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「|背《せな》」(谷崎潤一郎「刺青」の二次創作)


「お客さん、無理を仰るねぇ」
 言葉は丁寧だが頭を下げているのは客の方で、ふんぞり返っているのは職人の方だ。職人はトンと煙管の灰を落とし
「いきなり来て訳の分からないご注文だ、人生を変えたいなんてね。彫り師の私に仰る事じゃあないでしょう」
「か、隠さないでくれ。聞いたんだ」
 身を起こした客は中年の会社員。
「あんたの刺青は願いを叶えるって。あんたに彫って貰えば、望み通りの自分になれるって」
 彫り師はフゥンと首を傾げ
「その望みってな何です」
「俺は小さな会社の係長だ。会社にこき使われ、家では女房に尻を叩かれ、そんな毎日にうんざりなんだ。もっと良い暮らしを・・例えば社長になって政治家と交友して、女優とも付き合えるような」
 彫り師の表情は聞いている途中でみるみる興味を失った。
「そんなのテメェでやんな」
 背を向けてしまう。曲がった背筋に年季と偏屈な性格が見える。
 会社員はため息をついた。
「自分で出来る位なら頼まないさ・・」
 放っておけば帰るかと思いきや、会社員はいつまでも愚痴を呟いて去ろうとしない。今度は彫り師の方がため息をついた。
「本当に人生を変えたいと、そう仰るんで?」
「そ、そうだ」
「言っとくがね」
 彫り師は振り向く。
「私ぁ客の注文なんざ聞きませんぜ。てめぇの彫りたい体にてめぇの彫りたい絵を彫る。それで相手の人生がどうなろうが知ったこっちゃない。この私の針はとびきり痛ぇし、彫る間は私の言いなりになってもらいます。そういうスミですがようござんすか」
「そ、それじゃやってくれるのか?」
「そりゃあ体を見て決める。ただし。人生を変えたきゃ、あんたの女房も連れて来な」
「へっ!?」
「あんたの暮らしを変えようってんだ。相方も見せて貰います」
「そ、そんな・・」
 会社員は戸惑い、また愚痴り始めた。
「女房に刺青ったって来てくれる訳が・・・あの、俺じゃあ駄目だからあんたから女房に説明を」
「テメェの女房だろうが!騙してでも何でも連れて来な、話はそれからだ!」
 刀で叩っ斬るような怒声が響く。
 会社員は飛び上がって逃げるように店を出て行った。

 数日後、会社員が妻を連れてきた。
「こんにちは。良いお仕事を紹介してくださるとのことで伺ったのですが」
 妻は得体の知れない店に連れてこられた割には落ち着いている。
 彫り師は二人に茶をすすめた。飲んだ二人は目の前が暗くなり気を失った。
 目を覚ました時には更に数日が経過していた。
「あんた方、ご夫婦でしょうがね。互いに互いの背中を見ちゃあいけませんよ。自分の背中を鏡で見てもいけない。あんた方に入れたスミは、人に見られたら効力を失う。ついでに、剥がしてくれったって剥がせませんよ。私のスミは骨身に食い込んでいる」
 彫り師は二人に言い含めてから解放した。

 家に戻った二人の様子は対照的だった。夫は
「な、何をされたんだろうな。痛みはあまり覚えてないが。麻酔が効いていたのかな・・・お、お前はどうだ?」
「別に。あなた、夕食どうする?」
「なんか食欲がないよ。ああ、会社どうしよう。無断欠勤になってるよなぁ。明日行くの怖いな」
「はいはい、私が電話して急病で入院してたって言うわ。それでいいんでしょ?」
「良かった。頼むよ・・」
 夫は自分に何をされたのかとビクビクしている。妻は平然としている。
 二人の人生は変わっていった。

 人生を変えたいと言っておきながら、夫の方は自分に変化を見出せなかった。以前より大胆に強引に行動しようと思っても一歩踏み出せない。
(良い人生に変えたいと要望は言ってあるんだ、その筈なんだ)
 背中を見たくても見られない。
(一体どんな刺青なんだ、どんな・・・)
 また
(女房の奴はなんで平気な顔をしてるんだ?あいつ本当は自分の刺青を見たんじゃないか。そこに俺よりも良い人生が描いてあって・・・いやそんな筈は無いか。見ると効力が無くなるんだ・・)
 夫は疑心暗鬼に囚われ続けた。

 数年後、妻は一人で彫り師の店を訪れた。
「こりゃあ奥さん。お元気そうで」
「奥さんじゃないわ。別れたの」
「へえ、そりゃあまた。ご主人が望んだように人生が変わりませんでしたか」
「変わったわよ。輸入雑貨の店を始めたの。まぁ一応社長ね。前より良い暮らしはしてるわ。ただし、変わったのは私」
「そうですかい」
「分かってたって顔ね」
 彫り師は笑った。
「はじめに会った時から、肝が座ったご婦人だ。あんな旦那にゃ勿体無いと思ってたんでね」
「私自分が気が強い自覚はあるの。だからああいう穏やかな人が丁度いいと思っていたわ。でも」
 すっと冷たい顔になる。
「自分の人生を変えたいからって、妻の裸を他人に見せて勝手に刺青なんか入れようって人と、添い遂げる義理があるかしら。それで吹っ切れたの」
「で、今日はどういった御用で」
「確かめたくて」
 元妻は椅子に掛けると優雅に足を組んだ。
「実は最近、偶然元夫に会ったの」
「ほう」
「でも何も変わってなかったわ。料金を払ったのは主人でしょ。どうして私の方の人生が好転したのかと気になったのよ。私の背中には何も彫られて無いのに」
 彫り師は愉快そうに笑った。
「見たんですかい、いい度胸してなさる。そう、彫っちゃいません。ついでに体も見ちゃいませんぜ。ご安心を」

 彫り師は笑いながら煙管を取り出した。
「奥さん。仏師ってな、仏さん彫ろうと思って彫るんじゃないそうです。木の中に居る仏さんを彫り出すんだそうで」
 煙草を詰めて火を点ける。
「私も一緒でね。人の願いを叶えようと思ってスミ彫るんじゃない。背中をジッと見てっとね、その人の本質みたいなもんが見えてくる。私ゃそれを彫る。本質が剥き出しになりゃあ人は変わるもんですよ。そこんとこご主人は誤解されてたねぇ」
 美味そうに煙を吐く。
「注文主でしたから、ご主人の背中はチャンと見ました。ところがあの人の背中はあの人しか見えない。よく居ますよ、自分で自分を変える度胸がないんです。変わりたいと言いながら今の自分に固執してるんです。彫ろったって彫りようがないんでね。ご主人の背中にも何も入っちゃいません」
 元妻はフフッと笑った。
「悪い人ねぇ。何もしないで主人から100万も取ったのね」
「相談料みたいなもんでさ」
 彫り師はぽつりと呟く。
「心底彫りたいような体ってな滅多に無いもんでねェ・・・」
 その後少し悪戯な目つきで
「奥さんは新しい人生を掴んだようだ。こんな事なら奥さんの体を拝んどきゃ良かったねェ」と笑う。

「見る?」
「エ?」
「彫って欲しい訳じゃないわ。面白いお話の御礼にご覧になる?」
「え、いやその、興味はあるが、いいんですかい」
「一度は見られたと思ってたんですもの。いいわ」

 元妻はスーツとブラウスをさらりと脱いだ。
 晒された背中を、彫り師は呻くような目つきで見る。
 節くれだった指が鷲の爪のように曲がり、汗が滲む。

「・・・奥さん・・・彫らせちゃ貰えませんかね。銭ならこっちが払いやす」
「え?そんなつもりないわよ」
 元妻はつと腕を伸ばしてブラウスを掴もうとする。
「ま、待ってくれ。だったらせめて、せめてもう少しだけ見せておくんなさい。後生だ・・・」
 彫り師の目に涙が滲む。
「ちっ・・・畜生・・・っ・・アンタだ。俺が生涯賭けて彫りたかったのはアンタの背だ。こいつが彫れねぇとは・・・・」
 今度は阿るように
「なぁ奥さん。何が見えるか教えやしょう。そしたらアンタも気が変わる筈だ」
「イヤよ。そんな事されたら気になって仕事にならないわ」

 彫り師は刺すような視線を背中に注ぐ。

 女の肌には豪華絢爛な世界地図が煌めいていた。

                          (了)


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