見出し画像

ペレ師説法・全文邦訳【家族や身近な人に自分が大切にしていることを理解してもらえない時の心の整え方】


⭐️100円設定ですが、全文無料で読めます。


2025年1月12日に行われた第53回気づきのサーラー瞑想会。
その際にアシュラムで修行されている
キティクン(ペレ)師のお話を伺いました。

お話をされる前に、
ペレ師が事前に準備してくださっていた文章を
タイ語でいただくことができました。

その文章全文、日本語訳しましたので
この記事にしてお届けします。

翻訳してくださった貝多羅葉(ばいたらよう)さん、Satokaさん
ありがとうございました!


当日のお話は、youtubeでも音声のみ公開して
おりますのでそちらもどうぞお聞きください。



=================

2025年1月12日

日本人実践者とのズームセッション


イントロ

 ダンマ(仏法)を実践する日本の法友の皆様のご繁栄をお祈り致します。また皆様とお会いしダンマの教えを分かち合う機会が得られたことを嬉しく思います。今回で2回目ですね、前回は去年の7月でした。

数日前、ファーさん(浦崎さん)より「日本には家族や身近な人からの理解が得られない為に苦しんでいる人が沢山いる」あるいは「自分が重要だと思っている事が周りに理解されず反対され苦しんでいる人が沢山いる」と聞き、このテーマについて話をしてもらえないかと提案を受けました。


  • 家族や親しい友人が自分が重要だと思う事を理解してくれない時、どのような心構えでいればよいか?

  • 家族や親しい友人が自分にとって何が大切か理解してくれないときの対処法

  • 家族や親しい友人が自分の価値観を理解してくれないときの心構え

今日は皆さんにこのことをシェアしていきたいと思います。

 ちなみに、この問題を抱えているのは日本人だけではありません。タイ国内でも世界中の国々でも多くの人がこの問題を抱えています。悟りを開く前の仏陀自身でさえ、この問題を抱えていました。シッダールタ王子であった頃、父であるスッドーダナ王は彼が苦しみから抜け出す道を探す為に出家することに賛成しなかったのです。

これも、私たちが何を重要視するかにもよります。あるいは関わっている人々との関係、私たちがどのような立場にあるかにもよります。どのような立場によるか?例えば、子供の立場なのか、父親なのか、母親なのか、上司なのか、従業員なのかなど。これも非常に重要な条件であり、その力関係も同じように重要な条件です。

また、私たちが重要だと思っていることを相手は理解していなかったとしても、その人が私達の邪魔をしたり、諦めるようなことを言ったり行ったりしなければ大したことではありません。相手と私たちの関係に限って言えば良好です。しかし、私たちは心を開いて相手が大切だと思っている政治、宗教、生活スタイルなど考えの違いを認め受け入れるべきでしょう。
今日は私たちにとって重要だと思えることに範囲を絞って話をしたいと思います。つまり、自分を傷つけてはいけない、他人を傷つけてはいけないという事に絞って話をします。ですから、例えば「薬物使用が自分にとって重要と思えるのに、身近な人たちは理解してくれません」という問いや「ギャンブルやさまざまな悪行為を周りの人が理解してくれない」等の話はしません。いずれにしても私たちはこれに関与すべきではありませんから。


  1. 自分の感情を大切にしましょう

 この点において、私たちがまずすべきことは 気づきを伴い自分自身の心がどう感じているか観る事です。身近な人が自分が重要だと思っていることを理解してくれなかったり反対された時、私たちは悲しみ、怒り、不満、失望を感じることがあります。しかし、これら生じる感情に気づきを間に合わせる事に焦点をあてましょう。私達に反対した人を見るのではありませんよ。
もしもサティの力が十分強ければ、これらの感情を適切にケアをすることが出来ます。心が感情に覆いつくされないよう対応することが出来ます。それには湧き起こる感情をただただ見る(ルー・スースー)のです。不善(アクソン)が生じたならば、それを押しのけようとせず、ただただそれを観るのです。それが観えたなら、それになってしまわず、それに覆いつくされないのです。これはサティの訓練が土台となっています。サティが十分な力を持つ為、感覚を何度も感じる訓練が必要です。すると、私たちに何が触れても普通(ポカティ)の心でいられます。
 感情に対処することに戻って来ないとしたら、私たちは自分と意見の合わない他人を責めることに集中してしまいます。そして、心に生じる感情のケアがされないとしたら、それは苦(ドゥッカ)となり気づきの無いまま悪い言葉を口走ったり、行ったりしてしまいます。状況は悪くなる一方です。家が火事になっている時は、家に火を着けた犯人を追いかけるのでは無く、最初にすべきことは燃えている火を消すことです。


2. 飾り立てられた思考を観る

 湧き起こる感情をケアすることに加え、飾り立てられた思考も観るべきです。なぜならほとんどの場合私たちに苦(ドゥッカ)が生じるのはこの飾り立てられた思考によるものだからです。私たちはよく、相手は自分の事を全く理解していないので、大変困ったものだなどと決めつけがちです。あるいは、いろいろな事を想像し、彼はああいう人だから、こういう人だからと決めつけるのです。相手が自分の思っている様な人ではないので、考えれば考えるほど苦(ドゥッカ)に苛まされてしまいます。ですから、私たちはサティで感覚を感じるべきです。そうすれば飾り立てられた思考が生じたということに気づきを間に合わせることが出来るからです。それを観ることで、それにならず、飾り立てられた思考に過ぎないと観ることが出来るのです、そして私たちに苦を与えることが出来なくなるのです。その為には感覚を何度も感じるサティの訓練が土台に無ければなりません。

3.期待値を下げましょう

 次に私たちの"相手が理解してくれると期待している心”を観察しましょう。私たちに苦が生じるのは相手が賛成してくれないときです。朝の読経の中にこのような偈があります。「何かを願った時、その願いが叶わないこと、それが苦です」。私たちは、自分にとって重要だと思うことを相手にも理解し賛成してもらいたいと望みます。しかし、相手が自分の期待する通りに理解してくれたり賛成してくれない時、私たちは苦しむのです。しかしそれはまた普通のことなのです。
 相手が理解してくれない事、これは私たちの外側の要因です。しかし、もう一つ重要なのは私たちの心の中のことです。つまり、相手はああでなければならない、こうでなければならないと思ったり、相手は自分のことを理解しなければならないと期待を抱いているのです。しかし、まず私たちは自分自身の内側のことをケアしなければなりません。それはつまり自分自身の期待値の事なのです。自分は過剰に期待しすぎているのではないか?ということをケアしなければならないのです。
 アチャン・チャー師はこのように説かれたことがありました。それは、何かを穴に落としてしまった時、腕を伸ばして拾おうとします。しかし届かないものです。そんな時、私たちは「穴が深すぎた」と言います。自分の腕が短すぎたとは考えないものです。同じように苦しみが生じた時、自分以外のせいにしがちであり、自分自身に立ち戻り原因を観ようとはしないのです。
もしも、欲したり期待したりということをしないならば、苦(ドゥッカ)になりません。期待すればするほど、その通りにならなければ更に苦しんでしまいます。ですから良い方法とはその期待する心を観る事であり、自分にとって重要だと思えることを他人が賛成したり反対したりすることは普通のことであると心構えておくことです。同じように私たち自身も他の人が重要だと思っていること全てを理解し賛成しているわけではありませんよね。

4.受け入れましょう

 その次に相手が賛成していないことを受け入れる訓練をします。「よしわかった、今、相手は賛成していないのだな、もしかすると、まだ理解していないのかもしれない。あるいは別の視点を持っているのかもしれない」とまずこの部分を受け入れましょう。なぜなら、この部分を受け入れることが出来ると心が葛藤を起こさないからです。葛藤を起こさなければ心は穏やかになり、苦しみも少なくなります。しかし、受け入れなければこれを認めず遠ざけようとし、私たちの心に苦(ドゥッカ)が生じ続けるのです。
 認め受け入れるということは諦めたり屈服して何もしないということではありません。ここでいう認め受け入れるとは私たちの心が苦しまないよう、まずケアをするということであり、ほかの事もまた同時に対処を進めていくのです。パイサーン師はタムチット(心で行うべきことを、行い)・タムキット(身で行うべきことを、行い)なさいと教えられました。


5. タムチット(心で行なうべきことを、行なう)・とタムキット(身で行なうべきことを、行なう)

5.1 相手が私たちを理解していないときでも、私たちが先に彼らを理解しようと努力してみましょう

 他人の考えを変えることはできませんが、自分の考えを変えることはできます。相手に自分のことを理解してほしいと求めるのではなく、代わりに私たちが相手を理解してみましょう。相手が私たちを理解しない理由や賛成しない理由に耳を傾けてみましょう。そして心を開いて相手の話を聞くことで、相手を理解する努力をしてみましょう。
 相手の立場になって考えてみることで、相手をより深く理解できるようになるかもしれません。もし私たちが相手側だったとしたら、彼らのような責任を抱え、彼らのような環境で育ち、彼らのような教育を受け、彼らと同じような苦しみや期待を持っていたとしたら彼らと同じ考え方をするかもしれません。こうして相手を理解することで相手への不満は消えるか、少なくとも和らぐことでしょう。
 心を開いて相手の話を聞くことで、物事をより多面的に見る契機となるかもしれません。相手は私たちがこれまで考えてもいなかった視点を持っているかもしれません。それを踏まえ何かを改善できるか考えたり、妥協点を見つける方法を模索するきっかけになるでしょう。

5.2 落ち着いた心で相手に理解してもらうよう説明する

 自分の心を整えた後は、落ち着いた態度で慈悲のある言葉または丁寧な言葉を使い、なぜこれが自分にとって大切なのか説明することができます。そうすることで相手が心を開き聞いてくれる可能性が高くなります。ただし、適切なタイミングを見計らうことが重要です。相手が心を開き聞く準備ができているかどうかを確認します。相手が機嫌が悪い時に説明を試みるのは避けるべきです。

5.3 手紙を書いたり、他の人に代わりに話してもらう

 言葉で説明する以外にも場合によっては他の方法でコミュニケーションを取ることもできます。例えば手紙を書いたり、他の人に代わりに説明してもらうことも一つの選択肢です。もし自分で話す準備が整っていない場合、声のトーンや顔の表情に不満が表れてしまうことがあり、相手もそれを感じ取ることもあります。手紙を自分で書き信頼できる人に読んでもらうこと、友人に手紙の内容をより良く推敲してもらうこともあるかもしれません。


5.4 価値や利点を示す

 そして重要なのは、私たちが大切だと思ってることの価値や利点を示すことです。場合によっては言葉よりもその方が伝わりやすいこともあります。しかしこれには時間がかかることもあり私たちは忍耐力を持つことが必要です。
 ファーさん(浦崎さん)は私に、日本にいる沢山の修業者が家族や親しい友人に自分が修行に興味を持っていることを理解してもらえず、とても苦しんでいると言っていました。ですから私は個人的な経験をお話ししたいと思います。それが少しでも役立つかもしれません。


6.出家することを決意したものの両親は賛成してくれなかった経験

6.1 両親は仏教徒であっても賛成してくれなかった

 私自身もこのような経験があります。特に出家を決意したとき両親は反対していました。タイは仏教国であり、多くの親が息子に一度は出家してほしいと望んでいるとはいえ、必ずしも全員がそのように考えるわけではありません。私の家族は仏教に深い関心を持っているわけではなく、行事の際にお寺にお参りをしたり、タンブンする程度でしたが仏教の修行には無知、または関心がありませんでした。そんな中で私だけが大学時代から仏教に興味を持つようになったのです。

6.2 プラムヴィレッジでの出家は上座部仏教のように両親の許可を必要としません

 タイの上座部仏教ではたとえ一時的な出家であっても両親の許可を得る必要があります。当時、私は最低でも5年間の出家を決意していましたが大乗仏教のプラムヴィレッジでは両親の許可は必要ありませんでした。18歳以上であれば自分の意思で出家を決めることができたからです。しかし私は両親を悲しませたくなかったため、決心した後すぐに出家するのではなく両親が心を整えられるよう時間を与え、少しずつプラムヴィレッジについて紹介することにしました。実際のところ大乗仏教であっても上座部仏教であっても当時の両親はどちらにも賛成していませんでした。

6.3 悪かった母との関係性

 当時、私は家族との関係が良くありませんでした。特に母とです。母と一緒にいるととても苦しく感じたのです、母が私の生活の様々な事について細かいところまで指図しているように思えて仕方がありませんでした。自分自身も修行がまだ安定しておらず、しばしば母に対して良くない反応をしてしまいました。母も苦しみまた私自身も苦しんでいました。それでも自分には両親に理解してもらいたいという気持ちがありました。何故かというと以前から母は多くの悩みを抱えていたので仏教の修行を理解することで少しでも苦しみが減り、私の出家の決断にも賛同してくれるのではないかと考えていたのです。

6.4 直接的に間接的に両面の努力

 私は直接的にも間接的にもいろいろな方法を試しました。直接的な方法としては母に仏法を話して聞かせたり、気づきのある呼吸法を教えたり、またはタイにあるプラムヴィレッジの分院を訪れる機会を作ったりしました。間接的な方法としては仏教関連の本を買ってきて、家のあちこちに置いては母が手に取る機会を増やしたりしました。また、車に一緒に乗るときには私が運転しながら仏法の講話や仏教の音楽を車内で流すこともありました。さらに私の出家の決断を支持してくれた親戚にお願いして、両親と話をしてもらったこともあります。なぜならば、両親はその親戚の話の方が私が話すよりも耳を傾けやすいと思ったからです。


6.5 両親に無理やり仏法(ダンマ)を押し付けるのをやめ自分自身の修行に専念することにした

 私は時々、仏教の本を読んで聞かせたり説法のCDをかけて母に聞かせたりしました。母は聞いてはいましたが、どうやらあまり興味を持っていない様子でした。後になって母は『どうしてこんなものを買ってきたの。どうしてもっと有益なことにお金を使わないの』と言ったのです。私はそれを聞き母がダンマに全く関心が無いことが分かったのでした。そしてまた、自分自身が良い手本を示していなかったのにもかかわらず、母にダンマを無理に押し付けていたことに気が付いたのです。私はダンマが苦しみから解放してくれると言っているにも関わらず、イライラしたり、怒ったりしていることを見せていたのです。それはまるで、スキンケア化粧品を売っている営業マンが、自分の顔はニキビだらけであるようなものです。もちろん誰も興味を持たないでしょう。また、自分が太ってお腹が出ているのに他の人に引き締まった腹筋を作る方法を教えようとするようなもので、誰も自分のところに学びには来ないでしょう。
 その後、私はもうダンマを母に無理に押し付けることは止め、自分自身の修行に集中しました。そして約2ヶ月後、母は私にこのように言ったのです。「出家には賛成できないけれど、止めはしませんよ」と。私はこれで十分だと思いフランスのプラムヴィレッジにて出家するためにビザを申請し始めることにしたのです。出家の儀式を受けるためには何ヶ月もかかりました。

6.6 自分自身と母への抜苦(カルナー)を理解を通じて育む

 フランスで出家の準備をしている間、全力でダンマの実践に取り組みました。それは、自分自身の苦しみを癒し変えていくため、また他の人が苦しみから解放される手助けをするため、そして、母との良くない関係を癒すことも目的の一つでした。私は母を理解するために物事を深く見る訓練をしました。たとえ今、母が私のことを理解していなくても構わない、しかし、その代わりに私は母を理解しようと努めたのです。私は母が抱えている苦しみを思い巡らしました。母が厳しい環境で育ってきた背景、高い学歴を持っているわけではなく、家族を養うために懸命に働き子供たちに高等教育を受けさせる為、耐え抜いてきたことです。その結果、母は自分が経験したような苦労しないように子どもたちが仕事をし、多くの収入を得ることを期待するのは当然のことでした。そうしたすべての経験が今の母の人格形成を作ったのです。私の母に対する不満は徐々に減り、次第に理解と共感へと変わっていったのでした。


6.7 私が変わったことで母も変わった

 出家の日が近づくと両親と姉がフランスのプラムビレッジまで私の出家式に参加する為に訪れてくれました。その時、私はもう母に対して苛立ちや不満を感じなくなっていることに気が付きました。食事をしている間、母は私の皿に料理を足して「もっとたくさん食べなさい」と言うのです。私自身は既に丁度良い量をよそっていたのですが。それは母が家にいるときによくやっていたことでした。以前ならそうされる度にとても苛立ってたのです。なぜなら私はもう大人なのに母は私を5歳の子どものように扱い続けていたからです。しかし今回は全く苛立ちを感じることなくむしろ母の愛情が見えるようになりました。以前は母の近くにいると母がいろいろと小言を言うのに耐えられずすぐにその場を離れていました。それが今では両親が私の出家式のために遠くから来てくれたことを心から嬉しく思うように変わっていったのです。母が相変わらずあれこれと小言を言ってもそれに苛立ちを感じることは無くなっていたのです。
 私は母が以前より幸せそうに見えるのを感じました。母は当時すでに80歳近かった父と冗談を言い合い「もし今すぐ一緒に出家したいなら、許してあげるわ」と言ったのです。母は「もし私が出家を選択することが幸せであるならばそれを喜ぶことができる」と言ってくれました。私の出家を受け入れてくれただけでなく、私と母との関係も癒されたのです。
 そして私が最も嬉しかったのは出家式が終わり両親と姉がタイに戻ってきて間もなくの事でした。タイに住んでいるもう一人の姉からメールが来たのです。その内容には「タイに帰国してから母が変わった、このことがとても不思議に感じた」と書いてあったのです。母は以前のようにイライラしたり文句を言ったりせずとても幸せそうだというのです。そのメールを読んで私はとても幸せな気持ちになりました。
 母は私が僧侶になることを受け入れてくれただけでなく、私との関係も良くなり、以前は私との関係に起因する苦しみもなくなり再び幸せを感じているのです。このすべての出来事は私が無理にダンマを押し付けることなく起こったことだったのです。それでも私は母にダンマを説くことはできないと感じています。なぜなら母の前で私は息子であり、母が私の教えを受け入れることは難しいからです。しかし、それももはや私が気にすることではありません。母がダンマをどのように実践するかは様々な要因に左右されます。時にはダンマを無理に押し付けることで、かえって母がダンマから離れ反発することもあるかもしれませんから。


6.8 実践する事で自分自身にダンマを染み渡らせる

 自分にとって母にダンマを届ける方法は自分自身を変える為、実践することでした。その変化が生じたとき、私は以前のように母の近くにいることが苦痛でなくなり、ありのままの母を受け入れることができるようになったのです。そして母もその変化を感じ取ることができたのです。私はこの変化が母を幸せにし最終的に私が僧侶になることを受け入れるよう変えてくれたのだと思っています。それは説明することからではなく自分自身の変化を通じて、母がその変化を感じ取ったからです。
 今ではたとえ母が実践できていなくても問題ではありません。なぜならば、まだ原因と条件が整っていないだけだからです。ただ母が幸せでいるのを見るだけで私は嬉しいのです。今では母と私の関係はとても良好で母は私が住む寺院にタンブン(喜捨)に来ることもあり私を訪ねてきてくれます。

6.9 修業に来たプラムヴィレッジの僧侶と外国人

 プラムヴィレッジには家族から出家を認めてもらえないベトナム人僧侶が沢山いました、僧侶になる為に家出してきた人もおりました。しかし時が経つにつれ、そんな僧侶達は自分自身を変えようと決意し修業に励むのでした。そして、家族を訪問する機会が訪れた時、その家族も彼らが善き方向に大きく変わったことに出会うのでした。最後は出家に反対していた家族が反対にお寺を支援する側へと変わっていき、何人もの両親たちが法の実践に興味を持っていったのでした。
 以前、プラムヴィレッジに滞在していた時、多くの西洋人修業者がその家族や友人達との関係が良くないという話を聞きました。しかし、法の実践をしていくにつれ少しづつ、自分自身が幸せになっていっていることに出くわす。そして、周囲との関係性も良くなっていくのです。ある人は修業者であること、ましてや仏教徒であることを明かさずに法の実践をする人もいます。隠しているわけではありませんが周囲に公表しているわけでもありません。普通に生活をしているのですが、ただ感覚を感じる事を意識しているのです。その理由の一つにおそらく自分自身が宗教団体の一員と見られたくないからかもしれません。しかしそれでも構いません、仏教徒であろうとなかろうと誰でもサティ(気づき)の訓練と法の実践を行うことができるのです。

7.日本の実践者の皆さん。まず自分自身の実践に集中しましょう

 
 日本の多くの在家者にとってご自身の家族や友人達は仏教実践への関心ということを理解されてはいないかもしれません。しかし、ここでもまず、私たちが法の実践を行うことに焦点を当てましょう。法の実践とは単に型のある瞑想をする事だけを指すのではありません。不快な言葉が聞こえてきたとき心が穏やかで冷静であればそれに反応する事はありません。これは良い状態ですね。さらに良い状態というものは私たちが相手を理解しようとし、相手に善きことを施してあげることです。法の実践は私たちをより高めてくれるものなのです。
 時に相手は私たちの事を理解してくれないかもしれません。私たちが手動瞑想をしている動きを見て奇妙に思うかもしれません。あるいは怪しいカルト宗教に入信してしまったと恐れているかもしれません。だからといって、わざわざ相手を不快にさせる必要はありません。私たちは型のある瞑想以外のやり方で訓練することもできます。つまり、普段の生活を普通に送るのです。しかし、生活の中でも感覚を感じ、サティを向けるのです。私たちが法の実践をしていると誰に知られることも無く気づきを高める訓練が出来るのです。

では、日本の実践者の皆様を心から応援しております。

がんばってくださいね 🙂

                                                             (以上です)

ここから先は

0字

¥ 100

応援やサポートをいただくたびに、これからも翻訳や執筆を続けていこう!と励まされています。