【短編】海の欠伸
世の中のすべてを知った気でいた。勿論そんなことはなくて、それを知っていながら、すべてを知った気でいた。
だって、誰かが定義した青春はワンパターンで、どれも一言で片付けてしまえるような、冷たい心の奥底に沈めて、何重にも鎖をかけて永遠に見ることもない、そんなもの。二番煎じの人生を歩んで、捨ててきた感情の名前も知らず、罵詈雑言を言い合って死ぬ。どうせ、そんな世界だろ。
「いつまで斜に構えて生きていくつもりなの」
そうからかった君に私は言うんだ。
「死ぬまでさ」
私が太宰治を読んじゃう女だって君は知っているからきっとよく分かってくれるけれど、この火は君がつけていったんだ、君が消しておくれ。笑ったつもりの表情筋に上手く力が入らなくて、視界が揺れていくのに成す術もなくただ瞼を閉じた。冬の海辺はとても寒くて、一人では野垂れ死にそうだったのに。
君は問う。
「ねえ、本当にすべてを終わりにするつもりなの」
君と私は恋仲だった。どこまでも、といってもたかが十七歳だった分際で随分と小生意気だが、どこまでも共に生きていけると信じていた。落ちた先が実は地獄であったって、君となら生きていけると本気で思っていた。皮が年相応の見た目をしていたって、世界で一番熱烈に愛し合っている。それが私たちの見ていた世界。そんな世界、呆気なく壊れたのに、何を必死に愛だなんて唱えていたんだろう。
君と出かけるのはたいてい海だった。二人とも海が好きだったから。ただ眺めては、別に相手がいなくてもいいような独り言みたいなことを喋って、たまに泣いて、たまに言い争いをした。君のことはいつも君と呼んだから名前をもう思い出せなくなった。インターネット上で出会った高校二年生。実は私のほうが先輩。留年しちまったからだ。過去形の恋の馴れ初め話なんて流石に変だね。
「青春を可視化できたらこんな感じなのかな」
いつだったか、そう呟く私に君は吐き捨てた。
「ラヴ・ストーリーなんて誰にでも作れるだろ」
うちの脱衣所にあるストーブはトースターにありがちな、突っ張り棒の中をくり抜いて蛍を入れたみたいな蛍光灯に似たものが二本横たわっていて、二本同時に熱を帯びる設定と、一本だけの設定があった。それがいつの頃からか、二本は点くのに一本ではだめみたいな、一心同体であるかのような振る舞いを始め、それを見ていると君を思い出した。君の愛はそいつによく似ていて、好きか嫌いか、の中間地点でふと灯りを灯すのをやめちまうのだ。
君は嫌いなひとのSNSは容赦なくブロックするタイプで、好きなひとのSNSは通知をつけて毎回毎回いいねを押すタイプだ。何もされないまま放置されている状態が一番怖くてーーだって、好きの反対は無関心って言うじゃないーー私もどうすればよいか分からず、境界線が無に等しくなるまで君を想った。それを愛と定義していたのはあまりに未熟だっただろうに。
君には「私の言動でなにか嫌なことがあったら教えてね」と言っていたのに、君は私が何度死のうとしても、何度泣き喚いても、何度元恋人の話をしても、何も言わなかった。それだけに私が君の嫌なところばかり見ているみたいで嫌になったものだ。君が唯一私に怒ったのは、自身の勉学や趣味のための時間が私によって奪われたときだった。自身の時間を大切にしたいから連絡してくるなと、私からすれば拷問のような言いつけをされ、それがバウンダリーの引き方として正しいことは頭で分かっていたものの、寂しくて、私はできるだけ君と話す口実を作るために沢山死にたがりをやった。自分が正常でないことくらい痛いほど分かっていたさ、だけどそれを認めちまえば、君との関係はきっとぷつりと切れてしまう。
「死にたくなったら僕に声をかけてよ。独りになんてしないからさ」
君はそう言っていたんだよ。本気で死ぬと決めたなら必ず追いかけるからって、君も私も意気地なしのくせに、いくらでも死ぬときの話をして笑った。馬鹿みたいな時間だ。馬鹿みたいな時間だった。現状は何も変わらない、ずっと苦しむかもしれない、それから目を逸らしているだけで、それでも君がいたからよかった。いつ死ぬかも分からないような崖っぷちの人生で、かろうじて君が私と手を繋いでくれた。
だからやっぱり間違いだったんだよ。君には手を出さず、聖域を守るように、ずっと、友人同士でいればよかったんだ。懺悔。君は私の唯一の理解者で、誰がどう見ても、永遠に共犯者だ。
ラヴ・ストーリーなんて。
転校したら友人に恵まれた。自分の寿命が見えるみたいに、青春を切り取ることに必死な女の子たち。私たちは消費される側で、消費する側だ。言葉も碌に知らないままで私は五人と海辺を歩いている。
「じゃあ、階段にスマホ置いて撮ろうよ」
「みんなで向こうまで走って行こう」
五人の指示に従って、私は全力で青春の欠片になる。
ちくしょう、君と来た海だ。常連だった。定位置があった。この道沿いに生えた木の向こうから四番目。君とどんな終わり方をしたか、私は今後一切誰にも話すつもりはない。自分でもぼんやりとしか思い出せないから。
海辺の風は冷たくて君に触れる理由になっていた。そこまで体温が高いわけではない君、心まで冷え切ったような温度の愛。この道から見下ろせる砂浜に、まだ君と描いた相合傘が残っている気がしてしまう。
「ねえ、今すごく、青春って感じじゃない?」
彼女は束ねた髪がいつも綺麗な女の子。私の一歩を軽々と超えていく女の子。
「よく分からない、でも、生きてる感じがする」
そう口にした言葉を刹那的幸福で上書きしていく。ここに存在していることに対する罪悪感が拭えない。どれだけ走ってもみんなに追いつくことはなくて、ただ、今と今の間に一瞬の隙間ができて、誰かが欠伸をしたとき、私の瞳の端の色が変わってしまう。こんなぐちゃぐちゃになった汚い人間を隠し味に、みんなの青春と呼ばれたものはたらい回しにされるんだ。
生きていた。君といたとき私は確かに生きていて、少々淀んだ空気を息として扱った。その空気に慣れてしまって、今ここで息をするのが苦しいくらいだ。ほら、私はまだ過去ばかり見ている。反吐が出るようなふざけた言葉遊び。馬鹿みたいな言葉を吐いて、それをずっとぺちゃぺちゃやっている。そんな私のお遊びに付き合ってくれたのは君しかいなかった。本当はただ、君といる理由はそれだけだったのかもしれない。
小さい頃ごっこ遊びで、よく次の台詞を指定しては怒られていた。私が好きと言うから、あなたは馬鹿みたいと言ってね、そんな感じで。そんな私を誰もが奇妙だと呼んで遠ざけたのに、君は私の心が読めるのかと疑うほどに私の欲しい言葉を分かってくれていた。だから自惚れたんだ。私は誰かを愛してもいい人間なのかもしれないと。
「もう数日したら卒業なんて信じられないね」
一段と明るい性格の女の子が言う。今日は髪を巻いている。それに同調しつつ、ふと口が滑った。
「青春を可視化できたらこんな感じなのかな」
それはかつて君に投げた疑問だ。答えが返ってくるとは思っていなかったが、君はしっかり答えてくれた。
友人らの顔を盗み見る。宙に漂ったままの言葉にじんわりと恐怖が滲み、ぱちんと潰したくなったとき、誰かがあっけらかんと言った。
「そうだと思う!みんなでいると楽しいよね!」
それが、君の言葉より、かちりと嵌ってしまったんだ。情けない。なんて単純で奥ゆかしさのない言葉だったろう。それでもそれが答えだ。私たちが弱音と定義したものさえ、実はただの逃避だったのだ。
君は死んだかい。私と心中を図った君は、結局どうなっちまったんだい、知らず終いだ。私は君がいなければ生きていけないと信じていたが、そんな現実これっぽっちもなかったさ。私はここに存在しているし、存在していてもよいのだと、分かってしまったから。
君が死んでないと良い。君は私と同じ死に損ないになって、私が知らなかった痛みを知ってくれ。一人であっても泣けないと嘆いた君だが、夜中に一滴は涙を流してくれ。私は君の鼓動を忘れないうちにこの海を目に焼き付ける。
「ラヴ・ストーリーなんて誰にでも作れるだろ」
君の答えはそうだった。それなら私じゃないひととすぐ幸せになれるだろう。そうであってほしい。君はいつだって、私の中の正解を当ててみせたからね。そして私もその答えを信じている。私がこれから書く他のひととのラヴ・ストーリーは、君とのそれよりはもっとずっと、幸せなんだろうけれども。
そしてきっと海はすべてを見ていた。その欠伸のあいだ。
ラヴ・ストーリーなんて。
対 : 海を崇拝
宜しければ。