私が奪われる。ゼロになる。
失くした という感情で溢れている。
満たされていた何かが外に出ていって、代わりに空っぽで満たされている。
ちょっと鬱っぽいといえば、きっとそうなのだろう。
案の定、そういう時にはnoteを書きたくなってしまう。
気持ちの整理のためのnote。それもまた良し。
マイナスの感情で落ち込んでいるわけではない。
ただ単に消費した というのが正しいと思っている。
限りなく、今はゼロの状態に近しい。
自己犠牲と言えば大袈裟だけども、気遣いや気配りといったことに消費されがちな器の人は多いのではなかろうか。まさに自分はそういう人で、元気な時ほど当たり前によく動く。そしてよく止まる。ここ最近みたいに。
奪われるという表現は適切なのか。
人と人は与え合うと同時に奪い合うように出来ている。共感の与え合い。感情の奪い合い。時間やカネだけじゃない。内側にあるありとあらゆるものがその対象になっている。それはインターネットでも日常でも当たり前のことだろう?
反動はとてつもなく大きい。なんでか上手くしゃべれないし、頭が回らないしぼーっとする。考えることができなくなってしまう。感情の起伏が消えていくように、頭の中が静寂になるまで、何もできない。夏バテとは大きく異なる。
心の中では小さい僕がそっと泣いていた。理由もないのに。表で泣けないから、心の中で泣いているのだ。それは朝でも、夜中でも関係なく。そういう時だと思ったら心で泣いている。
際限なく感情豊かに生きることができたらどれだけ楽しいのだろうか?と羨むことがある。仕事の責任や家庭の責任が伴う男らしさと言われるものに、感情があっては弱みになりえる。だから不要だとは思っているものの、深くまで受け入れられたいとか、優しく包み込まれたいという願望は強く根付いている。孤独になれないのが人間だからこそ、そういう愛情のような何かを求めてしまうのだろう。
寝て起きて、飯を食べてまた寝て、という日常。
きっと、元気に戻ったら今日のような日常をまた羨むのだろう。それもまた、