【無料記事】パイサーン師のモーニング説法~死ぬ義務と良く死ぬ権利~
タイの山奥の寺でお話されている説法を
朝お届けするモーニング説法です!
今日の説法は、無料記事にいたします。
(100円に設定していますが、無料ですべて読めます)
タイトルは
「死ぬ義務と良く死ぬ権利」
ちょっと聞き慣れない言葉ですね。
死ぬ義務?
良く死ぬ権利?
どういうことなのでしょうか。
ぜひ、ご自身の気持ちを見守りながら
お読みいただけると嬉しいです。
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(2012年8月10日 夕べの読経後の説法より抜粋)
(有名な)パヨーム師が
こんな言葉をおっしゃっていました。
「私たちは、自分でお寺を参拝するのがいいですか?
それとも
他の人が、私を参拝しに来てくれるのを待つのがいいですか?
あるいは
私たちは、自分でお経をあげるのがいいですか?
それとも
お坊さんが
私のためにお経をあげてくれるのを待つのがいいですか?
また、
私たちは、自分で合掌するのがいいですか?
それとも
他の人が、私に向けて合掌をしてくれるのを待つのがいいですか?」
と。
私たちが、このように自分自身をふりかえって見ることができれば
機会を作って、お寺を参拝し、また自分自身の気づきを
高める機会としたいものです。
私たちは、自分で合掌する機会を持たないまま
他の人に合掌されることになるやもしれません。
その意味するところ、それは「死」ですね。
そして、私たちの人生は誰でも不確実で、不確定であるということ。
いつその死が訪れるかわかりません。
ですから「怠らずに」いることが大切です。
死は、自分にとって遠いもの、と考えてはなりませんよ。
近いものなのです、誰にとっても。
まだ年が若いから、遠いものだと思うのは間違いですよ。
死は、年をとったら考えればいいというものではありません。
いつでも、誰にとっても、近いものなのです。
チベット仏教の言葉にこう言う言葉があります。
「明日か、来世か。
どちらか先に来るかは、誰にもわからない」
私たちに明日はあるか?
明日はもう、来世になっているかもしれません。
この世界中で、1日に亡くなる人は約15万人だそうです。
今日、その中に私が入らないという確実な根拠はどこにもありません。
その中に、私の愛する人が入らない保証はどこにもないのです。
死というのは、すべての命あるものにとっての「義務」です。
そしてそれは、私たちの義務です。
生を受けたものは、必ず死んでいかねばなりません。
しかしその死ぬ義務を負っているだけではありませんよ。
同時に権利も持っています。
どういう権利であるか?
「良く死ぬ権利」です。
良く死ぬ権利、とは、心が苦しまず穏やかに死ぬ権利です。
これらのことは、あまり重要視されてはいませんね。
普段考えることは、「どのようにより良く生きるか、生きる権利」
のことばかりを考えるからです。
より良く生きることは考えても
より良く死ぬことは考えない、あるいは考えたくない。
しかし、より良き死について考えることは大切ですよ。
なぜなら、心の準備ができるからです。
いつの日か来る私の死に向けて
今ここから、この瞬間から準備をすることが可能なのです。
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浦崎感想
今日は、東日本大震災が起こった日。
6年前、多くの命がこの日に
予期しなかった義務を果たしていかれた日です。
命あるものは、すべて死の義務を果たす。
とても厳しく現実を突きつけられる言葉ですが、
それは私自身にも当てはまることなのですね。
実は私の父も、
42年前の3月11日に、突然の交通事故で
生あるものの義務を果たしていきました。
愛するものの死、そして私自身の死。
それらの義務を逃れて、生き続けることは
どうやっても無理なのですね。
ただ、その事実を受けとめた上で
さらに「より良く死ぬという権利」を
今ここにある命は、すでに与えられている。
この事実にもまた
私たちは励まされます。
しっかりと権利を行使できる力を身につけることが
予期せず義務を果たされた方への
何よりの供養になるのだと思います。
今日1日、
私に生を与えてくれた父と、
この事実を教えてくれた多くの命に
深い感謝と祈りの真心を向けていきたいと思います。
応援やサポートをいただくたびに、これからも翻訳や執筆を続けていこう!と励まされています。