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田中敦子さんを悼む

【悲しいけれど声は残った。ネットにアクセスして田中敦子さんに会に行こう】

 声優の田中敦子さんが亡くなった。子息で声優の田中光さんが8月20日に報告。1年ほどの闘病を経てのことだが、世間にはまったく急の知らせで、61歳という若さともあいまって驚きの声があがっている。田中敦子さんとはどのような声優だったのか。

 やはり広く知られているのは、士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』のアニメーションで主人公の草薙素子を演じていたことだろう。1995年に押井守監督が劇場アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』で起用して以降、神山健治監督による『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』のシリーズや、荒牧伸司監督も加わったフル3DCGのアニメシリーズ『攻殻機動隊SAC_2045』のシリーズで草薙素子を演じて、いつも冷静でかつ強靱な意志を持った女性の声を聞かせてくれた。

 2023年11月23日に、劇場版としてまとめられた『攻殻機動隊SAC_2045 最後の人間』の舞台挨拶にも登壇し、バトー役の大塚明夫さんやトグサ役の山寺宏一さん、プリン役の潘めぐみさんに囲まれながら、ごくごく普通の様子で役に臨んだ時のエピソードを振り返っていた。そして最後に「攻殻機動隊はこの『最後の人間』で一旦結末を迎えるかもしれません。でもどうか忘れないで下さい。皆さんがネットにアクセする時、攻殻機動隊にアクセスする時、私たちはいつでも皆さんの側にいます。忘れないで下さい」と言って、これからの展開に期待を持たせてくれていた。

 それからわずか9ヶ月。その声はネットで配信されている数々の作品でしか聞けなくなってしまった。これほど悲しいことはない。これほど寂しいことはない。長く同じ役を演じ続けてきた声優が、加齢とともに声に変化が生じて役を続けられなくなり、後進に道を譲る例はいくらでもあるが、田中敦子さんの場合は1995年に『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』で草薙素子を演じた時から変化はなく、むしろ深みを増して複雑な「少佐」というキャラクターを演じるに相応しい存在となっていた。

 折しも2025年はこの『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の公開から30年を迎える。いろいろなイベントも企画されていただろう。あるいはこれから企画されていったかもしれない。それを言うなら続編となる『イノセンス』から今年はちょうど20周年に当たっている。合わせて振り返るような企画が展開され、田中敦子さんに草薙素子役として語ってもらう機会もあったかもしれないだけに、ファンが抱く残念な思いはとてつもなく大きいことだろう。

 唯一無二かといえば、『攻殻機動隊ARISE』で公安9課に入る前の草薙素子を坂本真綾が演じて、若くてエネルギッシュな声を聞かせてくれていた。それもそれでマッチはしていたが、より大人になって国家権力が絡み国際組織がうごめくような巨大な謀略に、サイボーグ化された強靱な肉体と、電脳を自在にハッキングする能力を駆使して挑む大人の女性捜査官という意味では、やはり田中敦子さんに分があった。

 サイエンスSARUで士郎正宗の原作を反映した『攻殻機動隊』のアニメ化が進められている中、どこかコミカルなところを持った原作版の草薙素子を田中敦子さんが果たして演じるのか、演じるとしたらどのような声になるのかといった興味もあったが、そうした可能性はこれで消えた。田中敦子さんが作った草薙素子というキャラクター像が引き継がれるかも含め、別の意味での注目が集まる。

 大人の女性というと例えば『機動戦士ガンダム』でマチルダ・アジャンを演じた戸田恵子さんだったり、『機動戦士Zガンダム』でハマーン・カーンを演じた榊原良子さんだったりといった声優が思い浮かぶ。押井守監督もOVAや劇場版を手がけた『機動警察パトレイバー』では、南雲しのぶを榊原良子が演じて強い女性像といったものを見せてくれていた。こうした先達ではなく、それまでほとんど主役らしい主役を演じていなかった田中敦子さんが、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』で草薙素子役に抜擢されたのは、その落ち着いて意思を感じさせる声質がその役に相応しいと思われたからだろう。

 以後、演じた役も『ジョジョの奇妙な冒険』のリサリサであったり、ゲームや劇場アニメに展開された『ベヨネッタ』シリーズのベヨネッタであったり、最初のTVアニメ『Fate/stay night』のキャスターであったり、劇場アニメ『WXIII 機動警察パトレイバー』の岬冴子であったりと、大人で過去にいろいろな事情を抱えた女性が多く、その都度強い説得力を持った演技を聴かせてくれた。ベヨネッタのように官能的なところも含んだ役を演じてみせることもあったが、全体としては知的で言葉に説得力が必要な役が多かった。言葉に重さがある声優だった。

 だからこそ『葬送のフリーレン』で、フリーレンの師匠のフランメという、人間として一生を送る中で強い意思を持って魔法を広め、フリーレンを育てるという重要な役割を担ったキャラクターを演じきることができたのだろう。他の誰なら可能だったかというより、田中敦子さんだったからこそ出せる雰囲気が漂っていた。これが続く第2期では途絶えてしまうのか。それともすでに収録済みなのか。気になるところだ。

 2024年に入っても、大張正己監督のカラーが炸裂した『勇気爆発バーンブレイバーン』の中でクーヌスという、それまでとは少しカラーの違った艶っぽさを持った役も聴かせてくれていた。まだまだ引き出しを持っている。それがこれからどれだけ繰り出されるかと言った期待も高まっていただけに、やはり残念で、そして悔しい思いを抱いているファンも、アニメ関係者も多いだろう。

 何よりご本人がまだまだこれから演じていたかったに違いない。それがかなわなくなった現在、できることは『攻殻機動隊』に、『ベヨネッタ』に、『ブレイバーン』に、ニコール・キッドマンやシャーリーズ・セロンを演じた洋画の吹き替えに触れてその声を、演技を、込められた熱を感じ取るしかない。田中敦子さんはいつもそこにいるのだという思いを抱きながら。

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