愛と毒を語るインターネット礼法:失敗を見逃さない美学
好きな人の失敗には目を瞑るべきだ、なんて誰が言い出した?それがマナーだと?いやいや、それはただの建前だ。現実には、インターネットという場においては、そんな失敗が最高のエンターテインメントであり、情報源だ。人の失敗を愛でるというのは、人類の原始的な娯楽の一つだし、情報社会ではそれがタブロイド的な価値を持つわけだ。つまり、好きな人の失敗をわざわざ見逃すなんて、情報の宝を捨てるようなもんだ。
もちろん、「変な噂を流すくらいなら愛を語れ」という理屈には頷ける部分もある。だが、愛だけでは人間の欲求は満たされない。いや、むしろ愛という建前が、人々のダークな欲望を隠すためのベールに過ぎないことも多い。誰もが純粋な愛だけを語る聖人君子ではない。むしろ、好きな人の「ダークな部分」を覗き見たいという欲求――それこそが本音だ。完璧な人間なんていないし、完璧であろうとする姿は滑稽でさえある。
だからこそ、失敗を愛で、ダークな部分に目を向けることは、ある種の誠実さだ。人はクレイジーな生き物だし、そのクレイジーさを受け入れることが本当の愛なのだろう。ブラックユーモアを交えれば、こうも言える。「あなたの失敗が私の愛を深める――という名のネタ帳を埋めてくれる」。失敗も愛の一部になるというのは、皮肉にも人間の本質を突いている。
インターネットでは、愛と毒は共存する。愛だけでは退屈だし、毒だけでは荒れる。バランスが重要で、そこにこそ人間らしい美しさがある。好きな人の失敗を見逃さず、それをネタにしながらも愛を語る。この背徳的で滑稽な行為が、インターネット時代の新たな「マナー」なのかもしれない。
結局のところ、好きな人の失敗をどう扱うかは個々人の自由だ。だが、一つだけ言えるのは、誰もが持つこのクレイジーさを認めた先に、本当の愛がある。いや、もしかすると本当の面白さがあるのかもしれない。