心の中で差別に備えたらええねん
差別に関するあれやこれやでツイッタランドは今日も燃え盛っている。東京は涼しいのに、スマホの中は今日も灼熱なのだ。。。
炎上したときには、道徳の授業で模範解答をする優等生のような発言が並ぶ。もちろん一人一人がしっかり考えたうえで、140字以内で言いたいことをまとめているから、きっとその背景にはいろんな思いが巡っているのだろう。そこには敢えて言及せず、差別などに対する個人的見解を述べていくことにする。
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差別は根底を探ればその時々の社会の色が出てくる。昔の部落なども広く言えば社会の成り立ちから自然発生した差別問題だった。
ホームレスも広く言えば同じだ。学校教育で成績の格差が生まれるように、生活でも格差が生まれる。お金という軸で階層を定義したときに「一定の住環境が整えられない経済レベル」がホームレスに該当する。日雇いや缶拾いなどで生計を立て、いつかは住環境を手に入れ、上位階層に戻る人もいるだろう。
彼らがホームレスになるきっかけはどうあれ、過去には身なりが悪かったり素行が悪かったり、河川敷や高架下に段ボールで家を作り居座ったり、駅で寝たりする先輩ホームレスが多かった。結果として彼らへの印象を悪くし、親は子に「あっちは視ないで」とか「臭いにおいがするから移動しよう」とか言う。毛嫌いされる存在は社会の中では異端な存在だ。自然んと目立ち、嘲笑の的にされ、それがいつしか「こうはなりたくない/差別的な存在」としてみなされるようになっているだけの話だ。
社会にとって異端であることや、得体の知れない存在であることが、差別の根源にあると筆者は考えている。差別とは、自身が受け入れを拒絶する姿勢や意思表明によるものだ。
思うことは自由だし、発信することも自由だ。ただし共感同調した過激派がホームレスに火炎瓶を投げつけたりする、などの事案が起きてしまってはいけない。だからこそ、軽はずみで重い差別的な発言をすることは良くないものとして認識しておくべきなのである。
過激な行為をせず、一定の倫理観のある内輪だけの議論であれば別に何と言っても構わない。けれども、今回の炎上は不特定多数のたくさんの思想や環境を持つ人間に一方的に発信されてしまったことに問題があったのだろう。近いうちにホームレス襲撃事件などが起き「あの動画を観てやった」といった発言が出てしまっては、何もかもおしまいなんだ。
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一方で、自治体などによる行政活動/社会保障は上記の差別などとは一旦切り離した方がいい。どうとでも紐づけできるからな。
自治体はその地域に住む住民の生活を支える必要がある。道路は一定レベルに整備され、インフラは整い、ゴミなどがない綺麗な街を維持する必要がある。だからこそ住民には一定レベルの住居を持ち、健全に生活してもらいたいと第一に考えている。
そのための施策の一つが生活保護であり、ハローワークであったりするのだ。みすぼらしい、不潔な人間が街にあふれて住民が流出するよりは、彼らに資金援助をして生活レベルを守ってあげ、他の住民が流出するきっかけを作らない方が賢いやり方なのだ。
自治体の活動には差別的な思惑はない。すべて理にかなっていることだ。
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他方で、支援団体などは差別観に溢れている。どうしても「彼らのために良いことをやってあげよう」といった思惑がトップに来てしまうからだ。人間は面白い生き物で、善行に満ち溢れた行動は逆に毛嫌いしてしまう傾向にある。どうしても偽善者的な面が見えてしまうからだ。某長時間番組である24などもその最たる例だと思う。
その人たちを特別扱いする眼差しや行為が善悪で違うだけで、やっていることは差別となんら変わらないと思っている。
ここでいう善悪のレベルは以下くらい激しい違いとしておこう
彼らのために良いことをしよう ⇒ 火炎瓶を投げる
彼らのために良いことをしよう ⇒ 資金やモノで生活援助を行う
筆者は「差別をしないこと = 自分たちと同等の扱いをすること」になると思っている。申し訳ないが、こちらの方がたちが悪いと思っている。
だって差別をしないのだから、支援もしないし、他の人と同じようにやってくれといった圧力をかけられる世界になるわけだから、弱者にとっては厳しい世界になるのだ。
だから「差別をすべきか否か」に対しては「差別はした方がいい」と考えている。重要なのはそれ以降のアクションだ。残念ながら『これはやっちゃダメ』と言えるものが世の中にはたくさんあるし、そういう行動を取る浅はかな人間がいる。一方で、世の中は『こうした方がいいだろう』と思えることで溢れてきている。結果として弱者にやさしい、良い方向での差別が行われている世界ができているんじゃなかろうか。
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ちなみに筆者は差別的な認識をしたところで思考は完結し、以降何かアクションをするわけでもない。無害な差別とでも言おうかね。そういう感じでいる。
別にこれは善悪どちらとも言えないだろう。『思うこと自体が悪だ』と主張する人からすれば筆者は悪人になるからだ。
むしろ差別的な認識をした後は「自分がそうならないためにどうするか」とか「事業として何か利益につながる良い取り組みはないだろうか」なんてことを考えたりする。まぁ、考えるだけで何もしないが、せいぜい頭の体操程度になっているので、結果的には自分にとって善い行いをしているのだろう。