優しさが損をする世界の特権階級
優しさや善良さを信条にする人間が割を食い、性格が腐った人間が幅を利かせる光景は、現代社会で珍しいものではありません。優しい人間は、その名の通り「譲る」ことを美徳とし、自己犠牲を伴う行動を厭わない。それ自体は崇高であり尊敬に値するものの、皮肉なことに、そうした人々の「譲り」を当然の権利として利用する輩が多いのも現実です。こうして優しさは、「搾取可能な資源」として解釈される構造が生まれる訳です。
もし、社会の仕組みが大きなゲームだとすれば、腐った性格の持ち主はチートコードを使っているようなもの。人の好意を悪用し、ルールを守らず、ズルをして勝ち続ける。そりゃあ、生きやすいでしょうよ。全ての障害を「他人に押し付ける」という特権を振りかざしているのだから。優しい人が「いい人すぎる」と言われる一方で、腐った奴らは「賢い」「現実的」と評価される――滑稽と言わずして何と言うべきでしょうか。
とはいえ、皮肉にも、性格が腐っている人間は「生きやすい」ことに成功しているだけで、「生きる価値のある人生」を歩んでいるかは疑問です。生きやすさのために魂を売り渡し、誰からも心の底から尊敬されない。彼らはまるで、毎日が黒歴史になる日記を黙々と書き続けるピエロのようなもの。彼らにとっての成功とは、誰かの善意の上に築かれた砂上の楼閣です。崩れる時は一瞬、という点だけは救いかもしれません。
結論として、性格が腐った奴らがのさばる社会には、ブラックユーモアを込めて一つアドバイスを贈りたい。「優しい人々を使い捨てるな、彼らがいなくなった時、君たちは誰に寄生するのだ?」とね。