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「たらちねの」(元にした作品:北原白秋『月と胡桃』254頁 お母さま )

かあさまはよいかた
つきさまよ、みんなの。 
 
かあさまはひとりよ、
たつた世界せかいにひとりよ。
 
かあさまは木蓮もくれん
しろ氣高けだか木蓮もくれん
 
かあさまはやさしい、
霧雨きりあめのやうにやさしい。
 
かあさまはせつない、
乾草ほしぐさのやうにせつない。
 
かあさまはあつたかい、
こふのとりのやうにあつたかい。 
 
かあさまはうれしい、
國旗こくきのやうにうれしい。
 
かあさまはこひしい、
そらのやうにこひしい。 
 
かあさまはよいかた
ほんとうにいつもよいかた

童謡集『月と胡桃』北原白秋著 254〜256頁


「俺には母親など居ないよ。親は父さんだけだ」
 酒のグラスを掴みながら男が呟く。傍の友人が嗤う。
「しかし、親父の股から産まれるわけゃないだろう」
 男は淀んだ眼球で睨む。
「神様も独裁者も善人も極悪人も母親から産まれたかも知らんが、俺は空気から産まれたよ。母親は居ない」
 何かを察した友人は黙る。
(そんなら、母親の話題なんか出さなきゃいいのにな)
と心で愚痴る。仕事の話が同僚に子どもが生まれた話となり、祝い金をどうするという相談から母親の話になった。
「お前の家族観は知らないが、大久保の前でそんな話はするなよ」
「・・わかってるよ」
 男も気づいて表情を戻す。
「大久保はいい奴だ」
「ああ、いい奴だ」 
 
 梶田と佐貫と大久保は会社の同期だ。大久保は穏やかな人柄で男女ともに受けが良く、いち早く所帯を持ったのも大久保らしかった。
「俺の姉に聞いたんだが、お祝いなんて結局現金か商品券が一番ありがたいらしいぞ。相場は幾らかな。ネットででも調べるか」
 佐貫が具体案を出して問題は解決した。
 梶田は考え込んでいた。
「そうか・・・どんな女も、出産したら母になるんだな。しなければならない。うん、そうか」
 顔が明るくなった。
「そうだな、うん。決めた。俺は結婚しても子どもは作らない。父親にも母親にもならず、ずっと独立した大人同士でいよう」
「え?お前彼女いるのか?」
 佐貫は驚いた。いつもクールな梶田にそんな相手がいようとは。梶田はあっさり居ると答えた。
「なんだよ、相手がいないの俺だけかよ」
「言ってなかったっけか」
「聞いてねーわ。結婚とかすんのか」
「してもいいな」
 一年後、梶田は実際に結婚したが、肝心なことを失念していた。
 結婚相手に母親がいる場合、義理ではあるが自分にも「母親」が出来るということを。
 
「ねぇ。今度の母の日、私実家に行きたいんだけど」
 梶田の妻が言い出した。
 妻の実家は公共機関で行くには不便な場所で、妻は運転が出来ない。車を出して欲しいのだろうと梶田は察した。
「送るよ。迎えに行くから帰る時に連絡をくれ」
「え?あなた家にあがらないの?お母さんが、お昼を一緒にって言ってるのに」
「親子水入らずで過ごせよ。俺は近所でブラブラして時間潰すから」
「そ、そう・・・」
 妻も無理強いはしなかった。梶田が妻の「母親」を避けていることに、まだ妻は気づいていない。挨拶から結婚に至るまで数回顔を合わせたが、梶田の態度は礼儀正しかった。
 
 母の日、梶田に送られて妻は実家で過ごした。新婚の娘を相手に両親からは孫の話が出たが、妻は両親に対して
「あのね、私たち子どもが出来にくい体質で」
と嘘をついた。
「まあ、そう。ごめんなさい。これからはその話は無しにするわね」
「そうか。まあ、共働きでお金を貯めておくんだな。将来困らないように」
 妻の両親は気にしなかった。 
 
 夫婦生活は良好だった。妻は友人たちから出産の報告を聞く度に考えないでもなかったが、自分が子どもを持ちたいという気持ちよりも夫と穏やかに過ごしたいという気持ちが強かった。
 ところが、事態が変わった。妻の姉とその夫が事故で死んだのである。 
 まだ赤ん坊の子どもが一人残された。
 妻は迷った。出来れば姉の子どもを引き取りたい。だが夫は子どもを望まない人だ。反対するだろう。
 それでも話だけはしようと相談を持ち掛けた。 
「ダメよね。あなたは、子ども嫌いだし・・・」
「子ども・・・」
「うちが無理なら私の両親が引き取るって。でも年齢を考えたら私たちが後見をすることになるかも」
 梶田は一晩考えさせてくれと言った。
「ゆっくり考えたいから今日は一人にしてくれ。ワークスペースのソファで寝るから」
「うん、分かった」
 即答で断られなかったのが妻には意外だった。
 寝る前に夫が言った。
「子どもが嫌いなんじゃない。母親になった君に、僕が耐えられるかどうかなんだ」
 照明の陰で表情は見えなかった。
 
 翌朝。梶田は妻に
「その赤ん坊を見に行かないか」
と誘った。
「気持ちは固まらないけど、一度見てみたい」
「そう・・?無理しなくてもいいのよ」
「いいから行こう」 
 
 二人は妻の実家に赤ん坊を見に行った。
 そこで梶田は妻とその両親に話した。
 
「自分の母親は過保護な人でした。一人息子の俺を異常な程可愛がって。言動が行き過ぎて周りに迷惑を掛けることもありました。ただ俺は、そんな母しか知りませんでしたから、それが普通だと思っていました」
 小学生、中学生と成長が進むと母親の異常さに気付いたと言う。
 梶田の交友関係や持ち物、趣味にまで口を出した。
 厳しく躾けるのではなく、ねっとりと絡むような愛情だった。
「父は母を諌めてくれましたが、言葉が通じませんでした。俺は母親が怖くなりました。大学への進学で家を出たんですが、それ以来住まいを転々と変えて母親との縁を切りました。父が防波堤になってくれましたが、後から聞いたのですが、そのせいで母は父に暴力を振るったそうです。刃物を持ち出したことも数回あったと・・・離れている間に母は病気で亡くなりました。自分は、自分の中から母親の存在を消しました。最初からいなかった。あんな愛情いっぱいの恐ろしい化け物を母親というのなら、俺は母親なんていらないと思いました」
 ポツリと
「だから俺は。自分が親になるのも、自分が愛した女性が母親になるのも怖かった」
 三人とも黙って聞いていた。
 
「自分は、このように歪んだ母親像を持っています。それで子どもを作ることを拒んでいました。お二人に話しておかないのは卑怯だと考えて、話させてもらいました。聞き苦しい話ですみません」
 妻の父親が口を開いた。
「いや・・辛いことをよく話してくれた」
「ごめんなさい。わたしも知らなくて」
 謝る妻に、梶田も謝る。
「俺が言わなかったから。嫌われるかと思ったんだ。それで、その・・・」
 梶田は妻と、両親を見た。
「こんな俺でよかったら、その子の親にしてもらえないでしょうか」 
 肩に力を込めて言った。

「じ、自分なんかで不安でしょうが、俺がもし何か間違ったことをしたら、綾子、悪いけど俺を叱ってくれ。綾子さんには苦労を掛けるかも知れません。でも俺も勉強して、一生懸命、この子の立派な親になれるように努力します。もし良ければですが」
 三人は呆気に取られた。 
「あなた。無理しなくて、いいのよ」
 妻が労る。
「自信はない。けど、その・・本当に、子どもは嫌いじゃないんだ・・・」
 梶田は苦しそうに笑う。
 妻の母親が腰を上げた。
 
 皆が見守る中、妻の母親は梶田の横に座った。こんなに間近で見るのは初めてだと梶田は思った。母親は涙ぐんでいる。
(このひとは母親なのだ)
 当たり前のことを思った。
(大切な娘のうちの一人を亡くして悲しみに暮れるひとりの母親なのだ)
 老いた女性と赤ん坊の混ざり合った匂いがした。
 
「抱いてみる?」  
 
 赤ん坊が差し出される。
「こうね。下からしっかり抱いて、首の後ろを肘で支えて」
 柔らかな生き物。
「・・・不思議ね。わたし達も生まれた頃は、こんなだったのね」
 妻も覗き込む。梶田の目から涙が溢れた。
「明日も休みなら泊まって行かんかね」
 座卓の向こうから妻の父が言った。
「そうしなさい、布団はあるから。ね」
 妻の母も。 
 涙と共に何かが、胸の内から出ていく。
 梶田は今になって、母というものを想った。

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