見出し画像

1992年のランアウェイ

原題「イチキュウキュウニイ、ランアウェイ」

【一】

1992年の暮れ。取りたてて何も変わったところのない、ごく普通の12月のとある一日。昼をすぎて、少しした頃に、友人のK君(a.k.a. メタリックK.O.)が、ふらりと遊びにやってきた。ぼくらは、いつものように、あれやこれやと特に結論を必要としない、実にユルい音楽談義に花を咲かせていた。そんなダラダラとした極めて非生産的な時間を過ごすことは、ぼくらにとっては、非常に有意義で心地のよいものであった。西の空に傾いた弱々しい冬の陽光が、全てをうっすら黄金色に染めるように差し込む部屋で、ぼくは会話の合間に、次々とハウスやガラージのレコードを取り出して、ターンテーブルにのせていった。新譜のシングルや中古盤屋巡りでの最新の収穫を、K君に聴かせて、どんな反応をするかをうかがうために。そんな普通に音楽のある風景こそが、当時のぼくらにとっては、よくある日常の一コマとなっていたのである。

K君と初めて会ったのは、高校に入学した日、入学式の当日であったはずである。同じ1年9組(当時、一学年には、なんと約40人のクラスが10組もあった!)に籍を置く、いわゆるクラスメイトであった。だが、一番最初に話をしたのが、いつのことだったかは、はっきりとは覚えていない。ぼくたちの通っていた県立の公立高校には、学校のあった市内のみならず、同地区内の隣接する市や町の数多くの中学校から、たくさんの生徒たち集まってきていた。そんな生意気盛りの子供たちが、突然ひとつのクラスにまとめられたわけである。たぶん、いきなり入学式の当日から、気安く打ち解けるといった感じではなかったように思う。誰もが高校という真新しい環境に早く馴染もうと、言いようのない緊張感や緊迫感を抱きながら、そこにいたのではなかろうか。当然、同じ中学校の出身者がクラスにいれば、知った顔同士でかたまってしまう傾向も生じる。ぼくも最初はそうであったはずである。そんな顔見知りの輪は、統合したり分割・吸収したりを繰り返しながら、次第に大まかなクラス内の勢力図を形成してゆくことになる。
 市外の中学校の出身であったK君は、クラスの中でも最も遠方から学校に通ってきている生徒のひとりであった。地理的には、すぐ隣町であるのだが、普通に通おうとすると、JR川越線でいったん川越駅まで出て、そこから本川越駅まで徒歩かバスで移動し、西武新宿線に乗り継いで通学しなければならない。しかし、これでは、とんでもない大回りの通学コースになり、時間も電車賃も余計にかかってしまう。そんなのは、あまりにも無駄でバカバカしいと感じたのであろう。K君はスポーツ・タイプの自転車にまたがり、はるばる隣町から颯爽と長距離の自転車通学をしていた。独特の尖った雰囲気があり、かなり目立つキャラクターの持ち主であったK君は、いつしかクラスの生徒の輪の中心に座を占める存在となっていた。最初から、何をやっても、何を喋っても、注目を集めやすいタイプの少年であった。今から思うと、相当にロックな感じの、よく切れるナイフのような雰囲気のある高校一年生であったように感じる。
 ぼくとそんなK君を引き合わせたものは、やはり音楽であった。音楽、つまりロックという共通の話題が、ふたりの間の距離をグンと狭めたのである。ただし、K君はヘヴィ・メタルやハード・ロックを好むバリバリのギター少年であり、ぼくはといえば、恐ろしく排他的で何に対してもアンチなパンク小僧(パンク・ロック原理主義者)であった。普通に考えれば、完全なる水と油の間柄である。幼稚な頭で青臭いアナーキズムにかぶれ、高校の3年間に学校の図書館からニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)の著作を片っ端からくすねまくった(巻末の図書カードを見ると、ほぼ誰にも借りられた形跡がなかったので、拝借してしまっても特に問題はないと独断で判断してしまったのである)ぼくは、当時、ハードコア・パンクのビートはどこまでも速くあるべきで、お決まりの様式美を追求しただけのギター・ソロなんてものは無用の長物であると、本気で信じ込んでいた。まあ、しかし、細かな枝葉の部分での好みは完全に食い違っていたのかも知れないが、音楽好きでロック好きという共通項は、高校に入学したての見ず知らずのふたりの少年が友人関係を構築してゆくのには、充分すぎるものでもあったようだ。たぶん、最も初期の段階で、お互いにそのよさを認めることができたのは、おそらくギズム(GISM)であったように記憶している。確か、休み時間に廊下でダラダラしている時に、K君が、ランディ内田のギター・テクニックについて熱く話していたような気がする。いや、もしかすると、あれはギズムの感想ではなく、ランディ内田グループを聴いた感想だったかも知れないけれど。このあたり、実に曖昧な記憶である。だがしかし、学校の廊下で「ランディ内田は、日本のランディ・ローズ(Randy Rhoads)なんだ」と、K君が少々興奮気味に熱弁をふるっていたことだけは、今でもハッキリと思い出すことができる。
 高校入学から約1ヶ月が過ぎた頃、ぼくとK君は、休日に一緒に遊びに行く約束をした。たぶん、スーパー・ロック・マガジン『DOLL』に広告が載っていた原宿のロックな洋服や小物の専門店、シカゴなどの古着屋、西新宿あたりの輸入盤やインディーズのレコード(自主制作盤)を取り扱っている店などに買い物に行ったのだと思う。当日、どこに行って、何をしたのかは、全くおぼえていない。ただ、強烈に印象に残っているのは、K君が、少しグレーがかったピンク色の丈の長いスプリング・コートらしきものを着てきたことだ。それまで学校での制服姿しか見たことがなかったせいか、ピンクのコートというのは、とてつもないインパクトを放って、ぼくの目に飛び込んできた。しかしまあ、ぼくはぼくで、汚い細身のジーンズにTシャツ、そこに穴だらけのズタボロに加工したタンクトップを重ね着し、どこかの道端で拾った細めの鎖を肩から襷状にかけて、その上から皺クチャの長袖の綿シャツを羽織るという、何ともみすぼらしいパンク小僧然とした服装をしていたと思う。もしかすると、モトリー・クルー(Motley Crue)かラット(Ratt)かという雰囲気の色鮮やかなコート姿のK君には、ぼくの小汚いズタボロなパンク・ファッションは、逆の意味でインパクト大であったかも知れないけれど。夕刻を過ぎ、とっぷりと日が暮れた頃に、電車で川越まで戻ってきたぼくらは、新富町通りのパン屋(ローゼンベック)の2階の喫茶スペースで、いつものようにダラダラと時間を過ごしていた。あちこち見て回り、少し歩き疲れていたのかも知れない。一杯のアイス・コーヒーだけで何時間でも粘れる、特に店員も常駐していない明るく広々とした、そのパン屋の2階の喫茶スペースは、ぼくらのような悪ガキ連中にとっては恰好の溜まり場であった。中央の大きなテーブルの上に置かれたテレビでは、マドンナ(Madonna)のライヴ・ヴィデオ(『ザ・ヴァージン・ツアー』)やデュラン・デュラン(Duran Duran)の「Girls On Film」(これが流れると、ぼくたちは条件反射的に会話を中断し、みなで奇声や歓声を発しながら画面の周りに集まり釘付けになっていた!)などの音楽ヴィデオが、常にエンドレスでダラダラと流されていた。そして、その行きつけの喫茶スペースの窓側、人通りもまばらな夜の休日の商店街を見下ろす座席に並んで腰掛けてボンヤリしている時に、K君が、おもむろに何気ない口ぶりでぼくに聞いてきた。「そんな服、どこで売ってんの?」と。実際の話、それはどんな店にも売っていない服だった。自分で裁ちバサミを使い、もう着なくなったシャツやタンクトップを切り刻み、穴だらけにしたズタボロを、ただ重ね着しただけのものであったからだ。むしろ、K君がぼくに投げかけてきた質問は、こちらからK君に聞いてみたいものでもあった。あんなピンク色のド派手なコート、いったいどこで買ったのだろうか。
 ぼくらが在籍していた1年9組には、もうひとり忘れてはならない音楽好きの少年がいた。それが、A.R.B.の熱烈なファンであったドラマーのM君である。最初にM君と話したのは、ぼくが学校に持っていっていたオート・モッド(Auto-Mod)の「時の葬列」のチラシがキッカケであったと記憶している。目ざとくそれを発見したM君が、「こういうの、よく観に行くの?」と聞いてきたのだ。その場ですぐ、ぼくらは今までに行ったコンサートやライヴの話などで軽く盛り上がった。たぶん、それはちょうど、ぼくが高校入学直後の85年4月28日に新宿アルタ前でのラフィン・ノーズ(Laughin' Nose)の無料ソノシート配布イヴェントに行ってきた、ほんの数日後であったような気がする。M君は、あの日のアルタ前に行かなかったことを後悔しつつ、ぼくにA.R.B.のドラマー、キースのクールなかっこよさについて熱心に語ってくれた。そして、隣のクラス、1年10組には、ジョニー・サンダース(Johnny Thunders)を神のように崇め、ハノイ・ロックス(Hanoi Rocks)を心より愛する、大将の愛称で知られるH君がいた。最初にぼくらがH君の大将ぶりを目撃したのは、9組と10組の男子生徒が合同で受ける時間割が組まれていた体育の授業においてであった。その記念すべき初回の授業で、10組の担任でもある体育教師のオトジ(通称)に名指しされ、なぜかいきなりH君は、ぼくらが整列している前に出て鉄棒をやらされる羽目になった。すると、見るからに大将らしき人物が、何喰わぬ顔で颯爽と前へ歩み出た。そして、次の瞬間には、おもむろに鉄棒をしっかりと掴んでいたのである。あの時のH君の鮮烈なイメージは、どこからどう見ても大将そのものな雰囲気だったと記憶している。大将は、真冬でも学生服を腕まくりして廊下を大股で闊歩する、遅れてきたバンカラ気質をプンプンと漂わせている実に硬派な高校生であった。後に、ともにバンド活動をしてゆくことになる主要なメンバーたちは、このように1年9組と1年10組に最初からズラリと顔を揃えていたのだ。これは、ある意味、かなり奇跡的な巡り合わせでもあった。ぼくらは、ことあるごとに、誰かしらと常に行動をともにしていた。この音楽仲間の結びつきは、どこかサッパリした雰囲気をもちつつも、とても強力なものでもあった。休み時間や昼休みには学校を抜け出して、校門の目の前の駄菓子屋の隅の薄暗いゲーム・コーナーに入り浸って授業をサボったり、学校帰りには新富町通りの貸しレコード屋、G7に直行して新入荷の輸入盤を漁り、翌日の学校では借りたレコードの感想を報告したり、『Fool's Mate』の最新号が出れば面白かった記事の話題で盛り上がり、チェックした輸入盤の新譜の情報を共有しあった。ぼくらの学生生活は、ほぼ音楽を軸にしてまわっていた。
 そうした当時の忘れられない数多くの思い出のひとつに、『PURE ROCK』に関するものがある。『PURE ROCK』とは、TBSで深夜に放送されていた音楽ヴィデオ専門番組であった。伊藤政則や和田誠がぶつくさと喋りながら、ハードなロック系のヴィデオばかりを流しまくるのだ(当時のTBSの深夜番組枠では、ロックパラスト(Rockpalast)のライヴ映像が放送されていたり、かなり侮れぬものがあった)。そんな、いまいちユルそうな、この『PURE ROCK』の放送で、いきなり大事件が巻き起こった。おそらく、この番組で、ガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N' Roses)の「Welcome To The Jungle」が、日本で初めてテレビ放送されたのである。その放送の翌日、朝の学校の廊下は、ちょっとした騒ぎになっていた。「昨日のあれ、観た?」。「なんか、凄かったな」。「一瞬、マイケル・モンロー(Michael Monroe)かと思ったけど違った」。「あの動き、すごく面白かった」。朝っぱらから興奮気味に騒いでいたのは、ぼくらの仲間内の数人だけであったが、ガンズ・アンド・ローゼズの出現が、明らかに衝撃的な大事件であったことだけは、うっすらと皆が感じ取れていた。ぼくらは、大袈裟な身ぶり手ぶりで「シャナナナナナナ」や「ソッ!ダウン」のパートのアクセル・ローズ(W. Axl Rose)の印象的なアクションを、何度も繰り返し物真似して、早くも楽しんでしまっていた。こんなにも、新人バンドのたった一本の音楽ヴィデオで盛り上がれてしまえたなんていうことは、たぶん、これが最初で最後であったかも知れない。名作「Welcome To The Jungle」の影響力は、それほどまでに甚大なものであった。そして、ガンズ・アンド・ローゼズは、いきなり登場とともに音楽好きの一部の高校生の間で、超ウケる存在となってしまったのである。

【二】

高校を卒業する頃になると、いつしかK君は、熱狂的なプリンス(Prince)の信奉者に転向していた。元々、音楽の好みの移り変わりは激しいほうではあったが、この殿下のパープルな音楽への傾倒ぶりにも、相当に急激なものがあった。その後は、プリンスからさかのぼってジョージ・クリントン(George Clinton)へと流れて、パーラメント(Parliament)やファンカデリック(Funkadelic)のPファンク(P-Funk)から、その大元のキング・オブ・ソウルことジェームス・ブラウン(James Brown)といった道をたどり、ものすごい勢いでドープなファンク道にズブズブとのめり込んでいったのである。この頃、ぼくらの周辺では、こんなことを口走る者たちが続出していた。「もうPは卒業して、これからはFだ」と。つまり、これはパンクからファンクへの宗旨替えの宣言である。事実、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)「Fight Like A Brave」の音楽ヴィデオに宿っていた、得体の知れない爆発的なパワーに感化されて、新感覚のファンク・ロックに目覚めた若者は、ぼくの周辺にもかなりいたのである。退屈な10代の日常に吹き溜まったものを吹き飛ばすには、傍若無人な野性味あふれるファンクの凶悪グルーヴこそが、まさにもってこいのサウンドであったのだろう。もはや、パンク少年たちは、ハードコア・パンクのノイジーなギターやドタドタしたドラムの疾走感だけでは、全然物足りなくなってしまっていたのだ。一時期、K君たちは、常にチリ・ペッパーズのテープばかり聴いていた印象がある。そして、それとほぼ同じ時期のぼくはといえば、マーク・アーモンド(Marc Almond)やコイル(Coil)などのSome Bizzare系、ジミー・ソマーヴィル(Jimmy Somerville)のブロンスキー・ビート(Bronski Beat)やザ・コミュナーズ(The Communards)、そしてMuteのイレイジャー(Erasure)といった、なぜか気がつけばゲイな人たちの音楽ばかりを聴きまくっている奇妙な期間を経て、スティーヴ“シルク”ハーレイの「Jack Your Body」などのシカゴ・ハウスを皮切りに、マーズ(M/A/R/R/S)「Pump Up The Volume」やボム・ザ・ベース(Bomb The Bass)「Beat Dis」などの初期のロンドン産アシッド・ハウスとの遭遇を足がかりにして、ズブズブとハウス・ミュージックの奥深い世界へと足を踏み入れていっている真っ最中であった。まあ、パンク~ニュー・ウェイヴからハウス・ミュージックへの転向者が辿る道筋の定番として、エレクトロニック・ボディ・ミュージック(EBM)やベルギーのニュー・ビートの方面にも少し顔を突っ込んだりもしたのだけれど。だが、その後ほどなくして、ファンクに取り憑かれていたK君も、ブレイクビート・スタイルの初期のハードコア・テクノへの軽い寄り道を経て、こちら側のハウス~ガラージ系のフィールドへと無事に降り立つこととなった。どうやら、NYのダンス・サウンドに、洗練されたファンクやソウルの匂いを嗅ぎ取ったらしいのである。こうして、ぼくたちは、また同じ路線に流れ着き合流を果たした。すると、K君は、かつて殿下の音にのめり込んでいったのと同じ様に、今度はラリー・レヴァン(Larry Levan)のDJスタイルに急激に心酔していったのである。ぼくらは、それぞれにあちこちの中古盤屋を巡り歩いては、ガラージ・クラシックスと呼ばれるレヴァンが〈Paradise Garage〉で好んでプレイした、ジャズやファンクやディスコの年代物のレコードを血眼になって探しまわった。また、誰も知らないような掘り出し物や珍品を入手した際には、早速ターンテーブルにのせて、「このベースラインは、かなりガラージっぽい」だとか「最初の方はよかったけど、途中から少しダレてくるんで、DJで使うなら前半部分のみだ」とか言って、ともに収穫物のレコードについて真剣に批評しあったものである。まだまだ、ガラージなどに関する詳しい情報が、極端なまでに流布していなかった時代に、ぼくたちは、ほとんど手探り状態でアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックの探究を進めていた。
 ちなみに、ぼくが初めてテクニクス(Technics)のターンテーブル、SL-1200に触れたのは、K君の家に遊びにいった時だった。あのピッチ・アジャスターのスムーズな操作性と非常に高度なターンテーブルの回転の安定性は、まさしく衝撃的で、脳みそを金槌でしこたま殴られたような革命的体験となった。テクニクスに触れたことで、それまで分厚い謎のヴェールに包まれていたDJミックスの何たるかを、瞬時にして直感的に理解できた気さえもしたのである。当時、ぼくが自宅で使っていた安っぽいちゃちなターンテーブルでは、必死にBPMを同期させようとしても回転速度が安定していないせいか、ぴたりとピッチを合わせてミックスすることは、とんでもない至難の技であった。従って、ほぼ手動でレコードの回転を早めたり遅めたりしながら、先行曲のビートが途切れるパートを狙って次の曲をミックスしていったり、各曲のBPMの微妙な違いを利用して先行曲よりも早いBPMの次の曲を少しタイミングを遅らせて送り出し、ちょうど先行曲を次の曲が追い抜かしてゆく際の、しばらく両者が並走しているように感じる瞬間を狙って徐々に(だが手短に)ミックスを試みたりと、かなり原初的でプリミティヴなスタイルのDJミックスらしきものを行って、ほとんど綱渡り状態で曲を繋いでゆくしかないレヴェルにいた。基本的に2枚のレコードのピッチは、全く合ってはいないので、手動の操作を誤ったり、少しでもタイミングを逸したりすれば、すぐさまガタガタでグチャグチャなミックスになってしまう。あの頃、ぼくの家に遊びにきて、ダラダラとした取り留めのないお喋りに興じながら、そんな粗暴で野蛮なミキシングをBGM代わりに聴かされていた友人たちは、ガタガタのグシャグシャな状態になると決まって、「あ〜あ、またカオスだぁ」と苦悶の表情を浮かべながら両手で頭を抱え込んだものであった。だが、考えようによっては、そうした原初的な手動方式のミキシング・スタイルというのは、70年代初頭のNYのアンダーグラウンド・シーンで活躍した、〈Sanctuary〉のフランシス・グロッソ(Francis Grosso)や〈The Gallery〉のニッキー・シアノ(Nicky Siano)などの勇敢なDJ文化の先駆者たちが、薄暗いブースで機材と格闘しながら行っていたミキシングと、もしかすると、かなり近い雰囲気をもつものであったのではなかっただろうか。ただし、ミックスの達人であったグロッソやシアノが、ガタガタのカオスな状態を熱気に満ちたダンスフロアにもたらすことは、とても稀なことであっただろうが。ただ、最初に安っぽいちゃちなターンテーブルを(偶然にも)使用してしまったことで、ある程度ではあるが、ミキシングに関する初歩的かつ原初的な部分での基礎的技術を、みっちりと鍛錬できたことは確かである。いきなり入門時から70年代初頭のDJたちが悪戦苦闘しながら歩んだ道筋を、疑似追体験的にでも辿ってゆくことができたのだから。その後、ようやく念願のテクニクスを手に入れたぼくは、憧れのロング・ミックスに明け暮れた。手についたレコードを片っ端からターンテーブルにのせ、ただひたすらにミックスしまくったのである。それまでは行き当たりばったりに掠るような繋ぎしかできなかったせいもあり、ふたつの異なるレコードが、ほぼ同じテンポで混ざりあって鳴り続けるという現象自体が、もう楽しくて楽しくて仕方がなかったのだ。反動とは、本当に怖いものである。まさにDJミキシングの魔力に、取り憑かれてしまっていたようだった。そうとしか言いようがない。そして、間違いなくそれは、いまだに取り憑いたままなのである。テクニクスに触れ、レコードをミックスする楽しさは、実際、あの頃と何ら変わってはいない。アダムスキー(Adamski)に「Bass Line Changed My Life」というタイトルの曲があったが、ぼくの場合は、さしずめテクニクス・チェンジド・マイ・ライフといったところであろうか。

【三】

そして、ようやく話は、冒頭の1992年12月のとある日の、何の変哲もない午後のダラダラとした時間へと戻ることになる。12月といえば師走。パール・ハーバーに討入りにクリスマスに紅白歌合戦にと、何かと慌ただしいことこのうえない1ヶ月だ。この、いよいよ押し迫った時期になると、決まって音楽好きの間で話題になるのが、年間ベストについてである。そうと相場は決まっている。12月には、誰も彼もが自分の年間ベスト作品を決定するために、いろいろと頭を悩ませることになるのである。この日も、いつしか話題は、知らず知らずのうちに、年間ベストのシングル盤の選択という方向へと流れだしていた。そこで、K君が、単刀直入にぼくの年間ベスト・シングルをたずねてきたのである。だが、かなりのレコード・オタクであったぼくらにとって、こういう類いの非常にデリケートな問いに対する答えというものは、その問いが唐突であればあるほどに、なかなかそうすぐには思い浮かばなかったりするものであったりもした。
「えーっと、そうだなあ。何だろう。何かなあ。何があったっけなー」
 ぼくは、必死になって猛烈な勢いで記憶の糸を手繰り寄せ、その一年間に印象に残ったシングル盤を、頭の中に片っ端から並べ立ててみた。そして、使い勝手のよさや作品としての満足度などの様々な角度からの評価を一枚一枚にあてはめ、それらを次々とソートし整頓していったのである。だが、頭の中だけで優劣をつけて、きっちりと順位通りに即座に並べてゆこうとしても、いつの間にか全てがごちゃごちゃになってしまって、記憶の糸などももつれにもつれてこんがらがり、もう完全に訳が分からなくなってくる。途方に暮れてしまったぼくは、部屋の中を見渡し、あたり一面を占有している山のようなレコードの中から、めぼしいものを見つくろってゆく方法を試みてみた。しばらく悩んでいると、ある一枚のレコードのイメージが、はっきりと頭の中に浮かび上がってきたのである。モヤモヤと頭の中にかかっていた真っ白い霧が、スーッと一気に晴れてゆくかのように。
「そうそう、あれだ、あれ。あの、ディー・ライトのマスターズ・アット・ワークのやつ」
 ありがたいことに、とても辛抱強く、K君は、ぼくの回答を待ってくれていた。きっと、共感ができ、納得のゆくアーティスト名や曲名が、ぼくの口から発せられることを、無意識のうちに多少は期待をしていたのではないかと思う。だがしかし、実際には、そのぼくの返答は、全くの期待外れであったようだ。
「えー、うそー?あんなのがベストなの?冗談じゃなく、本気で?」
 ぼくのDJミックスを、しばしば耳にする機会があったK君は、きちんと曲名を挙げなくても、どのレコードがぼくのベストに選出されたのか、すぐさま理解できたようだった。それは、そのレコードを、ぼくがそれほどまでに頻繁にターンテーブルにのせてミックスしていたということでもある。使った回数が多ければ多いほど、それすなわち聴いた回数も必然的に多いということになる。そんなレコードこそが、年間ベスト・シングルに最もふさわしいと、ぼくは記憶と印象を頼りに判断したのだった。強く印象に残り、作品的な質も高いと評価するがゆえに、頻繁に手に取り、使う頻度も高くなる。また、頭の中にパッと、瞬間的にそれが閃いたという部分も結構大きかった。ぼくは、その直感を、どこまでも信用してみることにしたのである。
「いや、全然、本気だったんだけど。なんか、意外だった?」
 どちらかというと、K君は、かなりガラージ寄りな志向性をもつ耳の持ち主であった。そういったこともあり、90年代以降に出現した新たなハウス・ミュージックの波や流れに対しては、それをあまり積極的に高く評価することはなく、時にはやや否定的な意見を述べることも少なくはなかった。一世を風靡したスティーヴ“シルク”ハーレイなどによるID・プロダクションズのサウンドは「どれもみんな同じ、ただの使い回し」だとバッサリ斬り捨て、インターセプター(Interceptor)のヒット曲「Together」で地を這うようなビートとベースラインとともに出現したラルフ・ファルコン(Ralph Falcon)とオスカー・ゲイタン(Oscar Gaetan)によるマーク(Murk)のセンセーショナルな音楽性は、「どこがいいのか、さっぱり分かんない」とあっさり一蹴してしまった。この傾向は、ともに度々ニューヨークへと飛び、あのヒューバート通り6番地の第一期〈The Shelter〉で、あのティミー・レジスフォード(Timmy Regisford)の怒濤のような鬼気迫るDJプレイを目の当たりにしてしまったことで、さらに加速度を強めていったような気もするのである。それくらいに、ぼくらが生で体験した〈The Shelter〉は、本当に凄まじいものであった。
 小型の体育館ぐらいの広さのガランとした仄暗いスペース。ブウォンブウォンと胃のあたりに響く、轟音の重低音ビート。しばらくして闇に目がなれてくると、やや縦長のダンスフロアの両脇に、山積みにされた巨大なスピーカー・システムがいくつも立ち並んでいるのが見えてくる。そして、その一番奥の右手には、こちら側を小窓を通して上から見渡すようにDJブースが存在している。ぼくらは、極度に興奮して、はやってしまう気持ちを抑えきることができず、かなり早い時間に〈The Shelter〉に到着してしまっていた。ほぼドアのオープンと同時に入場し、ダンスフロアに足を踏み入れたのだが、やはり、まだDJブースには、お目当てのカリスマDJの姿は見あたらない。昂った気分を落ち着かせるように、まばらに人が集まり始めたダンスフロアの片隅に陣取って、その時が来るのを静かに待った。待ち続けた。すると、真っ黒い大きな人影が、ジッと真っ直ぐに前方を見据えながら、ダンスフロアをゆっくりと斜めに横切っていった。ティミー・レジスフォードである。ただ、タオルを腕にかけ、音響をチェックするかのように真剣な表情で歩いているだけなのだが、一種近寄りがたいような独特のオーラが、めらめらと全身から放射されているのがわかる。ダンスフロアのハードコアなダンサーたちも、御大に気安く声をかけるような不躾な真似はしない。DJ云々という以前に人間的な部分での圧倒的なまでの存在感。とてつもなく強烈であった。一発で打ちのめされた。その後、しばらくすると巨大スピーカーから鳴っていた音の感じがガラリと一変する。一気にサウンドの濃度と密度がグンと上昇したのだ。ふと、DJブースのほうへ目を向けると、こちらを見下ろす監視窓の薄暗がりの奥に、真っ黒な大きな人影が見える。それこそが、鬼の形相でダンスフロアを睨みつけながら、熱く黒いDJプレイを繰り広げる、ぼくらが待ち望んでいたティミー大先生の勇姿であった。
 その夜の〈The Shelter〉は、格別にものすごかった。今から思うと、それがブラック・ヒストリー・マンスの週末であったせいも多少はあったのかも知れない。御大がDJブースに入ってからは、NYのアンダーグラウンド・クラブ・カルチャーの歴史を彩ってきた珠玉のクラシックスが、延々と放たれ続けた。ダイナソー・L(Dinosaur L)の「Go Bang」は幾度となくプレイされ、その度にダンスフロアに迷い込んだ無数の狂犬たちが遠吠えをするナスティな雰囲気が醸し出され、ゴツゴツとした爆音でJBの名曲が連発される時間帯には、激しく真剣にステップを踏むダンサーたちの汗が、そこら中に飛び散った。何度も衣装を着替えて軽く手拍子をしながらダンスフロアの周囲を楽しげに可愛くスキップしてまわるオジサンがいたり、小柄で痩せっぽちな冴えない感じの青年の臀部に音楽に合わせて腰をねっとりと擦り付けているモデルのように長身で鍛え上げられた体格の見るからに妖しげな美貌をもつゲイ・ボーイがいたりと、いつの間にか人であふれかえり、かなりの混雑ぶりを呈していた場内では、誰もが自由に思い思いのスタイルで〈The Shelter〉を最大限に楽しんでいた。ダンスフロアとは、まさに全てを解放し、発散しつくす場として機能すべきものである。そこでダンサーたちは、どこまでも自由な、限りある貴重な時間を、とことんまで味わって満喫する。そうした同じ価値観を共有できる親密なる仲間たちと、その解放と発散の深い喜びを分かち合うために、人々は週末の〈The Shelter〉のダンスフロアへと足を運び、集い、そして次の週末にまた必ずそこへ戻ってくる。まるで〈The Shelter〉とは家であり、そこにいるダンサーたちは、全員が家族のようですらあった。
 阿鼻叫喚な人間芋洗い地獄と成り果てているダンスフロアを、ティミーは、ギロリと光る鋭い眼差しでDJブースの監視窓から見守っていた。やや細めの4本の柱が、正方形の小さなスペースを取り巻くように約5メートル間隔で四角く立ち並ぶ、ダンスフロアのほぼ中央に位置する週末の祝祭の心臓部では、多くの汗まみれのダンサーたちが入り乱れ、しなやかに身をくねらせ、ステップのキレ具合を競い合うように迫真のダンスを繰り広げていた。ぼくも、その周辺で、完全に時間の感覚を無くしながら、ただひたすらに音の世界に没入し、延々と踊り続けた。お互いの姿を全く見つけることができず、いちいち確認はしなかったが、たぶんK君も、あの近辺で黙々と踊り続けていたはずである。ぼくらは、〈The Shelter〉の音と音楽の凄まじいパワーに骨の髄まで圧倒され、もはや何ものも目に入らぬ状態となってしまっていた。ただただ、巨大で強大な音を全身で浴び、それに対して無意識のうちに手足を躍動させて反応することしかできない。まさにリズムの奴隷と成り果てていたのである。そう、スレイヴ・トゥ・ザ・リズムだ。
 極上のサウンドシステムから放たれる低音は、暴力的なまでに太く力強く、足腰にまとわりつくようにズンズンと分厚く響き渡った。その正反対に、ハンド・クラップなどの弾ける高音域は、スコーンと抜けるようなクリアな音で、ちょうどこめかみを直撃するぐらいの高さを真っ直ぐに飛んできて、ビシバシと脳髄にダイレクトに響く。容赦のない激烈なDJプレイをクールに続けるティミー司祭は、音楽でダンサーたちをダンスフロアに縛りつけ、捕らえたまま、誰ひとりとしてそこから逃さぬ心づもりのようですらあった。一度、そのグルーヴにハマってしまったら、もはやそこから抜け出すことは不可能だ。本気で、そう思えた。朦朧とする意識の片隅で「次の曲でちょっとテンションが下がるようだったら、少し休もう」と考えていても、実際に次の曲が始まってしまうと、それは全く聴いたことのないような凄まじい楽曲で、「ああ、これだったら、前の曲のうちに少し休んでおくんだった」と軽く後悔させられるパターンの繰り返し。ステップを止められる適当な地点が、なかなか見つけられないのである。朝方をとうにすぎて、ようやく人影がまばらになり始めた時間帯に、クール&ザ・ギャング(Kool & The Gang)の「Summer Madness」がプレイされた。真っ青な照明が一斉にダンスフロアを包み、ねっとりとしたシンセサイザーのフレーズに合わせるように幻想的なライト・ショーが荘厳に展開される。さすがに、この時ばかりは、疲労が蓄積し棒状になっていた足も止まった。そして、その場に立ち尽くし、澄みきった青い光に包まれながら、その夢か幻のようなフロアの光景を、ぼんやりと眺め続けるだけであった。あまりにも美しい青一色の別世界が、そこには確かに存在していた。音楽と照明効果だけで、人間は十二分に深い感動にどっぷりとひたることができることを、ぼくは、その時初めて身をもって思い知らされた。ダンスフロア・チェンジド・マイ・ライフ。

【四】

何もかもが、とてつもなく衝撃的で強烈な体験だった。クラブもレコード屋も地下鉄も1ドルのピザもフライド・チキンもハーレムもセントラル・パークもロウワー・イーストサイドも、NYで体験し経験した全ての事柄は、どこまでも新鮮な驚きと発見に満ちたものばかりであった。特に、週末の〈The Shelter〉は、ぼくらの音楽観そのものにまで影響を与える、凄まじいほどの巨大なインパクトを及ぼした。帰国後に遊びにいった芝浦のゴールド〈Gold〉が、それまでのスペシャルな印象からガラリと一変してしまい、全然しょぼく貧弱で薄っぺらなものに感じられてしまうほどだった。当時、日本随一と謳われていた、夜の芝浦の倉庫街一帯に低く轟いていた強力なサウンドシステムも、やはり本場とは音の迫力や厚みの面で雲泥の差があることを、まざまざと実感させられた。ぼくらは、〈The Shelter〉での貴重な体験を通じて、アンダーグラウンド・ダンス・ミュージックの文化の最も輝かしい瞬間のひとかけらを、思いもかけずに味わうことができてしまったのだろうか。本場NYの生粋のガラージ・サウンドの、その歴史と伝統に裏打ちされた奥深い世界を、達人による怒濤のごときDJプレイによって、いやというほどに浴びせかけられる幸運に恵まれたのだから。K君が、それまで以上に、さらに本格的にガラージの虜となり、次々と移り変わる90年代の新しいハウス・ミュージックのトレンドに、全く興味を失ってしまったとしても、それはそれで仕方がないことのようにも思われた。その気持ちは、筋金入りのハウス・フリークであったぼくとしても、完全に理解できないものではなかったから。第一期の〈The Shelter〉は、それくらいに強烈で影響力が大であった。そのダンスフロアには、極めてラフな形でではあったが、80年代のガラージの文化や伝統の燃えカスや燃え残りが、確実に継承されていて、そこにまだ絶えることなく息づいていた。間違いなく、ガラージの篝火は、まだそこにちゃんと確かに灯っていたのである。
「あれって、そんなにいい?おれは、それほどでもないんだけど」
 あれとは、つまりディー・ライトのマスターズ・アット・ワークのやつのこと。正確には、ディー・ライト(Deee-Lite)のシングル「Runaway/Rubber Lover」。そして、そのマスターズ・アット・ワークのやつというのは、この盤に収録されていた「Runaway」のマスターズ・アット・ワーク(Masters At Work)によるダブ・リミックス・ヴァージョン(Masters At Work Dubb)のことを指す。やはり、K君は、あのチマチマとしたハウス・サウンドが、あまりお気に召してはいなかったようだ。まあ、ある意味、何の変哲もない原曲をダブ・リミックスした半インスト形式のハウス・トラックではある。軽くサラッと聴いた感じでは、たぶん誰もがそうした印象を受けるかも知れない。だが、細部までキッチリと聴き込めば、それがダンス・トラックとして徹底的に計算しつくされた、緻密なサウンド・プロダクションが展開されている楽曲だと、いやでも気づかされることになるはずなのだ。その本質に触れることができたならば、もうそれが何の変哲もないハウスのシングル盤だとは決して思えなくなる。とても細やかに構築されている、跳ね上がり弾むような軽やかでカラッとしたファンキーなミニマル・ビート。パーカッシヴでグルーヴィな、いくつもの短いフレーズのループたちは、絶えず展開するトラックの上に、絶妙のタイミングで折り重なりながらちりばめられ、ちょこまかと出入りをする。そして、主に断片的なヴォーカルのフレーズのループやコーラスの部分のみを使用したダブ・ヴァージョンであるため、長めのミックスがしやすく、非常に使い勝手がよい。また、後にニューヨリカン・ソウル(Nuyorican Soul)名義での作品で完成をみることになる、徹底的にライヴ・フィーリングを活かしたドラム・プログラミングの、最も初期の形態ともいえそうな細やかに作り込まれた半生スタイルのハウス・トラックも、かなりユニークな音に仕上がっている。往時、90年代初頭のマスターズ・アット・ワークの作品には、実験精神を旺盛に発揮していた“リトル”ルイ・ヴェガ("Little" Louie Vega)が主導する形で制作したものと思わしき、奇抜かつ革新的な音響のハウス・トラックが、実は数多く存在している。おそらく、ディー・ライトの「Runaway」のダブ・リミックスは、その中でも一二を争う名作なのではなかろうか。この時期に制作された、ヒット作品や、後々まで高く評価されている作品には、90年代後半のニューヨリカン・ソウルでのスタイルに直接繋がりそうな、生っぽい風合いが感じ取れるハイブリッドなトラックを採用したものが、やはり極めて多い。しかるに、この「Runaway」のような、まだまだハウス・ミュージックの枠の内側で、独自のマスターズ・アット・ワークらしい色を醸し出そうとしているトラックというのは、逆にかえって珍しく、それゆえに出色の作だと思えてならない部分も多分にあるのである。90年代初頭のマスターズ・アット・ワークによる、とても90年代初頭らしいスタイルの実験的なハウス・トラックが聴ける作品、それがこの一枚なのである。
「まあ、なんかパッと思いついたんだよね。結構、自分でもよく使った気がするし。印象にも残ってるから。今年を代表する曲なんじゃない?たぶん…」
 とっさに思いついてベストに挙げたシングルであったため、この時点では、まだ自分でもその選考理由についての詳細な分析はできていなかった。良い悪いという作品としての質の部分を最重視して選択したわけではなく、ただ現実的に自らの手でターンテーブルにのせた回数が多かったという、揺るぎなき経験値のみを最優先させた結果が、たまたまそれになったということだけであった。しかしながら、この92年12月の一瞬の判断は、それが完全なるとっさの思いつきであったにもかかわらず、かなりいい線をいっていたように感じられる面も実はあったりする。きっと、92年の年末の時点で、ほとんど誰も「Runaway」をベスト・シングルに選出した人はいなかったと思う。また、現在でも「92年のハウス・シングルといったらコレ!」と思う人は、おそらくほとんどいないのではなかろうか。それでも、個人的には、「Runaway」は、常に耳にするたびにフレッシュな感覚をもたらしてくれる、紛うことなき大クラシックスだ。これは、ある意味、本当に特別な思い入れのあるシングルとなっている。あの日の他愛もない会話や冬の午後の部屋の中の独特の空気感まで、今でも鮮明に覚えている。ここまで深く記憶に残る作品ということは、やはり特別な何かがそこに備わっているということなのではないか。それが、極めて個人的なエピソードに由来する特別さであるとしても、そうした作品がひとつでも決して消えずに胸の中に存在し続けているという事実は、非常に大きいことなのではないか。巷の評価や他人の評価、もしくは訳知り顔の音楽評論家たちによる評価などとは、全く無関係の、自分の耳による評価だけを頼りにした、自分だけのクラシックスをもつということは、そう悪いことではないはずである。誰もが自分だけのクラシックスをいくつもいくつももつべきだ。独りよがりと言われようと感覚を疑われようと、気にしない気にしない。誰にも理解できなかったその楽曲の本質的なよさを、自分の耳だけが奇跡的に聴き取ることができたと、堂々と胸を張っているぐらいがちょうどいい、のである。今の耳で「Runaway」のダブ・リミックスを聴いても、92年12月の自分が直感で下した判断は、決して間違っていたとは思わない。そして、全くもって喜ばしいことに、これは、まだまだ十二分に聴けて、使える音でもあるのである。まさしくエヴァーグリーンな一枚。緻密に作り込まれたプロダクションのクオリティの高さ、貪欲で旺盛な実験精神から生み落とされた奇抜なハウス・サウンドのユニークさ、そして流れるように展開し続けるきめ細やかなグルーヴ感と、どの部分をとってみても、いまだに全く色褪せてはいないのである。あの何の変哲もない冬の日の記憶と同様に。

【五】

今から思うと、92年というのは、実はとても大きな節目の年であったような感じがしなくもない。4月4日にダイナソー・Lのプロデューサーであるアーサー・ラッセル(Arthur Russell)が人知れずヒッソリと他界し、11月8日には〈Paradise Garage〉のラリー・レヴァンが突然この世を去った。いずれも80年代のNYのアンダーグラウンド・シーンで活躍した、ガラージの時代を象徴するアイコンであった。どこからともなく人はやって来て、やがて表舞台から去ってゆく。そうした自然の法則に則したサイクルの中で、時代は、季節は、ゆっくりと移り変わり続けるのである。だがしかし、やっぱりレヴァンの死は、あまりにもショッキングで大きな出来事であった。そして、あまりにも急すぎた。それを、ひとつのストーリーの終止符として打たれる、ちっぽけなピリオドのように捉えるなんてことは、到底不可能なことのように思われた。ガラージとは、80年代のNYのアンダーグラウンド・クラブ・シーンに一時代を築き上げた、と同時に、すでに音楽を中心とする多方面へと拡散する文化として深く根付き、そこから派生したひとつのダンス・ミュージックの様式そのものにまでなりつつあったのだから。そして、そうした全てのものごとの根幹をなしていたのが、〈Paradise Garage〉でのレヴァンの神々しいまでに芸術的で情感豊かなDJプレイであった。その巨木の幹の死は、時代の死でもあり、文化の死でもあり、様式の死をも意味していた。運命の11月8日を境に、全ては伝説の一部として過去のものとなり、時代の空気は、とてつもなく大きな喪失感にスッポリと包み込まれてしまった。
 今でも鮮明に覚えているのは、92年7月に芝浦ゴールドで、2日間連続で大々的に開催されたラリー・レヴァンのバースデイ・バッシュのことである。これは、結果的には、レヴァンにとって生前最後の誕生日のパーティとなってしまった。あたたかな祝福ムードや、伝説のDJプレイへの過度な期待からくる熱気が、やや重苦しく充満するダンスフロアを前にして、当のレヴァンは、いまいち気分的に乗り切れていないような印象であった。なかなか思い通りにならない状態だったのか、レコードを数曲続けてプレイするごとに次の曲へのミキシングを行わずに、グルーヴの流れを完全に一旦断ち切り、アカペラやSEをインタールード的に差し挟んで仕切り直しをする。少し走り出したと思ったら、またふりだしに戻って立ち止まって再スタート。そんな、かなりズタズタで細切れな展開の繰り返しに、すっかりダンスフロアの熱は冷えきってしまっていた。わんさと押し寄せていた人の波が、すーっと引いてゆくのも、思いのほか早かった。きっと、レヴァンは、誕生日という晴れの日のDJプレイで、かつてのような何か特別な感覚をつかまえて、あの輝かしい〈Paradise Garage〉の空気感を少しでも再現しようと、あれこれ手を尽くしてみたのではなかろうか。しかし、それらの試みは、ことごとく芳しい成果をもたらしはしなかった。あの華やかなりし時代の感覚を引き戻そうとして、どんなに必死にもがいてみても、レヴァンの両手は、ただただ虚空を掴むのみであったのかも知れない。まばらな人影が、ガランとしている薄暗いダンスフロアのあちらこちらに揺らめく中、何の脈絡も感じられない流れで、唐突にゾーズ・ガイズ(Those Guys)のヒット曲「Tonite」がど頭からプレイされた。印象的なエレノア・ミルズ(Eleanore Mills)「Mr. Right」からのヴォーカル・サンプルがグルグルと繰り返される、淡々としたトラックが続き、やがてゆっくりとビートがスロー・ダウンしてゆく。ほとんど停止しかけるところまで失速したトラックは、再び元のBPMにまでじっくりと立ち直ってゆくのである。そんなドラマティックな楽曲の展開が、この時ほど寒々しく、そして空々しい感じに聴こえたことはなかった。11分以上もある長い曲が、なおざりに丸々最初から最後までプレイされた。その先には、もはや何も聴こえてこない。デッド・エンド。ひんやりとした沈黙だけが、ダンスフロアに漂っていた。DJブースのレヴァンは、もはや立ち上がる気力も失せてしまったかのように、背を丸めて小さくなり機材の片隅の狭いスペースにスッポリとはまり込むように、深々と腰を下ろしている。見るからに疲れきった様子で、グッタリと首をうなだれ、ピクリとも動かない。巨大な虚無感にとらわれて完全に打ち拉がれきっているような、その姿は、NYのアンダーグラウンド・クラブ・シーンに君臨したカリスマDJのイメージとは遠く遠くかけ離れていた。どこか、とても侘しげで寂しげでもあった。そこにいたのは、もはや、かのラリー・レヴァンではなかったのだろう。ひどく打ちのめされて燃え尽きてしまったローレンス・フィルポットが、そこにいた。その佇まいに色濃く滲んでいた孤立感や孤独感の深さや大きさを、いまだにぼくは忘れることができない。あの日、ぼくたちは、レヴァンの人生における史上最悪の誕生日パーティに立ち会ってしまったのだろうか。あの日の時点で、すでにレヴァンは、ひとつの時代の死をまざまざと実感していたような気がしてならない。そして、それと同様に、自らの命の火も、もう間もなく燃え尽きようとしているのだということすらも、薄々直感していたのかもしれない。それから約3ヶ月後にレヴァンは、栄光と苦痛とが入り交じった地上を離れて、真のパラダイスへと旅立ってしまった。だが、その永遠の旅立ちの直前に、フランソワ・ケヴォーキアン(Francois Kevorkian)とのハーモニー・ツアーで芝浦ゴールドを再訪したレヴァンが、あのDJブースにもう一度立ってくれたことは、大変に喜ばしい出来事であった。気合いの入りまくったケヴォーキアンの激烈にホットなDJプレイの合間に、幾度かレヴァンがソロでミキシングを担当する時間帯が設定されていた。そこで聴けたレヴァンのプレイは、あのバースデイ・バッシュの際の沈鬱なトーンとは比べものにならぬほどに、活き活きとした生気にあふれるグルーヴが展開されるものであった。ジャージ姿で機材と格闘するケヴォーキアンのDJに触発されて、かなり発奮した部分もそこには多分にあったのであろう。だが、あれは、レヴァンからダンスフロアに向けての、最後の力を振り絞った音楽のプレゼントであったような気がしてならない。あたかもそれは、一度消えかけた蝋燭の炎が、最後の最後にひときわ明るく煌めく瞬間のようですらあった。

92年は、もはや遥か遠い遠い昔である。だが、最近なぜかこの年のことを、ことあるごとに考えずにはいられない。ただ昔のことを思い出して、しみじみと懐かしんでいるわけでは決してない。時代は巡り巡るものだという、もはや暗黙のうちに定説となっている音楽20年周期説を持ち出して、80年代後半から90年代前半にかけてのハウス・ミュージックがリヴァイヴァルすると、ここであえて声高に叫んで宣言したいわけでも全くない。ただ、なんとなく92年が、とても気になるのである。ただそれだけだ。たぶん、まだリヴァイヴァルや回帰現象と呼べるほどに大それた感じではないのかも知れない。だが、ぼくらがいま置かれている状況というのは、どうもあの92年にぼくらが経験した時代の雰囲気や時代の空気と非常によく似た景色をもつ未来へと向かっているような感じがしてならないのだ。そうした方向へ、様々な事柄が連鎖しながら、ゆっくりと動き出している。その未来では、間違いなく90年代初頭のハウス・ミュージックは高く再評価され、あの時代のことについても、もっともっと詳しく仔細な考察がなされてゆくことになるであろう。ぼくらが進んでゆく先には、かつて経験したような未来が、手ぐすね引いて待ち構えている。これから、ぼくはきっと、もっともっと頻繁に92年について深く考えるようになってゆくに違いない。そこから、荒波逆巻く時代を生き抜くヒントや、もっと先の未来を真っ直ぐに見据えるための重要な鍵を、見つけ出してゆくために。(08年)


~追記~

 伝説のDJであるラリー・レヴァンの命日の前日、11月7日に、またひとり偉大な人物が、この世を去った。『朝日ジャーナル』や『NEWS23』というメディアを通じて、ぼくらにとても沢山のことを伝えてくれたジャーナリズムの世界の巨人、筑紫哲也が、過酷な癌との闘いの果てに他界したのである。
 生まれた時にはすでに家庭にカラー・テレビがあった世代、ぼくらのようなX世代の子供は、ある意味においてテレビが親代わりであり、その画面から際限なく垂れ流される膨大な量の情報を母乳のように吸って成長したといわれる(※)。まあ、そうした世代の定義なんてものは、どこか曖昧で嘘くさいと思っていた部分は確かにあった。しかしながら、いま冷静になって考えてみると、それも、あながち間違った世代観ではなかったのではなかろうか、とも思えてくる。筑紫哲也というジャーナリストは、いつしかぼくらの親代わりのような存在となり、人間として/日本人として、必ず知っていなくてはならない/必ず覚えておかなくてはならない、非常に多くの重要な情報を、いつだってぼくらにわかりやすく伝えてくれていた。そう、ぼくが啜った情報という母乳の成分のほとんどは、なんとなく筑紫哲也の近辺から発信されたものばかりであったような気がしてならない。学校の図書館では決まってまずは『アサヒグラフ』を手に取り、「若者たちの神々」の『朝日ジャーナル』は水先案内であり、夜の11時になればTBSで『NEWS23』がスタートした。だが、「異論反論オブジェクション」で堂々と自説を打っておきながら、あまり締まりのないたちなのか、たいていお尻のほうはグダグダになる。それでも、最後のシメのフレーズは、決まって「今日はこんなところです」だ。見ていて、「こんなところって、どんなところだよ」とツッコミたくなることも多々あった。しかし、あの柔和な表情や少しはにかんだ人懐っこい笑顔を見ていると、なぜだか全てを許してしまえる気分になるのである。そうした部分こそが、筑紫哲也という人がもっていた不思議な魅力の、最も顕著な一端であったのではなかろうか。ぼくは、いつしかテレビ画面に映った筑紫哲也の姿に、理想の父親像のようなものを重ねあわせて観るようになっていたのかも知れない。偉大なる父親によって発信された情報や言葉に刺激され育まれてきたX世代は、いま、この突然の落日に、いきなり深く暗い谷底に突き落とされ、ただただ途方に暮れてしまっていることだろう。はたして、ぼくらは、筑紫哲也がイノチガケで伝えようとしていた情報を、全て余すところなく受け取ることができたのであろうか。自らの体たらくと親不孝ぶりに、とても胸が痛む。ただただ痛くて痛くてたまらない。
 筑紫哲也がいなくなったこの世界を、どのように生きてゆくべきか。これから歩み行く道の先にある世界を真剣に見定めてゆかなくてはならない。筑紫哲也が言葉や行動を通じて遺した大いなる教訓を、しっかりと胸の奥深くで噛み締めながら。
 心より哀悼の念を捧げたい。

Take me away
Release me from the cage
Free me from the pain
And let me feel no shame

Deee-Lite「Runaway」より

(2008年11月)

【補足】

2008年、五回に分けてブログに連載したもの。2022年春、ひとまとめにして、少しは読みやすいように・理解しやすいように修正・加筆した。それ以外は、ほぼ当時のままにしてある。現在とは明らかに食い違ってしまっている部分などもあるが、あの頃の気分や気持ちを尊重して内容を変更するようなことはあえてしていない。一番大きく違っている点は、一人称がぼくであるところか。もう結構なジジイになってきたせいか、もはや自分のことを「ぼく」と書くようなことはほとんどない。これは、まだわたしが気分的に若かったころの文章である。自分で読んでみても、なんだかちょっと別の人が書いた文章のようにさえ感じる。いつの間にか、とても歳をとってしまった。ただただ、歳だけをとってしまったようだ。とても、むなしい。

(2022年)

ここから先は

0字

¥ 100

お読みいただきありがとうございます。いただいたサポートはひとまず生きるため(資料用の本代及び古本代を含む)に使わせていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします。