映画『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』レビュー
【3DCGにはない物質のクオリアを感じられるか】
新宿バルト9で『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」を見る。『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』とか『コララインとボタンの魔女』を手がけたライカによるストップモーション・アニメーションだけれど、ここまでくると表情だとかしぐさだとかがスムースすぎてフル3DCGとどこが違うんだって感じになってる。
別にぎこちなさを残せという訳ではないけれど、表情を変えるために顔のパーツがはめかえられた際にできる線だとかを、コンピューター処理によって完全に消してしまっていると、あまりにシームレスにつながりすぎて、別に人形で表現する必要ないんじゃないかと思ったりしてしまったりするのだった。
とはいえ、すべてがフル3DCGになったときに感じるだろう欠落もたぶんあるだろうとは予想できる。人形たちが着ている服だとか、『ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒』の場合はミスター・リンク=スーザンの毛並みだとかが、やっぱり素材の質感めいたものを感じさせる。今のCG技術はそれすらさも再現できてしまうから恐ろしいんだけれど、隙間なく連なっていく変化を無理矢理に断ち切るのと、存在する隙間をつないで埋めるのとでは出てきた映像は同じでも、どこかに違いがあるものだ、きっと、たぶん、おそらくは。
あるいは、波にもまれる貨物船の中でのアクションだとかは、セットを傾け倒す中で動く配置されたものたちだとか、ころがる人形たちだとかから感じる重力めいたものがあって、CGとはどこか違うものを放っているのかもしれない。いずれ技術が進めばそれすらも描ききってそこに物質のクオリアめいたものすら再現可能になるのかもしれないけれど、それまでは、あるいはそれでも人は人形によるストップモーション・アニメーションにひとつの”感じ”を抱き続ける。そして抱き続けたい。
ストーリーについては、偉そうな冒険クラブに入りたいけど拒絶されてるライオネル・フロスト卿が手紙をもらってアメリカのワシントン州あたりに出かけていっては、そこでサスカッチ(ビッグフット)に出会うという展開。このビッグフットが知能を持っていて言葉を介してユーモアだってへっちゃらなすごいやつ。もはや人間かそれ以上の存在なのに、フロスト卿はどこかやっぱり人間に劣る存在が近づいているといった意識を持っている感じで、そこがどうにも引っかかる。
そうした場所から誤解を埋めて、理解を深めて同等になるんだというストーリーなのかもしれないけれど、初手ではやっぱり蛮族なり未開なりといった認識で臨まざるを得ないところに、過去からの先入観が刺激されてしまうのかもしれない。これでミスター・リンク=スーザンの声を担当しているのがアフリカ系の人だったら、何かのメタファーがそこに重なってしまっていろいろと、やっかいな気持ちになったかもしれない。声は白人らしいザック・ガリフィアナキスというコメディアンで俳優だったから、マイノリティへの偏見を今更埋める話ではないとは言えるかもしれない。
スーザンと呼ばれてうれしがっているサスカッチを、やっぱりフロスト卿がミスター・リンクと呼び続けるのも引っかかったところか。スーザンという女性名が誤解を招くし、相応しくないと思っているのかもしれないけれど、相手がそれをのぞむならかなえてあげるのが対等な付き合いというもの。そこに至れない態度を叱るでもなしに、放っておく点が厳しかった。だからこそフリーダムなアデリーナを入れて、バランスをとったんだろうなあ。
遠くはるばるヒマラヤまで着たのに、イエティはサスカッチを受け入れないのもちょっと辛い。どういう違いがそこにはあって受け入れられないのかが分からないと、似ても出自が違えば別の存在であり続けるんだという思想が定着してしまう。かといって違っているから罰を受けるのだというのも悲しい展開。どういう扱いが良かったんだろうと迷った。
ともあれ、それだけいろいろと考えさせられるテーマを持った作品でもあるということ。それを圧倒的なアニメーションの力でもって作り上げたライカはやっぱり凄い。ヒュー・ジャックマンとエマ・トンプソンは声優としても抜群にうまい。(タニグチリウイチ)