【小説】天使が泣いた日
“スマホにも人間にも充電が必要だ”
そんな親友の言葉を思い出した。学校を休んだ罪悪感と、生きることに飽きた倦怠感が喧嘩して、わたしはなす術もなくだらりとベッドに沈んでいる。
自傷をしようと思ったら、カッターは昨日全校で行った廃品回収で、ダンボールを切る係にあたった親友に貸していた。
悔しいからハサミを探したが、100均の携帯用のハサミは肉を切るのに適してはいないようで、皮膚に線がついただけだった。
そのうちに馬鹿らしくなってやめた。
とまあ、こんな具合にわたしは、死にたいと言い続けて生きてしまっている人間だ。留年にならないギリギリのところで学校を休んだりしていた、高校生の時から変わらない。
「何それ?日記?」
「あ、うん。荷物に紛れててさ」
母に支配された家から出たい一心で東京の芸術系の大学を受け、見事合格したわたし。同じ学校に受かった例の親友と一緒に住むことになった。
「日記かぁ。私、書いたことねぇな」
親友は、中学の頃から変わらない少し乱暴な言葉遣いで笑った。
「なんで?」
「なんでって…続かねぇもん」
「わたしだって続かないよ。病んだときに気持ちの整理の為に書いてたの」
「へぇー、良さそうな方法だね」
「でしょう?高校のとき、ミナトが教えてくれたんだよ」
「私が?覚えてねぇや」
親友は少し寂しそうに笑う。目元がくしゃっとなって可愛いからわたしは好きだけれど、もっと満面の笑みを見てみたいとも思う。
「とりあえず、必要最低限の物から片付けないか?そしたら上京祝いでパフェ食べようぜ」
親友もわたしもマイペースな性格だ。だらだらと無駄なことをして、ゆるく生きられること以外に幸せを知らない。
いいねえ、パフェ。行きたいな。
口には出さず、親友の代わりに満面の笑みを浮かべておいた。
わたしは音楽学部で親友は美術学部。講義が始まる時間は違っても、同じ家に住んでいる以上同じ時間に家を出ている。帰宅は大体わたしのほうが早い。夕飯の買い物をして帰ってもわたしのほうが早い。何故親友はそんなに遅いのかと聞くと、課題の絵を少しずつ進めているかららしい。
その日もわたしは夕飯の買い物をして帰宅し、親友の好きなオムライスを作ろうと張り切っていた。手を洗って、冷蔵庫を開けようとしたとき、玄関で物音がした。
「ただいま…」
細い声が聞こえてくる。何かを察したわたしはわざと明るい声で
「おかえりー!」
と玄関に走った。
親友は酷い顔だった。顔だけではない。全身が酷かった。服はクタクタになるまで絞って使われた雑巾みたいで、1番下がひとつのブロックだけになったジェンガみたいに、その身体を弾いたら情けなく崩れそうだった。
「なんかあった…の…?」
言葉に詰まってしまったのは、自分が聞いてもいいのかと迷ってしまったからである。聞かないほうが良いのではないか。何もなかったように今日はオムライスだよと告げたほうが良かったのかもしれない。
親友の顔が歪んだ。泣かせてしまうだろうかと身構えたが、親友は思い切り口角を上げて、満面の笑みを“作った”。
「聞いてくれるー?教授がさー、私には才能が無いってー。毎回似たような絵ばっかで飽きるってー。私には絵しか無かったのにさー、それさえこんなこと言われてほんと私クズだよねって思ってー…」
「ねぇ、」
堪らなくなって親友の言葉を遮った。
どうして?
どうしてそんなにヘラヘラ笑ってられるの?どうしてそんなに軽々しくクズとか言えるの?泣かないなら、泣けないなら。わたしが代わりに泣くから、笑うなら全力で笑っていてほしい。目元は悲しそうなまま、口元だけで取り繕ったようにしないで。
「なんで笑ってんの」
「え?」
「なんで笑ってんだよって!なんでわたしの前でまでそんな作り笑いなんだって言ってんの!」
「…急に、なに?」
「急にじゃないよ。中学の頃からずっと思ってた。なんでそんな悲しそうな目で笑うんだろうって」
「…お前に何がわかんの?」
「わかんないよ!だってミナトとわたしは別の人間だもん!でもわたしでもわかるのは、ミナトはクズなんかじゃないってこと!わたしの大事な…大事な…」
「なんでお前が泣いてんだよ」
気まずそうな声が頭上で聞こえた。最後まで言い切るつもりだったのに、涙が奪ってしまった。親友は相変わらずどこまでも優しくて、泣き出したわたしを抱きしめてくれる。
「ミナ…」「酷いよなぁ」
わたしが名前を呼ぶより先に、ミナトが呟いた。抱きしめられているので顔は見えないが、きっとまだ少し笑っているんだろう。
「私だけが傷付いてりゃいいのに、親友のこと泣かせてさ。私に才能がないなんて今更わかりきったことなのに、お前には関係ないのに、ほんと私って、どこまでクズなんだろう」
「ミナト…?」
「でもさ、私、クズすぎて、お前に怒鳴られてちょっと安心した。私も泣いていいんだって、思っ…」
ミナトの声がぷつんと途切れて、わたしを抱きしめていた腕の力が緩んだ。なんとなく顔を上げてはいけない気がして、わたしはミナトに支えられているふりをした。
首筋に液体が落ちた。
親友の震える肩と途切れた声から、きっとそれは涙なんだろうと思った。
「私のことでお前を泣かせたくなかったんだ。だってお前は私にとって天使みたいな存在だから、大切に扱いたかった。でも、なんでだろうな、お前が私のことで泣くとさ、ちょっと楽になるんだよ」
オムライスを食べ終えてから、恥ずかしそうに俯いて親友は言う。
「悲しさは2人で背負ったほうが、痛みが半分になっていいでしょ?」
「…それも、そうだねえ。ありがとう」
親友はわたしにとって天使みたいな存在だ。親友はやっと、天使に相応しい、綺麗な満面の笑みを浮かべた。
「何それ?日記?」
「あ、うん、片付けてたら見つけてさ」
「日記かぁ、毎日続いた試しがないなぁ」
「私も続かねぇよ。だけど、嬉しかったことだけは忘れたくなくて書いてんの」
「へぇ、良いね。でもいつまでも読んでばっかいないで、大掃除進めてよね!」
「はいはい、わかってるよ」
ミナトが開きっぱなしにした、水色の付箋が貼られた頁には、「私の天使が泣いた日」と隅に小さく書かれていた。