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コトバアソビ集「一人称の位置〜ワシとワタシとタのつく誰か〜」
儂は鷲之介。元町内会長の75歳。この町に住んで50年じゃ。性格はフレンドリーで親切。ゴミ捨て場が散らかっておれば率先して片付け、誰かが困っておれば手を差し伸べる。今日は良い天気じゃ。散歩に出るか。
「おや」
少し先を歩いておるのは近所の婆さん。婆さんと言っても70で儂より若い。40代の息子夫婦と、高校生の孫娘の三世代で同居をしておる。その婆さんが何やら大きな袋を抱えて歩いておるではないか。儂は親切に声を掛けた。
「山田さん、大層な荷物じゃな。貸しなさい持ってやろう」
「いえいえいいんですよ。見かけほど重くはありません。それに、行き先はすぐそこの角を曲がった所ですから」
「じゃあ角まで持とう。いやぁ、散歩のついでじゃから気にしなさんな」
ヒョイと受け取ると、確かにそれほど重くはない。しかしまぁ相手は婆さんとはいえレディーである。ジェントルメンとしては親切にすべきであろう。それが証拠に山田の婆さん、頬を赤く染めて儂をチラチラ見るではないか。
「あ、あの本当にもう結構で」
「うん、まぁまぁあと少し」
もしかして、儂と並んで歩くのさえ照れくさいのであろうか。山田の婆さんは後家である。生憎と儂の嫁はまだご存命でな、申し訳ない。
目的地の角に着くと、婆さんは何度も頭を下げて礼を言った。
うむ、今日も儂は親切をしたぞ。良い気分じゃ。
散歩を続けておると、なんと偶然にも山田さんとこの孫娘に会った。孫娘、儂を見てペコリと頭を下げる。イマドキの女子高生にしては良い子ではないか。
「ヤァヤァ、美衣子ちゃんじゃったかな。さっきあんたの婆さんに会ったぞい」
儂のフレンドリーは相手の年齢を問わぬ。よそ様の孫の名前もちゃんと覚えている。こういう声掛けが世の少年少女の非行を防ぐのじゃ。ニコニコと笑いかけ、適当に世間話をした。制服の校章は儂も知っておる進学校じゃ。そういえば山田の息子も頭が良かった。孫娘、恥ずかしがりは婆さんに似たのじゃろうか。話しておるうちに孫娘の顔もみるみる赤くなっていった。
「あ、あの、私もう帰るので」
「おお、そうかい。宿題がんばんなさいよ」
「・・・」
孫娘、小走りに駆けて立ち去った。若いもんはええのう。
儂の日常はざっとこんなもんじゃ。
どうかな、まさに好々爺といった感じであろう。
ところが、じゃ・・・この儂が、あんなトラブルに巻き込まれようとは。人とは見かけに寄らぬものじゃ。人とは、まさに山田ファミリーのことじゃ。
この散歩の数日後、山田の婆さんの息子が儂を訪ねてきた。
母親の荷物を持ってやったで、その礼じゃろうと思っておった。
「ヤァヤァ山田さんとこの。まぁ、どうぞ中へ」
「いえ。玄関先で結構です」
遠慮しておるのか中へ入ろうとせぬ。玄関の土間に突っ立ったまま話し始めた。その内容がどうにもうまく噛み合わぬ。
(はて・・・一体何を言っておるのか)
相手は少々興奮しておる。そういう時は、こちらまで興奮してはならん。儂はとにかく話を聞いた。
同じ時刻、山田家では。
山田の婆さんと息子の嫁と、孫娘と。女三人が肩を寄せていた。
「お義母さん、美衣子。もう一度話を聞かせてもらえますか」
まずは山田の婆さんが話し始めた。
「あの日ねぇ。ほら前日に洗濯機が壊れたでしょう。それで、洗い物を袋に入れて近所のコインランドリーまで歩いてたの」
「洗濯物はどうやって」
「まずはビニールに入れて。でももちろん、そのまま持ち歩くわけにいかないもの。大きな布のバッグに入れて、肩から掛けてね。でも、ごめんねぇ・・・もっとおばあちゃんが気をつけていれば」
孫の美衣子は俯いている。
息子の嫁は努めて冷静に状況を聞き出す。
「そこへ元町内会長のあの人が来たんですね」
「ええ、荷物を持ちましょうって。私は断ったんだよ?嫌じゃない、赤の他人に洗濯物を持たせるだなんて。でも無理やり取られたんだよ。ああ、ごめんねぇ美衣子ちゃん。お婆ちゃんが・・・」
「その時あのお爺さん、上から中身を見たんでしょうね。はぁ・・・」
息子の嫁は大きなため息をつく。
そこで美衣子がキッと顔を上げた。俯いていたが泣いていたわけではない。その顔は怒りに満ちていた。
「あ、あのお爺さん、私を見てニチャアっていやらしく笑って!こう言ったのよ。『あんな赤ちゃんがあっという間に大きうなって、ピンクのブラジャーなんかするようになったとはのぉ。年の経つのは早いわい』って!その後の視線がさ、なんか胸の方見てんの!!ムカついて鞄で殴ろうかと思った!!」
「よく我慢したね。向こうが悪くても、訴えられたら面倒だから」
婆さんは何度もため息をつく。
「あの人ねぇ。なんていうか・・・根っから悪い人ってわけでもないんだろうけどねぇ。昔っからああで・・でも、話しかけられたら無視する訳にも」
「お義母さん。でも一彦さんも言ってましたけど、一度は誰かが言ってやらなきゃ本人の為にもなりませんって。聞いた話ですけど、ゴミ捨て場のゴミが散らかっていた時に、中から溢れた生理用品を分別してたって話もあります。本人は親切のつもりなんですよ。多分ですけど、あのお爺さん本人の視点からすれば、美衣子に言ったことだってセクハラなんて思ってないんじゃないですか?」
「私の視点からすれば、言葉による痴漢って感じなんですけど!?」
美衣子はプンプン怒っている。実は爺さんの発言には尾鰭がついていた。爺さんは『近所の孫娘がすくすくと成長した微笑ましい話』を散歩の途中の商店街でベラベラと話し、八百屋や肉屋の主人にも聞かせた。そして近くのコロッケ屋で立ち食いをしていた美衣子の同級生男子も聞いてしまったのだ。幸いなことに男子はタチの悪い奴ではなく、美衣子のクラスメートの良い奴で、
「爺さんが変な話してたぞ」
と、美衣子にメッセージで教えてくれた。
「でも、コロッケ屋のおばちゃんが爺さんを叱ってくれたからな。周りにいた大人も聞かなかったことにするってさ。そこは安心しろよな」
なんと良い男子であろうか。実際クラスでも良い奴と評判で、それが故に何故だかカノジョは出来ない奴なのだが。
美衣子もそれを知って
(恥ずかしいし悲しいわ、シクシク)
と凹むタイプではなく、
「あんのセクハラクソ爺!」
と天に拳を突き上げるタイプ。戦え美衣子、強いぞ美衣子。
しかしまぁ真っ当な順序として保護者たる両親に報告し、今夜の顛末に至った次第。
倫理のベクトルの違う爺さんに、山田の息子の抗議が通じるといいが。
つまりは
<儂はフレンドリーで親切で、皆から慕われる元町内会長じゃ!>
と思っているのは本人だけ。
周囲からは
<極悪人でもないがちょっと困ったお節介ジジイ>
に過ぎない。
人の評価など視点次第。
爺さんの「儂」の位置から見るか、美衣子の「私」の位置から見るかという話である。
ちなみに、彼らと全く関係のない赤の他人である筆者から、ひと言付け加えておこう。
ピンクのブラジャーは山田の婆さんの一軍ブラである、と。