと判断して、選挙を行っても投票率は驚くほどうんと下がってゆくものなのではないだろうか。それに、あまりにも投票率が高すぎるというのも全体主義や結束主義的で、ちょっと薄気味が悪い。もしかすると五割ぐらいの投票率というのは、高低どちらの極端な形にも偏っておらず、ひとまず落ち着くところに落ち着いているという感じでなのではないか。選挙に対して怠惰であることもまた現代の民主主義の一部であるということなのかもしれない。それが問題であるというならば、もっと新しい民主主義によって成立している新しい社会に変えてゆくしかないだろう。ただし、古いものを破棄するにしても現在の民主主義的方法によってしかそれが執行されなくてはならないものなのだとしたら、残念ながらそれは永遠に変わらずに落ち着くところに落ち着いたままなのかもしれないが。

国政選挙に一票を投じられる権利を有しているから、その人は有権者といわれる。それは民主主義国家によって付与されている投票の権利であり、それが国民に広く与えられていなければ民主主義国家ではない。有権者による投票なくして民主主義国家は成立しないから。だがしかし、本当にすべての人が有権者となれているであろうか。もし、そうでないとしたらそれは本当に民主主義国家なのであろうか。すべての有権者が投票しないことと、すべての人が有権者ではないこと。その民主主義は、どこもかしこも穴だらけでがたがたなのではないか。とてもみすぼらしい民主主義である。なんだかんだいってもそれは立派な民主主義に見えるというのならば、一度ちゃんと後ろ側にも回って下の方まで覗き込んでみてその現実の姿をまじまじと眺めてみるといい。もっともらしく嘘偽りを語り取り繕うのだけが巧みな人々は、点前の民主主義にも二枚舌を用いるものである。

個々の有権者は、投票用紙に名前を書き込み、投票箱に投ずるという儀式的な行為を繰り返すことで、何やらものすごく国民のすべきことを真っ当にしているような気分になり、人として善い行いをしたと思い込みとても満たされた気分になる。そういう人々は一種の善行であるところの投票を一度でも欠かしてしまうようなことがあると、ひとりの国民としての大切ななすべきことをしわすれてしまったような気分になり、とてもモヤモヤとしてしまう。そういう気分にはなりたくはないから、忘れずに投票にゆくようにする。そう心がける。そういう心がけの通りに選挙のたびに投票をする。そうすると次の選挙のときまでずっとすっきりと満ち足りたような気分になれるのである。選挙という言葉を耳にする目にするたびに後ろめたい気分にならずに済む。そうなることを経験で知っているから、常に心がけて善いことをするようにする。投票したことで得られる満足感は、国民として有権者として何物にも変えがたい。その一方で、最初から特に投票しようとは思っていない人は、自分が投票しないことに対して、何の感情ももつことはない。

投票率を上げようとするのは、ひとりの有権者として国民らしい行いをしている、がんばって投票を行っている人たちが、もっと世の中において自分たちの勢力を拡大して、ともにいい気分になるためのものなのだろうか。選挙の結果よりも、投票した人たちが、圧倒的な多数になることの方が重要なのだろうか。もっと有権者として善い行いをしている、よい気分を味わえる人々が増えることが、国民にとって大変に喜ばしいことになるのであろうか。投票した人たちがすごくいい気分になっているのを見て、今までに投票してこなかった人々もそれを模倣して投票しにゆくようになるのであろうか。これまで投票してこなかった人々を、投票行動へと駆り立てることが、がんばって投票してきた人々にとっての喜びにつながるのか。投票率が上がれば、投票率を上げるためにがんばってきた人は、日本の社会や政治を少し変えることができたと思うのであろうか。投票する人が投票してこなかった人に大勝利することが民主主義なのであろうか。民主主義は多数決であると、よく人はいう。本当にそれは数で決まる勝ち負けの問題でしかないのか。

投票は万能ではない。投票だけで何もかもが可能になるはずもない。できることならば、投票ですべてが片付いてしまうとよいのだが。んなわけない。投票だけでは、すべてがばたばたと片付くようにするためのお膳立ての準備の準備ぐらいにしか、まだならないだろう。何かが変わったり実際に動き出したりするのは、そのさらに先の先のことだ。であるからして、投票しないと何も始まらないということではあるけれど、投票がすべてというわけでは全くないし、それは万能でもなんでもない。投票は、ただの投票だ。能はそれほどないけれど、夢や希望は思い切り託される。バランスが悪い。

投票は民主主義の基礎をなすとても素晴らしいものであって、民衆が長い闘いの末に勝ち取った尊い権利である、とその美しき来歴や特性をいえばいうほどに、投票がポルノ化してゆくように感じられる。どちらかというと、もはやそれは完全にポルノだ。それを大いに賞で讃え尊び奉る多くの好事家たちが選挙の周りに群れていて、ひとたび選挙ともなると目の色を変えて色めきたつ。ポルノには使用価値もある。それは気持ちのいいことに結びつけられるものである。選挙を愛する人々は、すっきりと気持ちよくなるために投票する。もう病みつきになるくらいにそれは気持ちのよいものだから、それは選挙の快楽に飢えた人々を惹きつけてやまない。しまいには、投票箱の小さな穴に投票用紙をするっと入れる夢想をするだけでエクスタシーを得られるまでになる。謂わば投票中毒である。

そうした投票のポルノ的な魅力にまだ気がついていない(投票ヴァージンな)人々には、そら選挙だと色めきたってぎんぎんになっているぎとぎとの好事家たちから投票しろ投票しろと色々なところでプレッシャーがかけられる。一度するっと入れてみれば、それがこのうえなく気持ちいいことであることをすっかり覚えてしまって、きっと病みつきになるだろうと投票マニアたちは踏んでいるから。齢も十八以上になればもはや適齢期なのだから気持ちよさを知らないままでいることは損である。ひとりで夢想してすっきりしたい気分のときに好きなだけ気持ちよくなることもできる。それは、こっそりとひとりでも楽しむことができる、ちょっと大人になった気分になれる気持ちいこと。あなたはそれを楽しむ権利を有している。しかし、それは、マスターベーション、つまりオナニーなのではないか。

はたして、投票してみてどうなっただろう。投票した前も後もほとんど同じで、何も変わったように感じられないならば、それは投票というポルノにのめりこんでオナニーしたのとほぼ同じことなのではないか。投票をただの個人的な快楽のためのポルノにしないにためには、どうすればいいのだろうか。投票を自慰行為にしないために、われわれがしなくてはならないこととはなにか。ポルノのような魅惑性を失い、ちっとも気持ちよい投票ではなくなってしまったら、もはや誰も投票しなくなるのだろうか。

投票、それは積極的政治参加だろうか、どちらかというと、それは自発的隷従でもありはしないだろうか。この国の未来を決定するのは、投票された一票一票に込められた有権者の意思である。国家の形を決定する議会制民主主義というものに一国民として参加する方法としての投票。投票とは国家の主権者である、ひとりひとりの国民に与えられている権利である。しかし、いざそれを実行するという段になると、主権者たる有権者は、決まった場所、決まった日時に、わざわざ足を運んで投票しなくてはならない。現在、有権者の半分とちょっとぐらいの人々がそれをしている。あえて文句も言わずに。粛々と。決まり事に従って。八割や九割の人が投票に参加する国家でそれが行われている景色を想像してみて欲しい。いつも朝から晩まで投票所の前には長蛇の列ができていて、人々は静かにそこに並び自分の順番がくるのを大人しく待っていて、機械的に一票を投じて、静かに疲労の色をにじませながら帰路につく。投票行為そのものが不気味な国家的儀式であるかのように見えるだろう。

投票という行為には、どこか自発的隷従に通ずる要素がないわけではない。あらゆる社会秩序は衆人の服従を前提とするものであるから。行政が行政側の都合で取り決めた、指定された日時におとなしく出頭しておとなくしく投票する。その行為自体が、たった一票の投票を通じて政治に(微かに)参加する権利の行使であるとともに、その国家そのものと社会システムに対する服従・隷従と信任の意思表示となってしまってはいないであろうか。全面的に容認できないものに対して、投票や棄権という行為を通じて加担をしてしまうということは、矛盾と自家撞着を引き起こしてしまっていないであろうか。投票を、投票を、とにかく投票をと、さもそれが重要なことであるかのように、断定して断言してしまうことには、少しばかり危うい面があったりもするのではなかろうか。あなたの一票で政治が変わる。確かにそうかもしれないが、それは、あまりにも一票の価値を大きく言い過ぎではないだろうか。一票がそれほど大きくもないし重くもないから、市民が投票する意味があるのではないか。いくつもの一票がうずたかく積み重なったときに、初めてその一票は意味をもち社会や政治を動かしたりするようにもなる。たかが投票、されど投票、それぐらいの感覚で投票するのがちょうどいい。だが、自分が投じる一票が、その一票の投票を促すもの全体への信任か不信任かを左右するといわれても、あまりにも問われているものが大きすぎて、気軽には投票してはいけないように思えてきてしまうのもわからないではない。有権者が投票することで成立する議会制民主主義のその根幹をなす実践的な投票行為そのものが政治権力への隷従の意思を表明するものとなるとき、投票も議会制民主主義も隷従行為と隷従への隷従を促す権力機関でしかなくなってしまうのではないか。自発的に隷従しない権利を行使するための一票とは、いつどこでどのように投ずればよいのだろうか。投票を棄権するのも、選挙に不参加という意思表示を示して選挙の儀式に参加したことになり、国民国家と社会のシステムそのものに対しては服従をし信任をしたことに等しいという扱いになってしまうのだとしたら。

自発的隷従はなぜ悪いのか。そうしないものには、社会の仕組みを変える権利が与えられないからか。それとも、そうした隷従しないものこそが社会の仕組みを変えるためのシステムという土俵の上に立てるのだろうか。今ある社会やシステムを変えるのに今の社会やシステムから与えられる権利というものは本当に必要なのだろうか。何かを変えるのは、いつも自発的に隷従しないものなのではなかったか(何かを元に戻すのも、自発的に隷従しないものだっただろうか?)。もしかすると、社会を変える権利などを与えないために選挙を行い、有権者に現行のシステムへの信任投票させているだけなのではないだろうか。

自発的隷従っぽくない投票なんていうものはありえるのか。好きなときに自宅から郵便やネットで投票することができれば、少しは隷従している感じは軽減されるだろうか。立候補者に投票しない自由もあるといいだろうか。一般の市民の中から代弁者を他薦で推挙することも可能になる。もちろん、選出された代弁者には辞退する自由もある。現金をどしゃどしゃ使って当選した代議士(上院?)とは別に、より広く市民の声を代弁する代表者(下院?)は必要である。また、政治について論じるにふさわしい人に代理で議論してもらうことも代議士たちの頓珍漢な議論に歯止めをかけるという意味で大いに役に立つだろう。リアルタイムの世論調査の結果や数字を踏まえた議論と政治決定をすることで、よりスピーディな行政が可能になるかもしれない。国会の議論に対して、常にリアルタイムで投票が行われると、より議論が深められるようになるかもしれない。有権者はもっともっと自由に頻繁に事細かな投票できるようになってもよいのではないか。人々がそれぞれの生活スタイルに合った投票ができるようになってもよいのではないか。だって投票なんだから。今までは投票率が五割ちょっとぐらいの選挙で選ばれた代議士たちが一から十まで決定する議会制民主主義であったのだから、投票というものをもっともっと自由化し民主化することで国民と有権者のより広い政治参加を可能にしてゆくことは、大きな進歩ではないだろうか。自発的隷従型の投票で選出された代議士が社会やシステムを変えるのとは、また違った形式で社会とシステムをよりよい生活しやすいものに変えてゆくことができるようになるのではないか。どちらにしても、今のままの選挙と投票では、ちょっとモヤモヤしてしまってダメということだけは、何となくもうすでに見えているのではないだろうか。

非自発的隷従型の投票について考えることは、議会制代議制民主主義の根幹を問い直すことにも通ずる。コロナ・ウィルスに感染し発症し入院措置がとられるほどの症状となりベッドの上から動くことができなくなってしまった人々ほど、もしかすると実際に総選挙で投票をして意思表示することを望んでいたのではなかろうか。投票に行けない(社会的問題の渦中にいる)人々の声が届かない議会では、何の意味もない。国会での馴れ合いベースの議論とも茶番ともつかない話し合いらしきもので、主権者たる国民の総意を取りまとめることができるのだろうか。岸田文雄の小さなノートの中身は余白だらけなのではないか。人の話を聞いてメモして行間に埋まっているものまでをも読み込める聡明なる人物にリーダーになってもらいたい。

投票にも自由と平等を、分断ではなく連帯のための投票を。では、そのためにどうすればいいのか。たった一票でどうこうするのではなく多くを選べるようにするべきか。人間はその時その時で最も良いものだけを選択できるだろうか。投票は取り下げることが可能になる。後になって、間違った投票をしてしまったことに気づくこともあるだろうから。代議士は、投票を取り下げらると獲得ポイントが減点になり、あまりに酷い代議士は次点で落選した待機者とすぐに交代させられるようになる。地方議会の監視、遠隔会議、議会採決への代議士以外の有権者の参加。これまでに投票に参加しなかった人々が求める未来の社会を実現させることこそが今や本当の政治の仕事であるのかもしれない。これまでに一度も政治家によって汲み上げられることがなく、最も政治から遠いところにある市民の声が、それであるから。そういう声にも応えてこその民主主義であり社会的連帯というものも形になるのではないか。どうすればそういう声を拾い上げられるだろうか。考えれば方法はいくらでもある。その方法を実現してゆくためにも、これまでのような自発的隷従型投票だけではダメなのではないだろうか。

突き詰めて考えてゆくと、人間の生活のすべてが政治に関わっているとするならば、人間の生活すべてにおいて投票があって然るべきであるのかもしれない。生活の場がすべて投票所となる。常時動き続けている民意をどのようにして効果的・効率的に政治に反映させてゆくのかが鍵である。決定できないものに対して敢えて当落の線引きをして決定とした選挙の結果があり、またそれに基づいて幅広い議論が行われ、国民がそれについて各々で考え、いつもながらのてんでばらばらな投票が行われる。民主主義的な議論は進んで戻ってを繰り返すもので、それを経てこそ民意によってすべてが決定されるようになる。生活の基本の部分こそ民主主義的な選挙で選出された代議士が民意を反映させてあらゆる立場の人々の声を盛り込みながら決定することがふさわしい。大きな決定にも小さな決定にもリアルタイムの民意と人々の声が反映されるようにならなくてはいけない。

もっともっと選挙や投票というものが有権者の側に引き寄せられないとダメなのだろう。解散総選挙は総理大臣の専権事項なんて言っているようでは、まだまだ道のりは遠い。というか、そんなのお門違いも甚だしい。どんな小さな寄り合いであっても、幹事は出席者全員の都合を考慮して日時と場所を決めるのではないか。やはり、それぐらいの感じではないと民主主義的とはいえないのだ。もうこれ以上は為政者の言いなりにはなりたくないと強く思っている。選挙も、投票も、あれもこれもみんなすべて。

しかし、今のままの選挙がどうしても必要というのならば、それでもいい。「選挙の日ってウチじゃなぜか投票行って外食するんだ」文化を守りたいのであれば、そうするがよかろう。いや、そういう投票の日にこそ、それこそ地域で使えるクーポン券を発行すればよいのではないか。家族で出かけるついでに投票。それぐらいがちょうどいい。だが、そうしたトラディショナルな選挙とは別に、もっと自由で民主主義的な投票がないと釣り合いが取れないようにも思う。釣り合いの取れていない民主主義なんてあまり認められたものではない。ただ、今もうすでにかなりそうなってはいないだろうか。だから、もうこれ以上それが何食わぬ顔で継続されるのはちょっと勘弁ならんと思うのである。

(2021.12、2022.02)

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