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【短編】シーラカンスの背骨

愛で世界を救えるらしい。馬鹿だよ、それでほんとうに世界が救われるなら、僕みたいな捻くれた人間なんてとっくにいなくなっている。骨になったら残りもしないのに、愛だの心だのが皆は好きだ。

で、そういうのは強がりで、結局あのひとに惚れちまって、だって、中途半端な優しさでひとを弄ぶような、美しいひとだったから、なんて、これもまた言い訳で。
あのひとは優しいんだ。とっても。他人の痛みを己の前でだけでも最小限にしようとして、結局己が痛い思いをしている。あんな、すべてを背負い込んでひっそりと傷付くのを優しさと言うなら、きっと、優しさなんて悪だ。それをわかっていないから、中途半端な優しさで他人を傷付けてしまうんだ。それでも、あのひとはとても綺麗。可哀想で、消えてしまいそうで、触れてはいけない聖域。

あのひとと水族館に行った。別にふたりで行ったわけじゃない、中学の修学旅行でーーほんとうは行かないでおこうと思っていたのに、あのひとがまた不器用に家に来て、楽しいよ、って言ったから。
あのひとは海が好きなんだって。不細工な顔をした深海魚が、好きなんだって。それなら僕のことだって、好きになってくれたかもしれない。

「先生ね」
あのひとはガラスにまつげが触れるくらい顔を近付けていた、というのは嘘で、それだけ顔をぴったりくっつけていたのは、あのひとの奥に立っていた見知らぬ子供だ。当のあのひとはガラスに触れようともしないで、ただ瞳だけで、目の前の魚との対話を真っ直ぐ試みていた。
「シーラカンスが一番好き」
「どうしてですか」
「どうして?そうね、空っぽで、よく似ていると思ったの」
館内は暗く、ガラスの中は薄ら明るい。剥製のシーラカンスは口を開けたまま、不気味な顔でこっちを見ていた。歯みたいなものと、舌みたいなものがあって、人間のパーツが無理矢理魚に取り込まれたようで、なんともグロテスクな。
「空っぽで似ている?なにに、ですか」
ガラス越しにあのひとと目を合わせた。あのひとはすぐそれに気付いて口角を上げる。
「私に」

夏だった。目を開ければもう見慣れたアパートの天井。夜だというのに汗が止まらず眠れない。熱を出したような数ヶ月、ひとりでは、いつ目が覚めていつ電気を点けようとも、誰にも咎められずに済む。時計は深夜三時だが、とうとう眠らずに部屋に沈んでいた。
あのひとは今どうしているのだろう。卒業アルバムの最後のページ、書いてくださいと言ったら、国語教師のくせに特徴もない当たり障りのないことを書かれてしまって、もうそれで絶えた。短命の恋。シーラカンスの剥製をはじめて見たあの水族館は、今住んでいるところからかなり遠くなってしまったし、剥製にすらしてやれなかった心が残ってしまっただけ。
僕は大学を休みがちになった。最初こそ張り切って作っていた食事も、今では茶碗一杯の白米をのそのそと口に運ぶので精一杯。家にいても何をするわけでもなく、ひたすら目を瞑って眠る努力をする。

「夢があるんです」
そう言ってみるとあのひとはゆっくりと目線を上げて僕の目を見る。それがどうにも恥ずかしくて、何度も目を逸らしたものだ。
「どんな夢?」
その唇から弾き出される言葉は透明で、秋の風のように寂しい声に攫われた。語尾に薄く笑みを含んで、あのひとは僕を見たままに問うーー僕は俯いて答えた。
「わかりません。でも、夢があるんです」
「良いことね」

夢は、叶わないから夢なのだ。ぼんやりと見るから夢なのだ。深海魚は地上を知ることはない、土竜は天空に住むことはない、僕はあのひとの恋人になることはない。僕はどうせ、あの時間を生き抜くためだけに、あのひとを好きでいたんだよ。生きるために利用していた。寄生していたと言ってもいい。だって仕方がなかったんだよ。あのひとが優しいから、僕のために僕の痛みを背負って、勝手に傷付いてくれるから、僕はあのひとを好きでいれば好きでいただけ、随分と楽に息ができた。死んでしまえばいい、死んでしまえば、愛も、憎悪も、悲哀も、骨になったときには残らない。ただ、みぞおちのあたり、潰れた空洞が残るだけ。気味が悪いや。僕が剥製になったら瞳を閉じてやってください、二度とあのひとの目を見ることがないように。

それでもう数ヶ月過ごしたある日、あのひとは死んだと聞いた。もう二年ほど前に自殺していたらしい。ずっと僕はあのひとの夢を見ていたというのに、彼女は遺書の隅に「シーラカンスの背骨になりたい」と書き殴って死んだって。なんだよ、シーラカンスの背骨って。実現すればじゅうぶんマニアックな来世だ。
思い立ってサンダルを履いた。次に目を開ければ外が明るかったから。夏の音が耳を塞いだ午前、ふらふらと向かったのは近所の図書館だった。
今朝の夢はあのひとがあの深海魚と交尾をする夢だった。確かシーラカンスの交尾方法は未だ不明だから、とんだ嘘っぱちな夢だ。
あのひとがあの不細工な魚と似ているわけがない。あんなにずっしりとした見た目の魚の何が空っぽだったのか、それがどうしてあのひとと似ていたのか、僕はずっと気がかりでいた。

で、シーラカンスには背骨がなかった。代わりに脊柱というものがあって、中は体液で満たされているそうだ。生きたままそんなものを抱えて海を泳ぐ不細工な魚。想像してぞっとした。もしかすると、叶わない夢を見ることすら思いつかないような人生だったのかもしれない。その世界だけ見ていて、深海から脱することすら考えつかなかったのかもしれない。可哀想だ、と思ったらふとあのひとの顔が浮かんだ。ほんのり笑った顔、怒った顔、どれも彼女の表情は微々たる動きで、目がほんの少し細くなったりだとか、眉がほんの少し内側に寄ったりだとか、大きな違いはない。ただ、あのひとがあのガラスの前で拵えた表情だけは、僅かに生命いのちを知っていた。空洞のような瞳に真っ直ぐな眉。薄く開いた口。まつげの囁き。少々乾いた唇を擦って、シーラカンスと呟くあのひとの横顔を、僕ははっきりと覚えている。

図鑑を閉じたら泣いてしまいそうで、僕はシーラカンスのページを開いたまま、図書館の机に置き去りにした。口の中では何度も謝った。足早に図書館を出て、やっと息をした途端、咽せ返るような熱が体内にどっと入り込んでくる。夏だ。確かに夏だった。

僕はあのひとの何を知っている?誰を愛したかも、どんな音楽を聴いたかも、何ひとつ知らないで、それでも僕はあのひとを好きでいたかった。馬鹿だ、馬鹿だよ、死んだら全部消えてなくなって、「シーラカンスの背骨」みたいに、言葉として意味はあるのに何も指さないものになってしまう。骨になったらあの深海魚の脊柱すら、空洞なんだぞ。
泣いた。きっと視界がぼやけるとか、色が霞むとか、あのひとなら美しくなじるのだろうが、僕はなんせ不細工で、身長も低く、救いようのないほど可哀想な人間だ。涙が流れてゆく、この涙があのひとを想った故であるから、かろうじて泣いたと言えるほど、死にたいです、先生。僕はやっぱり貴女がいないとどうにも上手く息も吸えない。僕も遺書に同じことを願って死んだら、同じ来世を辿れますか。

夢があるんです。好きなひとと、来世でも出会うこと。来世はもう少し、他人に優しくされる程度に目障りじゃない顔面で生まれて、死にたいなんて思いつかないくらい、愛を知りたい。そうしたら今度こそ、僕は空洞にならぬよう心を拵えたい。
貴女が、好きでした。たった三年にも満たないあいだ、貴女を見ていた。今なら少しわかる気がします、僕が知る貴女は既に空っぽだったのだと。そうやって愛すらも放棄して、表情の乏しいまま僕を見ていた。夢も、愛も、心も、骨を自覚したあのひとの中には空洞でしかなかったのだ。それこそシーラカンスの背骨、いや脊柱のように。そして僕も今、同じ身体を抱えていること。

それでもきっと生きてしまう。僕はあのひとに代わる寄生先を見つけてしぶとく生きてしまうのだろう。空っぽをどうにかして可視化したい。僕があのひとを好きだったことを、空洞と片付けてしまうのは、それこそあいつの背骨となってしまうより、恐ろしいことのように思えたのだ。

あまりに可哀想で残酷だ、ひとはそれを愛と呼ぶなんて。

宜しければ。