永遠の青春はどこへ?—推しがアラフォーになっていく恐怖と現実逃避の狭間で

推しや好きな人がアラフォーに差し掛かる。これ、まるで人生最大のサスペンスホラーじゃないか。どんなに可憐で、どんなに完璧な存在でも、時間の流れには逆らえない。まるでタイムマシンに乗り込んだつもりで振り返ると、彼女たちの輝かしい20代はもう遠い過去に。気づけば「アラフォー」というステージに立っている。その瞬間、頭に浮かぶのはただ一つ――終わり。まさに未曾有の恐怖。

ブラックユーモアを添えれば、こう言えるだろう。「青春は永遠だと思ってた? それは、俺たちが自分の推しを時間の流れから免除できると勝手に信じてただけさ」。いや、冷静に考えてみると、現実はシビアだ。若い頃のフレッシュな笑顔や、声に宿るエネルギー。それらが少しずつ変化していくのを、まるで古びていくお気に入りのアクションフィギュアを眺めるかのように見守るしかないのだ。

しかも、何が一番面白いって? 自分自身も同じように年を取っているんだ。推しがアラフォーに近づく恐怖を語りつつ、自分も同じステージに足を踏み入れている。これは一種の自己嫌悪にも似た感覚だ。まるで、お気に入りの映画が次々にリメイクされ、俳優たちも年を取っていくのを見ながら「この作品はもう昔の輝きじゃない」とぼやく観客のように。

でも、そこで皮肉の効いた現実を突きつけてくるのがまた痛い。「おい、アラフォーになったら何だって? お前はそれを超えていくんだぞ。推しが40歳なら、お前は50歳になるんだ。そろそろ現実を受け入れろ」。まるで寿命を迎えたアイドル文化が、ファンと共にゆっくりと衰退していく様を目の当たりにしているかのようだ。

それでも、俺たちは彼女たちが年を取らないと信じていたいんだ。だって、推しは永遠の存在で、彼女たちの笑顔や声は不滅だと心のどこかで思い込んでる。でも現実はそう甘くない。推しがアラフォーになれば、結婚のニュースが飛び交い、家庭や子供の話題が出始める。そしてその時、俺たちの頭にはこう響くだろう――「彼女の人生は彼女のものだよ」。まさにそれこそが最大の恐怖だ。

結局のところ、推しがアラフォーになる恐怖とは、俺たちが幻想にすがりついて生きてきた時間が終わる瞬間を目の当たりにする恐怖でもある訳だ。推しが成長し、成熟していくその姿を見ながら、俺たちは同じ道を歩んでいるんだと気づかされる。その事実に直面するとき、ブラックユーモアでも振りまいて笑い飛ばすしかないだろう。「なあ、40なんてただの数字だろ? でもその数字がどんどん増えていくと、俺たちも同じくらい古びていくんだぜ」。

推しがアラフォーになっていくことに恐怖を感じるのは、俺たち自身がその恐怖から逃れられない存在であることを知っているからだ。推しが年を重ねることで、自分も同じように歳を取っている現実を突きつけられる。その恐怖と直面するのは、ある意味で「俺たちの青春の終焉」を象徴している。

でもまあ、最終的にこう結論づけよう。推しが年を取っても、俺たちは推し続ける。それが真のファンってもんだろう? そして、ブラックジョークの締めはこうだ。「彼女がアラフォーなら、俺はただの永遠の中年だよ」。

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