「女優に会いに」(坂口安吾「恋をしに行く」の二次創作)
「どうぞ」
紅茶を差し出した手首はあまりに華奢で可憐だった。梶原が握れば親指と人差し指の輪に収まってしまうだろう。その手は彼女の膝の上に戻り、白百合の蕾のように慎ましく閉じた。
「ごめんなさいね。今日は付き人の方がお休みなの。その方が淹れる紅茶はとても美味しいのだけど。私で堪忍してね」
「とんでもない。名女優自ら紅茶を淹れて頂くなんて光栄です」
梶原の隣に居るプロデューサーは緊張した面持ちで頭を下げる。
「あらあら、大袈裟ねぇ」
彼女は鈴の音のように笑った。
「こちらの方は脚本家さんなのね。お名前は?」
「梶原と申します。まだ駆け出しですが」
プロデューサーが補うように
「梶原君は、年は若いんですが短編映画の脚本で賞も獲っている期待の新人なんです」
「まあ素敵。映画ねぇ・・・それでいらしたのね。でも駄目よ。私はもう、女優は引退しましたの」
プロデューサーと脚本家は顔を見合わせる。視線が慌ただしく作戦を練る。
「映画監督との略奪婚で引退した女優を引っ張り出せばそれだけで話題になるわね。でもね椎名さん、同じ女性としてご理解くださらないかしら。私、夫と今の生活を大事にしたいんです」
艶然と微笑むが瞳は揺るがない。プロデューサーは
「・・・失礼しました」
と絞り出すしかなかった。
元女優は子うさぎのように首を傾げる。
「ごめんなさい。気を悪くなさらないでね」
梶原は慌てて
「椎名さんは、経験の浅い僕を引き立てようとして下さったんです。僕のせいですよ。作品にお迎えしたかったのは勿論ですが、伝説の女優さんに会いたいって、無理を言って連れて来てもらったんです。貴女の穏やかな暮らしを乱すつもりはありませんでした。お詫びします」
「いいのよ。引退してからもお声が掛かるなんて、本当は有難いことだわ。でも主人はとってもやきもち焼きで」
部屋を見渡し
「私をこの家に閉じ込めて、勝手に外出もさせないしお友達を呼んでもいけないの。自分は撮影で家を空けっ放しなのにね」
ふふっと笑った。
「お二人の訪問が許されたのはきっと、同じ業界の方だからね。お仕事はお受け出来ないけど、良かったらもう少しお喋りに付き合って下さらない?」
椎名は微妙な表情になったが梶原の方が
「いいんですか?僕一度、貴女みたいな女優さんとお話ししてみたかったんです。ご覧の通り野暮ったくて、女の人の前に出ると緊張しちゃって。あ、お茶いただきます」
梶原はテーブルの上に手を伸ばすとひと息に紅茶をあおった。喉が渇いた小学生が麦茶を飲むような勢いに相手が笑った。
「まあ可愛い。梶原さんひとつ教えてあげる。ティーカップの持ち手はね、指を入れちゃいけないのよ。そっと持ち手を摘むように。こう・・」
ひらりとティーカップを摘む。
「あなたも、こうして、めしあがれ」
彼女は花のように微笑んだ。
部屋は植物が絡み合う落ち着いた色調の壁紙に囲われている。壁には銀の縁取りの鏡が掛かる。家具は西洋骨董で揃えられ、元女優は刺繍が施されたクッションに背を預けて微笑んでいる。紅茶と焼き菓子だけのテーブルが彼女の前では宮廷の晩餐会のようだ。椎名と梶原は現実と離れたひと時を過ごした。
「貴女の初舞台を録画で見ました。あんな長台詞を覚えられる子役がいたんだとびっくりして」
「まだ言えるわよ。『ああお母様・・』」
彼女は瞬時に五歳の子どもに還って十数分の長台詞を述べる。
「あの原作は英文学でね。脚本はGさんって若い方だったわ。梶原さんあなたお幾つ」
「二十七です」
「まあ一緒。Gさんはとってもハンサムでね。私の初恋だったの」
「五歳でですか?」
「そうよ。私、舞台でも映画でもきっと誰かに恋したの。あらいけない、主人に聞かれたら・・留守で良かったわ。内緒ね」
「監督との出会いもお仕事で」
「そう。それで私と他の男性のラブシーンを撮っていたのだから可笑しいわね」
「失礼ながら、どちらの方から口説いたんですか」
「そりゃあ主人から。私、全然意識してなかったの。でも向こうが熱心で・・奥様には申し訳ない事をしたわ。ご存知でしょう三人の修羅場。映画よりよっぽど評判になってしまって」
「それで引退を」
「ええ」
元女優は梶原を相手に話し続ける。目の前の若い賛美者を魅了するかのように手をしならせ足を組み替える。
椎名は二人の会話を芝居のひと幕のように眺めていた。
「梶原さん、貴方恋人はいらっしゃるの?」
彼女が身を乗り出す。
「ねぇ。体の相性と心の相性、どっちが大事かしら」
「え、いやぁ、どうですかね」
「長く続くのはやっぱり心かしら。体の方が幾ら良くても、相手を嫌いになったらお終いよね。男の人はどうかしら」
梶原はどう答えたものか、何処かに正解が書いていやしないかと視線を泳がせる。やがて首を捻りつつ
「人間が心と体に分離出来ない訳ですから、その議論に正解は無いんじゃないですか」
と答えた。
元女優は梶原をじっと見た。
「真面目な方ねぇ。貴方、恋はなさらないの?無我夢中で誰かを追ったり、求めたり、焦がれたり、傷ついたり、今までにそういうご経験はなかったの?」
「いやあ、僕はこういう冴えない男なんで」
「あら、とっても素敵よ。自分で気づかないのね」
元女優は慈しむような目で梶原を見た。
「梶原さん・・・恋はなさいね。したくない人もいるけれど、もし人を好きになったら、見苦しくても無作法でも、恋はした方がいいわ」
彼女は口を閉ざした。沈みかけた陽が窓から差し込み、彼女の横顔を照らしている。その稜線はもう若くはない。
時計の打刻が物悲しく響いた。
椎名が時計を見て
「こんな時間までお邪魔してしまって。私たち、そろそろ失礼します」
と腰を上げた。
二人が部屋を出ると隣のドアからも人が出て来た。三人は別室に入った。室内には資料が詰まった本棚と事務机と来客用のソファが置いてある。部屋の隅のコート掛けには白衣が掛かっていた。
「今日は面談を許可して下さって有り難うございました」
「患者も比較的安定してますからね。鏡越しに観察してましたが、何事も無くて良かった」
「ティーカップは合成樹脂で、添えてあるのもフォークの要らない焼き菓子でしたね」
「凶器になるものは避けました。しかし、ああしていると普通の大人しいお婆ちゃんでしょう。我々も時々忘れそうになりますよ。彼女がしたことを」
「当時の記事や報道は読みました」
「既婚の映画監督に一方的に想いを寄せて家に押し掛け、監督と妻と付き人を刺殺。子どもにも重傷を負わせました。心神喪失の診断が下されたのと、噂では彼女の係累には有力な政治家が居るとかで、刑にも服さず病院を転々としている訳です」
「女優ではなかったんですよね」
「そこが彼女の現実と非現実の曖昧な所ですよ。子役をしていたのは本当ですが、その後は鳴かず飛ばずだったようです」
「五歳の舞台が最初で最後。それなのに言葉遣いや仕草が往年の名女優といった雰囲気で」
「周囲がそう扱ってやれば機嫌がいいんですよ。話を合わせて下さって良かった」
「事前の資料が役に立ちました」
「映画の為に元殺人犯の取材をされているという事でしたが」
「ええ。大変興味深い対象でした」
「施設や名前が特定されないようにご配慮願います。では、お気をつけて」
梶原と医師は握手を交わした。椎名が喋ることはなかった。
「帰りは僕が運転しましょうか」
「そうね」
椎名は梶原に鍵を渡した。そのまま梶原を運転席に座らせ、車の外で煙草に火を点ける。
「一服させて。車に匂いがつくの嫌だから」
暫く黙って煙草を吸う。梶原が口を開いた。
「天性の犯罪者ってのは、一見天真爛漫に見えるものなんでしょうか」
椎名は答えない。
「それとも、狂気を装って全部演技だとしたら、まさに名女優ですね」
椎名は鼻先で笑った。
「大丈夫ですか」
「何」
「自分の両親を殺した犯人と対峙した訳ですから」
「意外と呆気なかったわ」
長く煙を吐く。
「会うまではね。掴みかかって押し倒して、床の上で組んず解れつの大乱闘を演じようかとも思ってたけど。どうせ貴方が羽交い締めにして止めるでしょ。だからやめたの」
「貴女の気が済むなら僕は止めませんでした」
「そう」
ポケットから携帯用灰皿を取り出して煙草を捩じ込んだ。助手席に乗り、行きましょうと梶原を促す。
暫くは無言のドライブが続いた。
「椎名さん。医者に名刺渡してたでしょう。事務所に問い合わせ来たらどうします?映画なんて作らないのに」
「番号一桁誤魔化しといた」
「うわっ。何処かの誰かに迷惑かかりますよ」
「大丈夫。確認したけど今は使われてない番号だった」
「抜け目無いなぁ」
「あっはっは」
日の暮れた山道を走る。
「椎名さん。僕は思うんですが」
椎名は黙っている。
「彼女は結局、幻想の恋に生きた人なんですよ。勝手に恋をして、破れて、辿り着いた所が狂った自分の心にしか無かった。その幻想を必死に守っている」
黙って目を閉じている。
「肉体とか心とか言ってましたけど、彼女はきっと現実の恋は知らない。恋が叶わない事を望んだから相手を殺したんです。永遠の片想いほど幸せなものはない。あの人の部屋にピアノがあったでしょう。きっとあの人は弾けませんよ。ピアノを奏でる自分を夢想して満足しているんです」
「続けて。なかなか面白いわ」
「幻想の皮を掴んでひん捲って、人殺しのクソババアって怒鳴りつけたい気もしたんですが」
椎名が笑った。
「あの皺くちゃの厚化粧の顔で少女みたいに泣かれたらメンドクサイと思ってやめました」
あっはっはっは・・・椎名は心底楽しそうに笑った。そのあと
「梶原君。私の代わりに悪態つかなくてもいいのよ」と、薄く笑った。
「貴方普段、そんな汚い言葉使わないもの。無理しないで。貴方は脚本家で役者じゃないんだから」
「無理って・・半分位は本気ですよ」
「有り難う」
梶原の気持ちが嬉しかった。感情の境界線のほんの少し内側に入って来る。椎名は鞄から紙の束を取り出した。
「無駄になっちゃったわね、折角書いてくれたのに」
「話に乗ってくれば読ませたんですけどね」
紙の束は梶原が書いた偽の脚本だった。男に付き纏い殺してしまう女が破滅する内容になっている。
「これ貰える?」
「どうぞ」
「・・・あの女が狂っててくれてよかったわ。正気に戻って謝られたりしたら、その方が殺したくなる」
梶原は何か言おうとして、やめた。
切れる頭脳と引き締まった体を持ち、競争の激しい業界を生き抜いてきた敏腕プロデューサー。椎名が二十五年前の悲劇の被害者と知る人は少ない。当時椎名は中学生、あの狂女は五十歳。分別を弁えた筈のその年齢で一家を襲った。
五歳で舞台を踏んだ後は平凡な一般人として暮らしていた筈だ。四十五年の日々の何処に凶行へ至る道があったのか。
「梶原君大丈夫?」
はっとした。
「黙り込んじゃったから。運転代わろうか」
「大丈夫です。窓を開けましょう。あつい」
車の窓を少し開けると、額に風が当たって心地良かった。
椎名は知らない。事件のもう一人の被害者、巻き込まれた付き人に息子が居た事を。
幼かった梶原は親戚に引き取られ、成人後に事件の事を知らされた。親戚に渡された遺品の中に母親の日記があった。母は元女優であった。
梶原の母親は女優としては芽が出ず、椎名の母親の付き人になった。日記には嫉妬や葛藤が綴られていた。目の前には女優と映画監督という華麗な夫婦が居る。一方自分はろくでもない男に引っ掛かり、捨てられ、ひとりで子を産んだ。椎名夫妻の支援が嬉しくも惨めだった。
母が何かを踏み外していたらあの狂女になったのだろうか。何かとは?
夫妻の娘の名は日記で知っていたので、仕事で出会った時すぐに分かった。勝手に抱いた連帯感が間接的に通じたのか、椎名は梶原に信頼を寄せるようになった。
梶原は母親の顔も覚えていない。恨みは後付けされたものだ。だから復讐心も半分持って来た。帰り際紅茶に仕込んだ薬をあの女は飲んだだろうか。
梶原は不意に椎名を抱きたいと思った。残っている筈の傷痕を見てみたい。その痕を見ながらこの人を抱きたい。
それが愛や恋でなくても一向に構わないと梶原は思った。
(了)