几帳面は老化に負ける:途中から始める人生の妥協術

若い頃は何でも「最初から」が信条だった。計画を立て、順序を守り、完璧を目指す。それが几帳面な性格の誇りであり、生き方だった。だが、歳を取るにつれ気付いた。「最初からなんて、誰が保証してくれるんだ?」と。

途中から始めることに抵抗がなくなったのは、妥協でも成長でもなく、ただの疲れだ。全てを完璧に始めようとしても、世の中はそんな暇を与えてくれない。大河ドラマを1話から見ようと意気込んでいるうちに、話題は最終回で盛り上がり、気付けば「とりあえず今週の回から観ればいいか」となってしまう。それが現実だ。

さらに皮肉なことに、途中から始めても案外何とかなると分かった時点で、几帳面さという美徳はただの「無駄な拘り」に成り下がる。若い頃は「全てのページを読まなければ、本の真価は分からない」と思っていたが、今では「あとがきだけ読めば大体分かるだろ」と思えるようになった。この変化を「成長」と呼ぶべきか、それとも「堕落」と呼ぶべきかは分からない。

ただ一つ分かるのは、人生は必ずしも「最初から」始めなくても回るということだ。途中から始めることは、歳を取ることで得られる唯一の特権かもしれない。そして、この変化を楽しむ心の余裕が、几帳面な性格を少しずつ崩し、柔軟性という新しい武器を手に入れるのだ。まあ、要するに、最初から始めるのが面倒になっただけなんだけどね。

いいなと思ったら応援しよう!