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20年代のアンビエント

20年代のアンビエント(序論)


不安ビエント(三)「不安だらけの世界とぐっすり眠れるアンビエント」


日常のアンビエント


今やもうアンビエントは、普通に日常的に広く聴かれるものとなっている。まあ、おそらく政財界の大物たちなんてのは多忙な毎日を生きているのでアンビエントなんて聴いていないんだろうけれど、専らわたしたちにとってはそれは日常的なものなのである。そして、多分そういうわたしたちは、政財界の大物たちなんかよりも断然多いはずだ。つまり、圧倒的に多数派ということである。
流しっぱなしになっていても気にならないし、特に意識して聴いていなくとも、ぼんやりずっと変な刺激や気散じにならない程度に何かしら音は耳に聴こえていて、決して耳寂しくなることはないし、何となく他の外部からの変な刺激や気散じになる要素を撥ね返して集中力を持続させてくれているような気さえもする。ただしまあ、そういう気分がするだけのことなので、実際にアンビエントが何らかの作用をもたらしたり、それを聴くことで特段何かが違ってくるというようなことは、ほとんどないというのが一般的なレヴェルでの本当のところなのだろうけれども。
極度のアンビエント依存の状態に陥ると、人はもう音楽にリズムもメロディも少しもなくてもいいと思うようにすらなる。そんなものは、もうなければないほどいいのである。持続する音の響きだけでいいのである。中には、出だしはとてもいい感じだったのに、だんだんと微かにリズムやゆったりとしたメロディ的なものを奏でる楽音が聴こえてくるようなアンビエントがある。そういうのを作った人には誠に申し訳ないが、即座に他の作品にチェンジさせてもらう。(例えば、バイオスフィアとか。かつてはアンビエントとして聴けていたのだが、最近は少し音要素と音楽的展開がありすぎるように感じてしまう)
アンビエントというのは、実際のところ、どれもこれも一緒のように聴こえる。だが、だからといって、いつも同じアンビエントを聴いていて、それで楽しいということはない。できれば、どんどん違うアンビエントを聴いてゆきたいと思うのが人の性というものである。そのため、日々のいい感じのアンビエントのディギング活動は欠かせない。好みのアンビエントを多く見つけ出してゆくことで、日常的にアンビエントを聴くアンビエント生活のクオリティは、どこまでもどこまでも向上し豊かなものとなってゆくからである。
そういうわけでアンビエント沼には、幾つもの深みがあるわけなのだ。そして、その沼の中には、できればドローンに近ければ近いほどいいという深みがある。アンビエントはアンビエントでも、ただ漠然とアンビエントなら何でもいいというわけではない。いや、もはやどちらかというと、広い意味でのアンビエントというと、どちらかというとアンビエント音楽の方向に傾いていることが多いので、アンビエントというよりもずばりドローンの方がいいということにもなってくるのである。よって、そういった沼の深み味わいを、どわーっと感じさせてくれる、何も起きないし何も聴かせないタイプのドローンやアンビエントを、22年もとてもよく聴いたわけなのである。
やはりもう、このところはずっとロスシル、ウィリアム・バシンスキ、イアン・ホーグッド、ウィル・ボルトン、チヘイ・ハタケヤマ、セラーあたりの巨匠たちの作品は、どうしたって欠かせない。そして、22年はユーチューブでアンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』を何度も観たので、ローレンス・イングリッシュの近年のいくつかの作品をそれに合わせてよく聴いていた。また、22年はグスタフ・マーラーの交響曲もよく聴いた。よって、それに合わせてクリスティアン・フェネスの「Mahler Remix」(16年)もよく聴き返した。


フォーエヴァーアンドエヴァーノーモア


そんな22年の秋、かねてより予告されていた通りアンビエントの家元、ブライアン・イーノの新作アルバム「Foreverandevernomore」がリリースされた。予告されていた通りの十七年ぶりにイーノ本人が歌うアルバムであった。スニーク・プレヴューされていた数曲からもうかがえた通りの、イーノの深い内省をにじみ出させているヴォーカルは、このアルバムがイーノのキャリアにおいても、かなり特別な一枚であることを強く印象づけた。これまでのイーノの上に、また新たなイーノが始まったような感じである。
アートスクールにおいて造形について学んだイーノは、音楽というものもひとつの視覚的なプラスティック・アートととらえて静物画的な音楽や静物的な音楽を創造することを試み続けていたという。そして、そういうものとしての音楽のひとつのフォーマットとなるアンビエントの概念が生まれ、それをレコーディング・スタジオで造形した。1978年に発表されたアルバム「Ambient 1: Music for Airports」は、イーノのアンビエントの実質的な出発点であり、近代音楽史におけるひとつのエポックとなるようなさまざまな意味での画期的な一枚であった。
しかしながら、今から三十年ちょっと前、アンビエントはちっとも静物画的ではなかった。それは実際にかなり動いていた。イーノのアンビエントからすると、かなり矛盾しているようなものではあるが、それはグルーヴのあるアンビエントであった。別の言い方で言うと、エレクトロニック・ダンス・ミュージックからビートとベースラインを引き算したアンビエントである。俗に、それはアンビエント・ハウスなどといわれていた。
1990年にThe KLFのアンビエント・アルバム「Chill Out」がリリースされ、やはり大きく時代は変わった。それまで一般的には環境音楽などと分類されて、ある種特殊な存在の音楽であったアンビエントが、夜な夜なナイトクラブに繰り出してダンスに興じているような若者達が好んで〈聴く〉音楽となったのである。そして、それは一晩中クラブで爆音で鳴らされるダンスのビートに疲れ切った耳と体を癒すために好んで用いられるサウンドトラックとしても機能した(のである、たぶん)。
あの頃から三十年以上の年月が経ち、往時のクラブ・キッズたちは、イーノがサンフランシスコ近代美術館でニュー・アーバン・スペーシズのインスタレーション「Compact Forest Proposal」を行った頃と同じぐらいの年齢になった。早い話が、イーノとわたしには二十二歳の年齢の差があって、イーノから二十二年遅れて五十代になったというだけのことである。時代が変化したのか、年齢的な衰えによるものなのか、はたまたその両方なのか、二十歳の頃に聴いていたアンビエント・ハウス的なものよりも、もっともっと動きのないもの、まさに静物画的なアンビエントを耳が頭が身体が欲するようになってきている。間違いなく。
そして、そういう意味では、五十代になったばかりの頃のイーノの「Compact Forest Proposal」などは、とてもよく今の気分にフィットするのである。その静物画的なサウンドが、その薄い存在感によって醸し出している雰囲気が、今のこの不安定性と不安に満ちた時代にフィットしているのか、今のこのあちこちがたがき始めている年齢ならではの精神や身体に、そっと寄り添うようにフィットするのか。どちらなのだろうか。おそらく、どちらでもあるのであろう。なんかもう、そう考えたくもなる。いや、そのどちらにもなりうるからこそ、静物画的なアンビエント・サウンドなのである。間違いなく。
だがしかし、今この時代ほど、とても広くアンビエントが聴かれている時代はない、こともまた確かなのである。老いぼれたアンビエントおじさん/おばさん、もしくは老いぼれかけたアンビエントおじさん/おばさんだけではなく、若い年齢層の人々も、アンビエント、もしくはアンビエント的なものを、実はよく聴いている。あのアメリカ同時多発テロ事件以降の時代の不安定性と不安に満ちた世界に生まれ育ってきた世代だということもあるのかもしれないが、若い層ほどそういう静物的な穏やかさを深いところで欲しているような雰囲気がある。
実際のところ、二十一世紀に入ってからもアンビエントや静物的エレクトロニック・サウンド、アンビエント的なエレクトロニカ音響というものは、ちっとも廃れることはなく、新しいものが次々と山ほどリリースされ続けている。サウンドクラウドやバンドキャンプなどのインターネット・サイトを通じて、誰でも手軽に自分の作品を発表できる環境が整っているということもあるのだろうが、アンビエントは、今最も今っぽい音楽のジャンルのひとつでもある。


アンビエントでぐっすり眠る


今をときめくスポティファイ、アップル・ミュージック、アマゾンなどの各種プラットフォームを通じてのストリーミング・サーヴィスにおいて、軒並みアンビエント系の作品が再生回数ランキングの上位を独占していたりすることが、昨今よく話題になったりする。これは「ぐっすり眠れるアンビエント」というような毎晩の睡眠時に心穏やかに眠りにつくためのアンビエント音楽を、睡眠導入補助環境音楽的に利用する人が、とても多いことと決して無関係ではない。就寝時にそうした「ぐっすり眠れるアンビエント」などを何回もリピートして再生しているために、必然的にランキングの上位にランクされることになってしまうというらしいのである。
そういう聴かれ方をされてランキングの上位にランクされるということは、それだけ現代人の就寝時にアンビエントが必要とされているということを数字と結果で表してもいる。「ぐっすり眠れるアンビエント」の効果を借りないことには、明日を生きることが不安で辛くて眠ることすらできないという人々が、本当に大勢いるということなのだ。そういう時代にあっては、「ぐっすり眠れるアンビエント」的なものは、もはやストレス社会に生きる現代人にとっても生活の必需品であり日常生活になくてはならぬものとなっているといってもよい。
なかなか思うように眠ることができず、安眠すらままならない人がとても多いという状況は、短いようで長い人類史上においても、とても不幸な時代が訪れていると言わざるをえない。しかし、幸か不幸か、ぐっすり眠るためのアンビエントというものがある。ぐっすり眠れるアンビエントを聴きながら、やっとのことであっても何とか質の高い眠りにつき、日々の生活のバランスをどうにか保つことが可能になる。そういう意味で、アンビエントは、今や現代という時代の根底を支えるサウンドになりつつあるのであり、ひいては人類の存亡すら支えるものにすらなりつつあるのだといっても過言ではない。
これは、とても現代的なアンビエント受容の形式であるとともに、実は本来的かつ本意的なアンビエント受容がなされている状態であるともいえる。それは静物画を見て心穏やかになるかのようにそこにあり、静物のように日常の生活の中に溶け込んでいる。イーノは、人々がそれを求め欲しているからこそ毎日の生活の中にそれは取り入れられているのだという。現代人の生活の中には決定的に足りていないものがあり、それが「ぐっすり眠れるアンビエント」のようなものであったのだと。それをストリーミング・サーヴィスのランキングが如実に見える化・顕在化しているだけということなのだろう。
また、そうした状況を、現代人が(意識的にも/無意識的にも)大きな広い空間を渇望していることの表れなのではないかともイーノは言いかえてみせる。今や人類の大半が都市部に住んでいて、これからも人口の都市への流入と地方の荒廃の流れは加速してゆく一方であろう。しかし、これまでの人類の歴史のほとんどすべては、広大な空間とともにあったのである。よって、自然と現代人が日常的に聴く音に求めるものも、都市の生活環境のように狭い所に沢山の要素を詰め込んだものではなく、大きな空間を感じさせるものになってゆくのは当然といえば当然であって、人々は「ぐっすり眠れるアンビエント」ようなものに仮想現実的な昔懐かしい地方の広大な空間を思い描きつつ聴いているのではないだろうか。
生きるのに十分なスペースが確保されていないと感じている人々が、その空間性をせめてもの救いとして音楽に求めている。狭苦しい都会を離れて、広々とした田舎で生きる代わりに。厳しい現代社会からの抑圧に押しつぶされそうで眠れないから、静かに眠るための空間・アンビエンスを、その場所に一時的にでも作り出すために「ぐっすり眠れるアンビエント」を流しっぱなしにして寝る。実に理にかなっている行動ではある。
しかしながら、イーノ本人は自らのアンビエントと「ぐっすり眠れるアンビエント」のようなものを、どこかまったく同一視していないような節がある。やはり同じアンビエントでも、正統派のアンビエントと亜流のアンビエント的なるものでは、それはもう違うアンビエントなのだということなのであろう。やはり「Foreverandevernomore」は、「ぐっすり眠れるアンビエント」とは似て非なるものであるようだ。

ぐっすり眠れる系のアンビエント音楽というのは、必要最低限度の楽音をもつものであり、文字通りの音楽なのである。アンビエント的な要素を多分に含んだ実用的ムード音楽ともいえるだろうか。ゆったりとした心も気持ちも落ち着くようなメロディがあることで、そこに聴くものの耳を意識的にも無意識的にも引きつけ、極力無心の状態に近づけてゆくと共に安眠補助的な機能を発揮する。
ドローンのようなアンビエント音響には、そうした意識的・無意識的な引きつけのとっかかりとなるような楽音が混ざり込むことはほとんどない。何らかの形で耳を預けて聴いてしまうことになるようなものは、そこには存在してないようにされている。文字通りの非音楽的音響というものに極めて近い。しかし、決してうるさくは鳴らないものの、そこにはびっしりと隙間なく小さく細かい粒状の音が鳴り続けている。そのようにびっしりと敷き詰められたモナド的な音の粒があることにより、その音響を構成しているモナド音粒子以外の(音楽的・非音楽的な)ノイズは、音響の背景に退いて、そこから遮断されてしまう。ずっと持続するドローン音響が、漠然とした聴くという感覚の中心を意識的にも無意識的にも占めてしまっていて、その無色の色でもって一面を塗りつぶすのである。
だからといって、全くの無音状態では何の意味もないのである。そこでは聴く感覚に作用するあらゆるノイズが、何の隔てるものもないままに、そのまま耳に聴こえてきてしまうことになるから。それは、おそらくささやかな楽音やモナド的音粒子によって隔てられている時よりも、余計に耳に聴こえてくることになるだろう。
耳や頭などの感覚器官をノイズから保護するには、ドローン系のアンビエントの音響を用いることが最適なのではないか。それは、ずっと鳴っている聴こえているかどうかわからない音響が、アクシデント的に聞こえてきてしまうノイズ群を、何もない平板な状態よりも大幅に聞こえなくするからだ。しかし、それだけでは、どうも人間というものはぐっすりと眠れないようである。静物画のような音響では、その静物についてあれこれ考えてしまって逆に不安になってしまうようだ。よって、そこに子守唄のような優しいメロディをトッピングしたくなってしまう。安心して、ぐっすり眠るために。そうやって「ぐっすり眠れるアンビエント」のようなものは生み出されてゆくことになる。狭苦しく物質に溢れる都市部に生き、心の中で広々とした空間を強く希求しつつも、そういう空間のある音響ではどうにも安心することができす、そこをささやかな音楽的な要素で埋めてしまう、本末転倒的なことを常日頃から行なっているのが、われら現代人なのだということもできる。


モービーのアンビエント


23年の元旦、モービーがアルバム「Ambient 23」をリリースした。タイトルの通りに、これはかなり本気な直球のアンビエント・アルバムであった。そして、2023年の幕開けを飾るにふさわしい十六のムーヴメントからなる構成の、二時間二十六分にも及ぶ超大作となっている。
近年のモービーは、主宰レーベルのリトル・イディオットより「Long Ambients」シリーズなどのアンビエント大作品をちょこちょことリリースしてはいた。だが、新作の「Ambient 23」は、パンデミック期以降に立ち上げられた新レーベルのモービーアンビエントからの作品となっている。モービーアンビエントは、その名の通りアンビエント作品を専門的にリリースしてゆくレーベルとして設立されたのであろう。こうした動きからも、モービーが本当にかなり本気でアンビエントに取り組んでいる(取り組んでいこうとしている)ことが伝わってくる。
「Ambient 23」は、多くの人々の不安を和らげるために制作され、23年が全ての人の不安が解消されてゆく一年になるようにという願いが込められた作品であると、モービーはインスタグラムに書いて公表している。世界の状況が明らかに大きな不安定性の中にあって、不安が渦巻いている時代において、やはりアンビエントが、多くの人々に必要とされているのだということが、あらためてわかる。不安を和らげ、人々の心をほぐし癒して、そしてぐっすり安眠するために、アンビエントはある意味切実に必要とされていて、まさにこの二十一世紀という時代に要請されているサウンドであると言ってもおかしくないほどである。
モービーの「Ambient 23」は、不安な気持ちや気分を和らげ取り除くことを主目的として制作されているので、制作者サイドはことさらに言及はしていないが、ある意味では「ぐっすり眠れるアンビエント」的な機能を備えているであろうことは疑いの余地がない。全体の約二時間半にも及ぶ長さを考えても、これはもうただかしこまって聴くためだけのサウンドではないことは明らかであろう。モービーは、アルバムを聴くものを不安から解放し、ぐっすりと眠らせにきているのである。
あまりにも静かすぎるドローン系のアンビエントが、じわりじわりと滲み出してくるようなアルバムの幕開けから約一時間半近くは、そうした微かにぼんやりと鳴り続けるドローン系アンビエントが延々と続くのである。微かにさまざまな展開をしてゆくが、第三ムーヴメントには弦楽器とピアノによる非常にゆったりとしたアンサンブルを確認することができる。その微かに鳴っている楽音は、空間的なアンビエント音響のゆったりとした流れを濁らせない程度に「僕もここにいます。だけど気にしなくていいからね」とでも言っているかのように、サウンド全体の中にしっとりと溶け込んでいる。
これに対して、終盤の第十ムーヴメント以降は、主にピアノの楽音が前面に出てくる頻度が高くなる。第十と第十二ムーヴメントでのピアノは、ゆったりと爪弾かれるアンビエント音響の一部的なものであるが、第十四以降の最後の第十六ムーヴメントまでは、微かに聴こえてきたピアノの楽音が断片的なメロディから明らかなメロディへそして和音へとゆったりと変化し生成してゆくさまを聴き取ることができる。
このアルバム全体の構成を、あらためて考えてみたときに、これは不安を和らげ取り除いた睡眠そのもののアンビエントなのではないかということに思い当たる。これはもはや「ぐっすり眠れるアンビエント」ではなく、ぐっすり眠っているアンビエントなのである。
アルバムの第一部にあたる前半の約一時間半、第一から第九ムーヴメントまでは、深い眠りに落ちたノンレム睡眠にあたる。そして、アルバムの第二部にあたる後半の約一時間、第十から第十六ムーヴメントは、心地よく夢を見るレム睡眠にあたる。特に最後の第十六ムーヴメントのピアノは、まさに夢見心地というにふさわしい演奏である。そして、アルバム全体の聴取後に、第一ムーヴメントの冒頭から第十六ムーヴメントの最終盤までの流れを振り返れば、誰もがかなり遠いところまで来ていることに気づくであろう。おそらく「Ambient 23」の約二時間半で、かなり不安が和らぎ取り除かれているところまで到達できているのではなかろうか。途中で聴きながら寝てしまった多くの人の内面でも、きっと不安は和らぎすっかり取り除かれていて、心地よく安眠し後半部では楽しく夢を見ることが可能となっていたはずである。


イーノはぐっすり眠らせない


イーノの「Foreverandevernomore」にも「ぐっすり眠れるアンビエント」に通ずる部分がないわけではない。どこにも神経を逆撫でするような無理のあるサウンドは含まれていないアルバムであるので、ぐっすり安眠しようと思えばできないことはないだろう。いや、もしかすると多くの人々にとっては、これはずっと平坦で特に刺激も面白味もないとても退屈なサウンドのアルバムであり、そういう意味では眠気を誘うかもしれないのだが。
しかし、これが直球のアンビエント・アルバムかと言われると、その問いに対してはなかなか素直に肯首できないものがある。やはり、イーノのヴォーカルが、イーノのアンビエント・サウンドにのっているという部分には、あまり簡単には看過できないものがある。イーノは、このアルバムでのヴォーカルについて、全体のサウンドの中に溶け込んでいて「僕もここにいます。だけど気にしなくていいからね」と言っているようなものであると語っている。それは、歳を重ねて思っていたよりも低いトーンの声質となってきたことで、抑揚をおさえて浮遊し漂うようにアンビエント・サウンドの邪魔にならない寄り添うような歌唱が可能となったことが大きいようだ。
つまり、イーノは、そのヴォーカルを、音楽的な要素の希薄な、サウンドと一緒に風景や空間の一部となるものだと言っている。それとともに、この低い悔恨のトーンを含んだヴォーカルによって、静物画的なアンビエント音響に、ようやく人間的な要素を描きこむことができるようになったとも考えているようである。しかし、人間という動物の要素をそこに描きこんでしまうと、それはもう静物画的なアンビエントとはいえなくなってしまうのではないだろうか。
どんなに「気にしなくていいからね」と言われても、そこに歌があると、どうしてもそれを意識的に聴いてしまうものである。聴いてしまうと、その言葉がイメージを喚起して、あれこれ感覚したり、あれこれ思考してしまうようになる。そうなるともう「ぐっすり眠れるアンビエント」どころの騒ぎではない。そして、イーノは、現在のこの地球にとってのとても大きく深刻な危機のひとつである気候変動への問題意識を、このアルバムの歌のテーマとしている。そんなところからも、歌に意識は集中し、いよいよイーノのヴォーカルはサウンドから浮き出るように耳に聴こえてくるようになる。それは、「気にしなくていいからね」と言いながらも、暗々裏にこれはわたしたちの未来にとってとても重要なことですので、できれば耳をかっぽじってじっくり聴いてくださいと言っているようなもので、事実そういう歌でもあるのである。
「Foreverandevernomore」におけるイーノの歌というのは、やはりそれがあることでアルバムをレム睡眠しか可能にしないアンビエントにしているのではなかろうか。ぐっすりと深く眠るノンレム睡眠へと降りてゆくことを、どうしてもイーノが低いトーンで抑揚なく歌い続ける歌が引き留める事になるのである。そういう意味では、このアルバムは「ぐっすり眠れるアンビエント」的な要素をちっとも含んでいない(ヴォーカル・オリエンテッドな)アンビエント・アルバムといえるのではなかろうか。


歌と音響のシンセシス


齢七十四のイーノが到達した歌の境地とは、いわゆる歌から歌らしさというものを出来る限り取り除いてしまった歌でもある。それは、現代の社会に満ち溢れるあらゆる形式の商業的な・商業主義的な歌唱からは、最も遠いところにある歌でもあるだろう。少なくとも、イーノはそういうものを目指しているのであろうし、そのサウンド・プロダクションのヴィジョンに見合うだけの歌唱法を体得できたという自信があったからこそ、新作をヴォーカル・オリエンテッドなアンビエント・アルバムとしたのであろう。
そして、その声のトーンを、イーノ本人はどこか後悔や悔恨の念(リグレット、コントリション、コンパンクション)を感じ取れるものだと分析・認識している。その声こそが、愚かなる人類による環境破壊によって、この地球上の自然の大部分が永遠に失われ、もう二度と取り戻せなくなりつつあるにもかかわらず、何も具体的なことはできないでいるという、無力感や諦めにも似た悔いいる感情を表出させたアルバムの大きなコンセプトにも、ぴたりと合致をしていたのであろう。そうした現在のイーノが内面に抱えている不安感ややり場のない焦燥やメランコリックな気分を、より分厚く表現するには、やはり本人が自分の声で歌うしかなかった、ということであったとも考えられる。
静物画的アンビエント音響に溶け込むイーノの歌は、聖歌的だと形容されることも多い。実際、イーノは教会や公民館などで活動する地域の合唱団というものの存在に並々ならぬ関心をもっていいる人であり、自らもプライヴェートな音楽活動として、合唱のグループに属していて二十年以上もそこで歌っている。そういった部分から、キリスト教教会的合唱やヨーロッパのアカペラ・コーラスの伝統などと結びつけて、イーノの歌を聖歌的と形容することもできるのかもしれない。おそらく、このアルバムでのイーノの歌唱には、これまでに所属する合唱グループで歌ってきた経験が大きく反映されているであろうから。間違いなく、そのアカペラ歌唱での経験からイーノは朗々と声を響かせながら歌う方法を学んだのだろうし、その歌唱に少しづつ自信をつけていったはずであり、その成果をわれわれは「Foreverandevernomore」で聴いているのである。

Sing Along With Brian Eno

しかし、イーノの終始抑えられた低いトーンのあまり抑揚のない歌を聴いていると、キリスト教的な聖歌というよりも、どこか仏教的な声明のようなものにもかなり近いような印象もわいてくる。歌のようで歌ではない、歌のように語っている歌。仏教の声明とは、梵文や漢文で書かれた経文を読んで言葉の意味はよくわからなくとも、それをともかくインドや中国で唱えられている通りの音で読み聞くことに意味があり、それだけでありがたい教えを授かるものとされ、古代からそれを延々と様々な形で歌われ聞かれる伝統が生じてきたことに由来するものである。そして、日本においては梵文や漢文で書かれた経を日本語に翻訳して歌う声明、いわゆる和讃の伝統が生まれた。
言葉の意味を(直接的に)伝えるよりも、ただの世界にあふれる音響の一部として発声され聞かれ、何かそこに込められているものを(ただそれが耳にされることのみで)伝えようとする歌。もはや、それは歌としては歌われてはいない、非感情表現的な感情のこもった歌、といえるものだろうか。音の響きそのもので伝わる歌、歌のように歌われる必要のない歌などともいえるが、それだけではイーノの歌や声明とは何なのかということを何も言い表せていないような気もする。それは聞かれるというよりも、空気や大気の振動の一部として(アンビエント的に)伝わるということを第一の目的としている。
合唱をすることについて、イーノは個としてのわたしがわたしたちという共同の存在の全体の中に没入し溶け込んでゆく経験であると述べている。そこにあるのは共に合唱をする仲間との間に芽生える共感の感情である。それは小さなコミュニティ・共同体の中で伝わる空気の振動のような感覚のものであろうか。いつもの仲間たちと合唱することで、わたしの意識はそこで極限まで小さくなり、無になり・空になり、合唱をしているわたしたち全体の中に溶け込む経験をする。そこでのイーノは、その共同体の中で空気を震わせて伝わってくる共感の感覚を、合唱のたびに感じ取るだけの空の器となっている。そのような意味で、イーノの合唱観というのは、とても仏教的なものでもある。そして、そうした仏教的な観想そのものの合唱を形式化させたものが、すなわち声明なのである。
実は「Foreverandevernomore」を聴いて、真っ先に思い浮かんだのは、04年に他界したコイルのジョン・バランスであった。そう思いつつ聴いていると、このアルバムはイーノ版の「The Ape Of Naples」(05年)のようにも思えてくるのだった。晩年のバランスの歌は、どこか超脱したような雰囲気をもつ、それこそ抑揚のあまりない歌というよりも音の響きそのもののようなものへと急速に深化していた。その聖歌のようでもあり声明のようでもあるヴォーカルは、カラー・サウンド・オブリヴィオンと題された主に二十一世紀に入ってから精力的に行われたライヴ・パフォーマンスの模様を収めた映像にも極めて生々しく記憶されている。
重度のアルコール依存症に苦しみ、多くの精神的な疾患も抱えていたはずであるバランスは、再起も危ぶまれていた九十年代を何とか乗り切って、その晩年にはピーター・クリストファーソンとともにコイルとして度々ステージに立った。バランスが復活する以前にも殆どライヴというものを演っていなかったコイルが行った、2000年のバルセロナのソナー・フェスティヴァルでのライヴ・パフォーマンスは、たちまち伝説となり、多くの音楽メディアで称賛された。だが、この頃のバランスには、もはやコイルの音楽とともに存在している自分の世界しか見えていなくなっているような雰囲気が漂っていた。ライヴのステージ上でも、気を散らさぬように極度に集中力を高めているのか、ただただ自分の世界の中だけに没入している。そこにいる観客の姿が見えているような気配は、ほとんどない。ひたすらに鳴り響く音響に合わせて、自分もその音の響きの中の一部となろうとするかのように、聖歌のようでもあり声明のようでもある詠唱を朗々と発したり息のように吐き出したりしているのである。
バランスの歌は、明らかに反キリスト教的な聖歌であり、イーノの歌は、どこか仏教の声明的な聖歌である。いずれも、一般的にいわれる聖歌らしい聖歌ではない。バランスは(観客に)伝えようとする気はないが(神に)聞かせるために歌い、イーノはアンビエント音響の一部に溶け込んでいる(基本的に)聞かせようとはしていない歌を(全人類が共感して)伝わってしまえるように歌う。両者は正反対のもののようにも思えるが、その歌らしくない歌そのものにはどこかに通っているところがある。
そして、やっぱり2022年のイーノのアルバムが、ちょっとコイルっぽい感じだという、そこの部分だけでも、冷静に考えてみると、何だかとてもインタレスティングなものがある。いや、もともとイーノとコイルというのは、エレクトロニックなサウンド・アートという同じひとつのコインの、別々の側面ぐらいの位置関係にあったものであったのかもしれない。あの頃に、もしロンドンで「No New York」のようなアルバムが制作されていたら、後にコイルとなる二人もそこに参加していたであろう。バランスもクリストファーソンもいなくなり、イーノのいるコインにコイルの面がなくなってしまった今、「Foreverandevernomore」にイーノの別の面としてのコイル的な歌と電子音響をまるで幻聴のように聴いてしまっている。


エモとイーノ


新しい時代のアンビエント・ムーヴメントの旗手のひとりとして注目を集めるクレア・ラウジーが、ヴァイナル・ファクトリーのネット記事でお気に入りのレコードを紹介する企画に登場し、その記事の見出しに大きく「ロスアンゼルスの『エモ・アンビエント』の星、クレア・ラウジー」と紹介されていることを殊更におもしろがってツイートしていた。エモ・アンビエントは、クレア・ラウジーなどの新進気鋭のアーティストが、全然牽引していないようなそぶりで牽引している、二十年代以降のエモい音楽の新潮流である。
その新潮流のそれぞれが正統派のアンビエントなのかどうかということは、ここではもはやあまり問題とはされない。何らかの形で音楽的であって過剰にエモいという時点で、それはもう(伝統的な正統派の)アンビエントではないだろう。しかし、広義のものであろうと狭義のものであろうとアンビエントの新しい潮流としては、エモ・アンビエントもアンビエントとしてはありなのだ。メタヴァースの時代には、いかなるエモいなにものかですら(メタ)アンビエント化してしまうことだろう。つまり、それはメタヴァース空間で、音楽をこれまでのように音楽的な音楽として聴くことは可能かという話でもある。(が、そういうことについて考えるのは、とても骨が折れそうなので、またの機会にする。)
ラウジーの作品では、楽音も具体音も電子音響も、フォールド録音された物音や鼻歌のような歌の断片も、すべて隔たりなく一緒くたにされて、まるで生花でも生けているような具合に静謐の中にコラージュされた音響が、それぞれに乱調の美とでもいうかのように鳴っている。そこでは、ちょっとした生活音や日常会話が、深淵なるドローンや電子雑音、抑揚のないメロディ、ピアノやチェロの美しい音色などと(多次元的に)出会う。それはまるで、マルチに存在しているユニヴァースを一つの表面上に組み合わせた、これまでに見たことも触れたこともない世界の景色を見せられているようで、何とも陳腐な言い方であるが、とてもエモい。エモ・アンビエントは、メタヴァース時代に生み出されるべくして生み出されたアンビエント(の新潮流)なのである。

では、イーノが歌う「Foreverandevernomore」は、はたしてエモ・アンビエントなのだろうか。ちょっとはそこにかすってはいるような気もするが、やはりラウジーの作品ほどエモ・アンビエントではない。おそらく、研究熱心なイーノのことだからラウジーの作品はちゃんとチェックしているだろうし、クチーナ・ポヴェラやハンナ・ピール、サラ・ダヴァチやメアリー・ラティモアなどなども渉猟して、昨今のアンビエントのエモな潮流はちゃんと把握しているに違いない。そうした状況があったからこそ、「Foreverandevernomore」のようなアルバムが生まれたのだと言えなくもないのではなかろうか。ヴォーカル・オリエンテッドなイーノのアンビエントは、エモ・アンビエントな時代の必然として誕生したのである。
しかし、七十四歳のイーノの歌は、時にやや沈鬱すぎるほどのムードをもっていることもあって、それほどに手放しのエモではないのである。そのため、アルバムとしてもエモ・アンビエントというよりは、アンビエント的な内省エモぐらいのところまでしかゆけてないのではなかろうか。イーノのエモは、ややヴィヴィッドさの薄れた、老成してもっともっとぼんやりとしているエモなのである。ふとした瞬間に集合したり離散したりする共感のエモなのであり、そうした大気の中に漂う気分のようなものそのものをイーノは歌っている。そういう意味では、それは非常にアンビエント的な静物的な歌であって、その歌は、エモ・アンビエント的といえるほどにはエモくない。
アルバムの曲中では、九曲目の「These Small Noises」における(聖歌的で)合唱的な歌唱が、素晴らしくエモい。やはり合唱は、かなりエモい。だが、アルバム全体としては、イーノは「さあみんなで一緒に歌いましょう」と合唱しようとするところまではいっていない。それは伝統的な正統派アンビエントの枠をはみ出さないように、巧妙に調整されているもののようにも思える。しかし、やはりイーノの場合は、はみ出さないようにしているというよりも、おいそれとははみ出せないのであろう。長い年月をかけてアンビエントの静物画的な様式の美を作り上げてきたのは、ほかでもないイーノ本人であるのだから。アルバム終盤の「These Small Noises」では、「さあ、合唱しよう」の手前まではいけているのだけれど。もしも、そこからイーノがはみ出せていたならば、アルバムのタイトルは「Foreverandevernomore」のようなものではなく、もっとエモい「I Let A Song Go Out Of My Heart」みたいなものになっていたことだろう。


環境問題とイーノ


なぜ、みんなと一緒に合唱できないのだろう。今、世界は分断されていて、すぐ隣に住んでいる人とも共に同じ歌を同じように歌うことは難しく、そんな状況において「さあ、合唱しよう」ということは、とてもとても虚しいことだからか。仲間内の小さなコミュニティでならばは共感できることも、その輪をほんの少しでも広げようとするならば、すぐに共感などというものは、さっぱり成り立たなくなってしまうからか。そんな世界に向けて、心の底からの気持ちを歌らしい歌にして歌いかけることは、もはや無意味なことでしかないからか。だから、イーノはアンビエント音響のただなかに溶け込むようにして、こっそりとあまり「気にしなくていいからね」と抑揚もつけずに声明を唱えるように歌うのか。そこには、齢を重ねてもはや心のおもむくままにエモくなりきれないイーノの姿が見えるようでもある。
イーノにとっての最大の関心事のひとつである環境問題について歌っているということも内省的で沈鬱なムードを醸し出している大きい要素であろうか。それについてはもう声高に何かを歌にして訴えることでどうにかなるようなレヴェルではなくなってしまっている。すでに惨事は始まっていて、地球上では刻一刻と大量の手付かずの自然が失われ多くの生物が絶滅している。そんな世界において、もはや音楽は、それが何らかの意味で、いまここで存在する意義や意味をもつものであろうとするならば、深い部分で感情を表し何かを伝えるようなものでしかなくなってくる。エモかろうが非エモであろうがお構いなくアンビエント的な音響で何かを伝えて、人類の生の(本能的な)感情そのものに訴え、過去や伝統にとらわれない新しい思考を促す。そういうものをイーノは形にしようとして、このアルバムを完成させた。もう少し地球が・世界が、生きとし生けるものすべてにとって住みやすい場所にならなくては、みんなで一緒に歌うこともままならない。つまり、イーノが合唱アルバムを制作するのは、まだまだ遠い遠い先のことなのである。
まだ合唱できない世界で聖歌や声明のように歌うイーノにとって、このアルバムは、最新型のイーノのアンビエントであるとともに、広義の意味での環境音楽でもある。つまり、現代のわれわれの生を取り巻いている環境の一部としての音楽であり、音響である。ゆえに、この地球環境が抱える問題と、このアルバムの音楽・音響は、決して切り離されてはいない。これが、アンビエントであり環境音楽でもあるということは、そういうことなのである。環境音楽とは、環境の音楽ということだが、たくさんの深刻な問題を抱えている環境にとって、その音楽とは、娯楽として楽しむだけのものとはなりがたい。それに、この環境の一部である音楽が、娯楽的であることに、もはやどれくらいの意味があるのであろうか。環境の問題をエンターテインメント化することは、(環境)音楽による環境破壊ではないか。
環境もまた音楽であり、音楽は環境の一部である。だからこそ、ぐっすり眠れるものだけがアンビエントではないのだ。ぐっすりと眠ることのできない不安定で不安な世界があり、その一部でもあるところのアンビエントもあるのである。生きてゆくためには、睡眠も重要であるが、世界の一部となって、何かを感じたり、考えてみることもまた、とても重要である。特に、今のこの世界においては。いうまでもなく。
現在の混沌とした世界の状況の中で、ぐっすり眠るためのアルバムであったり一服の精神安定剤となるようなアルバムであることは、あまりにも受動的かつ消極的ではなかろうか。「Foreverandevernomore」なんていうタイトルのアルバムでも、現代を生きる人々は深く考えることなくぐっすりと眠れてしまうだろうか。ぐっすり眠れるもんなら眠ってごらんなさいな。そのような作品をこそ、イーノはわざわざこの時代に対してひとつの問いかけとして投げかけたかったのではなかろうか。イーノは、アーティストは「感情の商人」である、というようなことをいう。感情というものは共感というエモい公正な交換があって、初めて取引が可能となる。よって、アルバムの聴き手は、イーノという老獪な感情の商人から、正しく等価に感情を受け取らなければ、そこに取引は成立しないことになる。これは、ただのエモ・アンビエントなのか、それともぐっすり眠れるアンビエントなのか。この合唱好きな感情の商人は、二十一世紀のコンシューマーたちがどういったものにこぞって手を出すのかを見定めようとしている。


アートとアンビエント


感情の商人であることに意識的である、極めて今日的なアーティストが、「Foreverandevernomore」なんていうタイトルのアルバムをリリースすることで目論んでいたものとは、いったい何なのか。それは、聴くものをぐっすり眠らせることではなくて、アンビエントという環境の音楽を通じて、何かを感じさせ、考えさせ、共感するエモい領域まで導いてゆくことであったのではないか。そして、それは、全く新しい精神性の模索への試みでもあった。
はっきりと掴みえぬものを掴もうと試みることに、特に何か決まった答えのようなものが前もってあるわけではない。ゆえに、それそのものには、なにほども大それた意味などはないのである。そういうもの、それこそが芸術であり創造である。アーティストという感情の商人が売りつけようとしているのは、そういうものだ。そうした芸術・アートというものの存在の意義を、イーノは信じている。いや、厳密には、それしか信じていない、といってもよいだろう。
新しい時代の新しい精神とは、それは新しい時代にしか芽生えぬものである。それは、今まだここにはない。今の時代が、次の時代へと変化するとき、突然に偶然にあらゆるものが変化するものなのだろうが、その変化の中で新しい時代の新しい精神もまた芽生えてくる。だがしかし、新しい時代の新しい精神へとつながってゆく、今はまだ表面には現れてきていない、何か予兆や兆し、未来への徴のようなものを、アーティストは見据え、その目に見ようとしている、のである。


ときめきとアンビエント


近ごろの七十四歳の感情の商人の発言には、ちょくちょく「こんまり」が登場する。どうやら、イーノはこんまりに全く新しい時代の全く新しい精神性の兆し・徴めいたなものを感じ取っているようである。そして、イーノは特に片づけコンサルタント、こんまりこと近藤麻理恵の思想が有している反資本主義的な側面に注目をしている。
ここ数年、日本だけでなく海外でも、ずっとこんまりブームが続いている。そして、多くの人がことあるごとに断捨離をしている。そんなに捨てたくなるほど色々なものが身の回りに溢れているのかと不思議にもなるが、こんまりの心がときめくもの以外はばんばん処分してゆく片付けのメソッドは、今の世界においてはまさにグローバルなブームとなっているのである。わたしのようなおそらく普通の人の感覚からするとごみのようにしか見えないものにも心ときめいてしまう人間からすると、こんまりの言っていることは本当に何それという感じなのだけれど、超リッチなミニマリスト然としたタイプの現代人であるところのイーノには、こんまりの片付けメソッドは思いのほかびんびんと響いているようなのである。
身の回りに溢れるものを捨てて、本当に自分の心がときめくものだけに囲まれて生活する。無駄なものは一切買わない。心がときめかないものを買って、自分を心ときめかない人間にしない。市場に買い物に来る(もうすでに持つものである)消費者が、一切無駄なものを買わなくなり、心ときめく消費しかしなくなったら、即座に資本主義経済は立ち行かなくなってしまうだろう。消費者による無駄に大量のものを買い込んでゆく消費の行動が、資本主義経済をぐるぐると回し、ぐんぐんと発展させてきたのだから。こんまりの片づけメソッドの根幹にあるときめき至上主義的思想は、ある意味では、身の回りのものを少なくし、買うものを厳選するという部分で、反資本主義的ではあるだろう。
こんまりのラディカルなミニマリズムは、ちょっとの隙でもあればガムひとつでも飴ひとつでも無駄遣いさせて大量消費型の経済活動のサイクルに取り込もうとするシステムからの(無言の強烈な)働きかけに対しては、明らかに反している。しかし、やはりその大きな経済運動・経済活動のシステムの只中で、東洋からきたひとりの女性がミニマルに心地よく暮らそうと言うだけで、資本主義が大きく変わるというわけではない(だろう)。
こんまりの考え方に共感した、これまでの大量消費型の生活スタイルに疑問を抱くようになった人々は、小さく自分の身の回りだけならば、心ときめくものに変えて行けるかも知れない。そんな小さな変化が、共感のつながりを広げてゆき、社会がもっとときめく方向に転がってゆけば、もっと気持ちのよい心地よい暮らしができるのにと思えるようになるムーヴメントを起こして、大きな変化につながってゆくのかも知れない。こんまりの思想やメソッドとは、それぐらいの下からのユートピアを夢想するものでしかないのかも知れない。
だが、そういう変化を起こしてゆく可能性を持つものかもしれない感化や共感といったものを、こんまりは全ての人々に強要はしないのである。決して無理をせずに、できない人はできないままでもいいという。そういった寛容さにもイーノのような人は、心ときめいてはまってしまうのかも知れない。実際のところ、ミニマルに切り詰めて心地よく暮らして行ける人というのは、ほんの一握りであったりするのではないか。前提的に、ある程度の余裕がなくては、そのメソッドを徹底できるものではないだろう。こんまり本人は、別に夢想的な思想家では全くない。ましてや、思想的な活動家でもない。
こんまりの生活に関する考え方が、薄く広く浸透したとしても、それが目に見えて反資本主義的といえるレヴェルのものにまで到達するのかは、少し疑問である。それは、世の中が少しでも変われば、わたしたちはとても心地よいのです、ときめくのです、というレヴェルで止まってしまうのかも知れない。しかし、それで本当によいのだろうか。心ときめくものだけに囲まれて暮らしていられれば、イーノはそれでよいのだろうか。今現在の世界や社会をなんとかしなくてはいけないと常日頃から考えていたとしても、それとこれとはやはり全く違うレヴェルの話なのではないだろうか。

年末年始にかけて妹が実家に帰省していた。そのときつくづく思ったのだが、いつもは都内で暮らしている妹の家族四人の生活の様式というものが、あまりにも普段のわたしの細々として萎びきっている日常とは異なっているものだったのである。これには、やはり驚いた。もしかすると、かなり極端な例だったのかも知れないが、親二人子供二人で、結構どばどばと物を買い求め、それをどばどばと片っ端から使って、全ての生活のエネルギーとなるものをどばどばと消費して、たくさんのゴミを出す。あのヴォリューム感や速度感が、今の東京で子育てをしてる世帯の、ごく普通の生活のスタイルなのだと思うと、少しおそろしくもなった。
小池百合子東京都知事が都内の子供(未成年)一人につき一月に五千円を与えるという計画を表明した。一ヶ月に五千円で、どれくらいあのヴォリューム感や速度感が分厚くなったり加速するのかは未知数だが、考え方としてはこれまでの大量消費型の生活スタイルを維持して、さらにエンジンをふかしてゆこうというもので、イーノが反資本主義的というこんまりの思想とは、もはや完全に逆をいくものであることは確かだ。
おそらく昭和の終わり頃から平成の初め頃にかけての時期に生まれ育ったわたしたちは、ずっとああいったような物にあふれるたくさんのゴミを出す生活をし続けてきたのだろう。そして、その中で育ってきた世代が、今では親の代になっていて、それほど自分たちが育ってきて頃とあまり変わらぬような子育てをする生活を実践しているだけなのであろう。今のこの時代にも、なんの反省もなくそれは繰り返されているようにも見える。自分達がそうだったのだから、そうするのが当たり前であると暗にいっているかのように。ああいった今や伝統的なものになりつつある現代日本の子育て世帯の生活様式が、どのように反資本主義的な方向へと少しずつであっても変わってゆけるというのだろうか。あまり想像がつかない。子育てにはお金がかかるものだから補助が必要だといっても、結局はどこまで行っても上昇する子育て世帯の生活様式のヴォリューム感や速度感には追いつけぬままであろう。何もかもどばどばでは少子化に歯止めがかからぬのも無理はないのかも知れない。
もしも、現代の日本人の大半が、こんまりに感化されて何かをするにしても、できるとしたらまずは反こんまり的な断捨離をばんばんして、さらに大量のゴミを出し続けることぐらいなのではなかろうか。毎月の子供手当に上乗せした五千円の補助分だけ多い大量の消費をして、以前よりも五千円分だけ多くのゴミがどばどば出る。
その昔、空也上人は、いかにすれば安心を得られるのかとたずねられ「棄ててこそ」とだけ答えたという。この「棄ててこそ」もまた、やはりただ何でもかんでもものを捨てればいいということを言っているのではない。こんまりが言っていることも、ある意味では、空也の考え方と一致するところがある。ものを(どれだけ)捨てても、そこにまだ我執のあるうちは「棄ててこそ」の境地には、遠く及ばない。おそらく、こんまりも自力のミニマリズムから他力への転換(自力のときめきと他力のときめき)ということを言っているのだろうが、そこがうまく伝わっているようには思えない。いや、できない人は自力に留まっていてもいい、というような曖昧なことを言っているせいで、何も伝わっていないのであろうか。詳しいことはわからないが、何にしてもやはりこんまりではちょっと中途半端なのである。完全に(これからの大きく変わりゆく時代の動きに対して、きっちりと応答できうるほどの)反資本主義的な何かだとは、残念ながらちっとも考えられない。

(追記一)
こんまりが極端な片付けを諦めて専ら禅宗に傾倒しているという記事を読んだ。はたして、こんまりは変わってしまったのかだろうか。変節し転回してしまったのか。いや、こんまりにとっては、禅もまたときめきであり、それはそもそも自力の道でしかない。片付けようが片付けていなかろうがこんまりは「棄ててこそ」以前でありこんまりのままである。

(追記二)
もうすでにがたがたになっている末期的資本主義経済においては、もはや「(もったいなくても捨てちゃって)必要だったら、また買えばいい」という考え方は、ほとんど通用しなくなってきている。未曾有の不安定性の中にある世界で著しく物価高騰は進行し、かつて百円で買えたものが、あれよあれよと二百円になり、そのうちに三百円でも買えなくなることだってあるやもしれぬ。感染症のパンデミックや、ロシアとウクライナの戦争、気候変動問題とも結びついている化石燃料の問題などが複雑に絡み合い、あらゆる原材料の価格が高騰していて、製造や輸送のエネルギー代金や燃料費も跳ね上がっていることで、全地球的に物価の高騰が続いている。それとともに貨幣の暴落といってよいほどの低下も物価高騰問題の裏には存在しているのだ。各国の中央銀行は金融の緩和と引き締めを適度に適時バランスをとりながら調整し、激動するグローバル経済との渡りをつけてドメスティックな財政の経済の舵取りをしている。まさに世界経済の荒波を乗り越えて航海を行なっているような、とても勇ましい気分で締めたり緩めたりしているのだろうが、外の荒れ狂う海の様子はつぶさに見ていても、やはり自分が乗ってる船の中の実情はあまりよくは見えていない。というか、もはやがたがたになっているぽんこつ船を沈没させぬように航海を続けてゆくためには、自国の貨幣の価値があるていど目減りしてしまうなんていう事態自体は致し方ないといったところなのであろう。この暴落もしくは低下もしくは目減りは、今のままの流れであれば、かなりのところまで進行するであろう。そうなれば、もう「必要だったら、また買えばいい」という考え方は、遅かれ早かれ通用しなくなる。まだ物が安かった時代に買ったお得なものを大事に使い続けるのが、最高にときめく生活メソッドとなる日も近い。そのうちに、ハイパーインフレでちり紙や古新聞なみの価値しかなくなった貨幣に心ときめかなくなって、束にして可燃ごみの日に捨ててしまう人が続出するかも知れない。これぞまさしく、一才皆空の「棄ててこそ」の境地である。


ノーモアエコノミクス


イーノは、こんまりのようなミニマルで微小かつモナド的な反資本主義の動きのその先に、新しい経済学の発明が必要だと考えている。資本主義や共産主義のような古い経済学に代わる新しい経済学が打ち立てられる必要があると。そういう意味では、こんまりの反資本主義的なメソッドや思想では、まだ新しさが足りていないことをイーノも重々承知してはいるのだろう。よりよい新しいものへと移行してゆくためには、古い合唱ではもうみんなで合唱できないのだという共感が必要であるし、旧から新へ移行できる人だけが移行すればよいということにも決してならない。そして、それは自力による成長という幻想を脱した、他力と共感と温情の経済学でなくてはならない。
いつまでも今までの経済学の延長線上で考えていたのでは、経済学を新たなものにすることは到底不可能なのではなかろうか。これまでの感覚でいうとつゆほども経済学だとは考えられなかったような、全く新しい経済学を発明する必要がある。キャピタルとは元々は大昔に一般の人間たちが初めて手にした大きな財産・資産であるところの牛の頭ことであり、古代の経済行為とは牛の頭つまり牛の頭数に換算して取引がなされるものであった。日本の封建時代の貧しい農村でも飼っている牛に子牛が生まれることは、その家に大きな富をもたらすことに等しかった。そうした自然の中の生物の命を搾取し価値あるものとして利用・有効活用するところから今の経済学、そして資本主義(キャピタリズムとそれを乗り越えようとした共産主義)は始まっている。イーノもはっきりと「地球資源を無限に搾取するような経済学ではだめ」だと言っている。それは、つまり現在の資本主義経済の終焉の後に新しい経済学があることを意味している。資源を枯渇させるまで富への欲望をエスカレートさせ、環境を破壊することを助長するような経済学ではもうだめなのであり、自然に属するものであるところの動物や人間の命を資産・資本としてもののように扱って取引や交易、交換をするような搾取の構造の上にある世界や社会ではもうだめなのである。
やはり求められているのは、何ひとつ嘘のない公正な社会であり世界である。それは、新しい資本主義などというもので可能であろうか。今までのものとは全く違うものが新たに発明されなくては、それは不可能なのではないだろうか。全く違うものとは、新しい資本主義などというものなのではなく、文字通りの意味でのポスト資本主義的なものなのではなかろうか。
新たに発明されるべき経済学とは、より倫理学的で、より精神哲学的で、より科学哲学的で、より詩学的で芸術学的なものとなるだろう。今までの経済学に欠けていたものを、そこにすべて盛り込まなくてはならない。今まで経済学者と呼ばれていた人たちが、大なり小なりそれに対して反対するものでなくてはならないだろう。各々のメンバーが分担をするパートをあらかじめ決められている合唱ではなく、アンビエントで合唱するようなものにならなくてはならないだろう。


見出すイーノ


イーノがこんまりに共感を感じているのは、自分のメソッドや考え方・思想を、自分からのアウトプットを通じて表していても、それを無理に押し付けようとしていないところに、アンビエントに相通じるものを感じとってているからなのであろう。逆にいえば、今や何かを声高に主張しようにも、それが圧倒的に正しく正義なものであったとしても、圧倒的に悪しき悪徳に傾いたものであったとしても、このもはやハイパー・ノーマライゼーションの動きのただ中にある世界・社会においては、それをすることが何の意味ももちえないという側面が確実にあるからなのである。
アンビエントという、どうとでも受け取れるものを、あまり色付けすることなくそのままに創造・創作してリリースする。それがさまざまな形で感じ取られ、そこに感情や感覚の波が立ち、そこからよりよいポジティヴな方向に向かう新しい思考や精神性のようなものが芽生えてくるのを、イーノは見ようとしている。そして、世界のいたるところでその新種の植物のような思考法や精神性が大きく育ち、自然が破壊され荒廃してしまった地球をびっしりと覆い尽くす日が来ることを待ち侘びている。
だが、どちらかというと、イーノには、今はまだ埋もれてしまっている感覚や思考の芽のようなものを掘り起こしてゆきたいという部分も、やはり少なからずあるのではなかろうか。待つだけでなく、自分でも見出したいのだ。その希望をまだ捨てていないから、新たな挑戦的なアルバムを制作したりする。今はまだ頭でははっきりと考えられてはいないけれども、身体感覚的もしくは肌感覚的に感じ取られているようなものを、感情の商人としてアートの力を借りて目に見えるような形に音を響かせることもできるのではないかと。それこそがアンビエントというものにできることだとイーノは信じている。そして、そうしたサウンド・アートとしての現時点での最良にして最善のものを形にしたのが、最新のアルバムであるということなのである。


信じるイーノ


間違いなく、イーノも、そしてモービーも、アンビエントというものが原初から伏蔵している可能性を信じているし、ここではないどこかへと繋がっている何かがあることもまた常にはっきりと見てとっている。だからこそ、この時代の本当にどうしようもない暗さの中にあっても、いくばくかの希望を見つけ出そうとする創造(想像)を止めようとはしないのである。ゆえに、それだからこそのアンビエントなのである。
この世界/この社会は、変わらなくてはならない。そうしなければ、もはや明るい未来はないだろう。それを人類のほとんどはもう(さまざまなレヴェルにおいて)実は知っている。だからこそ、イーノのあのようなタイトルのアルバムがある。永遠に失われてしまものがある。ずっと残るものがある。そして、ひとつの終焉とともに、全く新しい永遠として創造され/創造されるものがあり、そこで全く新しい精神性ものとに生み出されるものがある。おそらくもう二十世紀のような時代は(永遠に)こない。それに必死にしがみつこうとしているものも、そのうちにいなくなる。それは、永遠に失われてしまう。存在の永遠と喪失の永遠だけがある。
いつかきっと、不安に苛まれることなく、ぐっすり眠れる時代が来る。新しい時代の精神は、あらゆる古い伝統的な不安を消し去ることだろう。そこではもう、生きることも、そして死ぬことでさえも、恐るるに足ることではなくなっているだろう。生きるも死ぬも、そう大して違いはない。夜になれば、毎日人は死に、朝になれば、また生き返る。それぐらいのものでしかない。全てみな大なり小なりの循環をして繰り返されるものでしかない。ただし、そんな時代にも人間はアンビエントを聴くだろう。始まりも終わりもない環境の音響を、生きている間にも、死んでいる間にも。


(資料)


(不安ビエント)


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