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引きこもる時間はない 〜櫻の旅路を共に歩く〜

何かにどうしようもなく心が惹かれる理由を考えると、
「理屈じゃないんだ」という一言に集約される。
それでも言語化させてほしい。
これを読んで「ふざけんな」とか「それは違う」と思う人もいるだろう。
それは正しい。なぜならあなたと私は別の人間だから。
違うと感じるのは、正しい。
しかも、前に書いたものと重複している部分もあり、長い。
それでも読んでくれたら、それはそれで私は嬉しい。

私は2017年の秋、私はあるMVに出会った。
公開されて間もない欅坂46の「風に吹かれても」だった。

初見では何かを強く感じたわけではなかった。
けれど、先にこの曲にハマり、欅坂を追い始めた夫に
毎日MVを見せられ、毎日欅坂について語られるうちに、
気づいたら私の方が欅坂46に興味を持っていた。

まさか自分が女性アイドルグループに興味を持つなんて思いもしなかった。
戸惑いながらも、アイドルで括れない欅坂46の魅力に引き込まれていった。

コンプレックスの塊で、学校が嫌いで、人と関わるのが苦手だった私は、
社会に出てからそんな自分を必死に変えたり、隠したりして、
なんとなく社会に馴染んでいるような体裁をやっと保てるようになっていたが、
欅坂と出会う前、私は何年も間、人生に迷っていた。それは今もだが。
子どもを持つか持たないか。不妊治療を続けるか続けないか。
子どもを持つことで、苦しかったこども時代を追体験するのが
怖いという気持ちを持ちながらの不妊治療は、
大好きな仕事をセーブしてもなかなかうまく行かなかった。
そんな自分に罪悪感を常に感じていた。

アクセルとブレーキを同時に踏むような日々に疲弊していた私は、
激務で疲れ切っている夫に、不妊治療を辞めたいと言った。
そして、これからも楽しく生きていこうと二人で決めた。

そんな時に出会った欅坂46は不器用で、
アイドルなのに愛想の一つも言えなくて。
コンプレックスを隠せず、苦手なところをお互いに補い合っているように見える。
女の子集団で生まれる連帯と自然発生的に生じる役割分担。
それはどれも見覚えのあるものだった。
私は彼女たちを応援することで、思春期の追体験をしていたように思う。

こんなことを言うのは大変恐れ多いが、
不器用な彼女たちの姿を肯定することで、
私は思春期の不器用でダメダメだった自分さえ
愛おしく感じられるようになっていた。

私は、大人の私の中に住んでいた思春期の私は、
彼女たちによって癒され、救われたのだと思う。
一方で、いきなりブレイクした彼女たちは、
無数の言葉の刃や矢を受けて、誰もが
あちこちから血を流しているようにも見えた。

だから、グループの改名は驚きつつも、それが一番いい方法に思えた。
思春期はいつか終わる。
高校の制服を着て大学に通うことがないように、
自分に合わなくなった古い服を脱ぎ捨て、
新しい服を着ることで新たな自分に出会えるのだと思うから。

改名すると聞いても彼女たちを応援する気持ちはまったく変わらなかった。
「“思春期のその後”を見たい。見届けたい」と思った。
だから、私個人で言えば、櫻に欅坂の楽曲をやって欲しいとは思わなかった。
新たな一歩を踏み出した「繊細な思春期の僕」がどう変化し、
それをどう彼女たちやそのチームが表現するのか、そこにワクワクした。

むしろ、そこでワクワクさせられなければ、
グループが存続するのは難しいだろうと思った。
そして、彼女たちはそれをやってのけてくれた。

いつしか櫻坂のこの曲もあの曲も見たい、
でもライブには全部収まりきらない。
そう感じさせてくれるグループになっていた。

前置きがだいぶ長くなってしまって恐縮だが、
「引きこもる時間はない」を聞いて、久しぶりに欅の僕を思い出した。

スマホで「引きこもる時間はない」を聞いていたら、
次に自動再生されたのが、偶然にも欅坂46の「アンビバレント」だった。
「ずっと自分だけの世界に引きこもっていたいのに」
「一人になりたい なりたくない」という欅の僕は
まだ生きていたんだな、となぜか思った。

もしも欅が続いていたら、「引きこもっている時間はない」と
欅の僕に言うタイミングが来ていたのかもしれない。

けれど、思春期の僕は繊細な僕を受け止めるのに精一杯で、
だから秋元康さんはそんな僕を受け止めながら
櫻として「君自身が立ち上がるのを待ってた」のだろう。

ではなぜ今、「引きこもる時間はない」のか。
欅として活動した一期生、二期生は思春期のその後をしっかりと生きている。
思春期の出口を出たばかりの、もしくは出口に立っているような
三期生が入ってきたからこそ、力技で終わらせた「欅の繊細な僕」が
「自分で立ち上がる」ためのメッセージを紡ぐことができたのだろう。
これまで私たちファンに見えなかった、
欅の僕が櫻の僕あるいは私に至る空白部分がやっと埋められた。
そんな気がした。

その一方で、こんなことも思う。
一人の人間の中には、いろんな自分がいる。
子どもっぽい自分、妙に老成した自分、
おしゃべりな自分、人見知りの自分。そのどれも自分なのだ。

欅坂46のアンビバレントの振り付けは、
一人ひとりが臓器となり、一つの生き物を表現する構成になっていた。
櫻坂もまた、メンバー全員が櫻坂という一つの生き物を形作り、
楽曲の世界を作っている。
同時に、櫻坂という一つの生き物にも、いろんな「自分」がいる。
いろんな顔がある、という方がわかりやすいかもしれない。
思春期の繊細な僕や、殻を破ろうとする僕だけでなく、
恋のときめく私も、生きる喜びを肯定する自分もいる。
「思春期のその後」にこれほど豊かな世界が広がっていることは
大人になって久しい私でさえ、希望を感じる。
人は生きていく中で、さまざまな自分に出会う。
そして、さまざまな自分は、
外の世界や自分とは違う誰かとの出会いによって
出会えることが多い。
引きこもっている時間はないのだ。

けれど、この時代に自分の名前と顔を出して、
櫻坂のこの世界を表現するには、
気力、体力、技術以上に、意思や勇気など、
あらゆるものが求められるのではないか。

それでもそこに果敢に挑む女の子たちに、敬意を感じずにはいられない。
出会いと別れを繰り返し、
新たな「僕」や「私」を見つけ、
変化していく櫻坂46。
人生そのもののような櫻坂46の旅路を、
そこを歩くメンバー一人ひとりの「今」を、
これからも楽しみにしている。


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