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「かし和家」山岸嘉一さんっ! ~うらほろ『人』発信 3人目#1

 浦幌で三代にわたり愛された蕎麦屋「かし和家」が、今年の3月に惜しまれながら閉店し94年間の歴史に幕を下ろした。しかし、町の若者で、発信隊のメンバーでもある近江幹太さんが、お店の引き継ぎを志願したことで、近江さんの修行を兼ねて6月末から期間限定でお店を再開。そんな「かし和家」店主の山岸嘉一さんと、その伝統を受け継ぐことになった近江幹太さんにお忙しい中インタビューをさせて頂きました。
 今回は、「かし和家」店主である山岸さんのお店への思い、浦幌への思いを発信っ

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✳️浦幌町の蕎麦の名店「かし和家」は、その94年の歴史になぞらえ、94日間、10/12まで期間限定営業中‼️

ーー初めに「かし和家」の歴史について確認です。昭和2年帯広市内で祖父の嘉吉さんが創業したとのことですが

 帯広のゴールデン街っていうところで、爺さんが婆さんと一緒に始めた。それから縁があって浦幌に。ここは駅前だったから、昔はメインストリートだよね。そこで土地を貸してもらって蕎麦屋というか、飲み屋も兼ねて。たまたまうちのじいさんは、蕎麦をうっていたので蕎麦屋をやったと。まあ写真なんか見ると、看板には「寿司」だとか書いてあって、何でも屋さんだった。そういうような商売をやって、女の子もいて、ちょっと派手にやっていたようでした。爺さんが浦幌に来た頃はもう50過ぎてたんじゃないかな。爺さんには息子と娘がいたんだけど店を継ぐ人がいないもんだから、僕の母親は養女なんですよね、後継ぎをさせようと思って、婿に迎えたの死んだ父親だった。そういうのがあって、なんとか繋がって今の俺がある。

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ーー3代で94年営業、嘉一さんの代では50年やってきたということですね。

 俺は19歳の時から浦幌に帰ってきてるからそのぐらいになる。三条(帯広三条高校)を出て、東京に行ったんだけど、挫折して帰ってきた(笑)そして家に帰ってきてブラブラしてて。で、急に父が倒れたんですよね!それで必然的に店をひとりでやるようになった。

ーーおじいさんとか、お父さんの話が出てきていたんですが、先代とか先々代から受け継いだこと、印象に残っていること、今も大切に守っていることなどありますか?

 昔と今とはいろいろなことが違うから。自分の代は昭和60年くらいからだからね、おかげ様で何でもある程度ものは揃っていたんで。食材とかもいいものがどんどん入ってきて。
 受け継いだというと、うちの父親は俺が24歳の時に倒れて、何も教えてくれなかったから見様見真似でやったという感じですね。タレの「かえし」とかは引き継がれてますね。

ーー創業時代から続いているというタレですか?

 そう、母親が教えてくれました。それが90年続いているという。

ーー当時から継ぎ足しという形なんですか?

 そうです。タレがどんどん無くなるしょ、無くなる頃にまた醤油を入れて作って、同じようなペースで足していくということです。

ーー時間が経つと味は変わっていくんですか?

 どうなんだろうね。比べたことはないから分からないけど、多少砂糖の量とかで変わったりするかもしれないけど、ほぼ量は決まっているから。そういうのは母が全部教えてくれた。父からは一切教えてもらわなかった(笑)

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ーー約50年お店を切り盛りしてきて、お蕎麦について、経営哲学についてなど、こだわりがあれば教えて下さい。

 経営哲学は大きすぎるよね(笑)
 こだわりというと、手抜きをしないことです。商売もそうだけど手を抜いてはダメというのが鉄則かな。タレを作るのでも、ある程度の時間をかけて作るだとか、蕎麦もしっかりしたものを作るだとか。そういうことに徹していれば、自ずと自分の満足できるものができるんじゃないかな。経営哲学については、大き過ぎて、極めてません(笑)

ーー例えばお客さんに対してとか。

 俺もあんまり愛想良くないからな〜。来てくれたらお客様は神様だから、ありがたいです。そのくらいですね。

ーーまさに職人という感じですね。

 そうですね。職人といえば職人だけど、職人じゃないといえば職人じゃないね。蕎麦については職人だけどね。持論があるからね。

ーーこだわりがすごいって、幹太(近江幹太さん、かし和家を引き継いだ若者で、発信隊のメンバー)も言ってました。

 幹太くんにも蕎麦は教えているんだけど、とにかく体で覚えてくれと。蕎麦だから、練っていって感触を覚えてくれないと、なんぼ口で言ったってしょうがないからね。それをまずやってもらえばいいのかなと。もう蕎麦はほぼ折れるようになりましたよ。コネるところはね。伸して麺にするところは8月からやっていく。コネるのはほぼ全部やってもらってる。

ーー水を入れたりするのも結構重要なんじゃないですか?

 重要ですよ。あれも感覚でやるから、今日も朝イチのやつは上手くいったんだけど、2回目のものは柔らか目になってしまった。今日忙しかったから、3回目の時にも折ってもらったんだけど、その時にも柔らかくなってしまっていた。それがいつも一定にならないとダメだよと。茹でたりするので少しはごまかせるんだけど、ちょっと違ったね(笑)

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↑↑↑「かし和家」のカレー南蛮、ファンの多い逸品!

ーー50年間、かし和家を切り盛りしながら、浦幌を見てきた。その中で印象に残っている浦幌のことや、町の変化について教えてください。

 僕も若かった頃は、商工会青年部の先輩だとかに育てられて、40歳で卒業してそのあと商工会の理事にも入って、先輩方には大変可愛がってもらいました。それが自分にとっての1番の得というか、可愛がってもらったというか、育ててもらったというか、そういう感じだよね。それがいろいろな商売とかに波及していった。高室さんのお父さん(高室寛さん、インタビュアーの父、故人)もそうだけど、米澤さん(米澤一喜さん、故人)だとか、僕よりも五つくらい上の、そういう人たちに「かいち!かいち!」と呼ばれながら可愛がってもらいました。そういうのがあって今の自分があるなと思いますね。いろいろな面で。

ーーそんな時代から見て、今の時代はどうですか?

 今は僕も商売をやめて、幹太くんに引き継いでいくんだけど、少しでも応援したいと思っています。そういうような立場でやっていくことで、少しでも、今まで生きてきたことへの恩返しができたらいいなと思っています。

ーー長くやってこられたお店を閉めるいう決断を一度されました。その時はどんな感じだったんですか?
(注:「かし和家」は一旦閉店したが、近江幹太さんがお店を引き継ぐ事となり、現在、延長営業中)

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↑↑↑町民が長く親しんだ「かし和家」の店内

 3年半くらい前にはもう決めていたんですよ。このままだったらどうするの?という話で、どんどん売り上げが落ちて、後継者もいないからどうしようということを考えていました。体力も落ちてきていましたしね。このまま、具合悪くなったりしたらどうするんだということもあって、売却できるなら売却したいと思っていた。

ーー悩みましたか?

 いや、全然悩まなかったですね。スッキリ決めていた。

ーー1度辞めるという決断をした後に、幹太がお店をやりたいと言った時の気持ちはどうでしたか?

 ここがお蕎麦屋さんだから蕎麦をやってほしいという風には考えていなかった。もしラーメン屋をやりたいんだと言ったとしても受け入れられる。そんなにこだわっていません。この場所を使って自分で何かやりたいという気持ちがある人だったら全然問題ない。たまたま幹太くんがそうだったけど、はじめは全然ここがお蕎麦屋さんじゃなくても、例えば旅館をやりますでも、なんか違うことやりますでも全然抵抗はなかったですね。そういうこだわりはあまりなかったです。

ーーそれで実際に蕎麦屋を再開したて1ヶ月くらい経ったと思うんですけど、1ヶ月経ってどんな感じですか?

 94日間やる予定でいるんだけど〜。

ーー94年に掛けているんですね!

 それは幹太くんたちの提案です。ぜひその間でお蕎麦を覚えたいということだったので、覚えていただければいい。またわからないことが出てくれば指導はするし「かし和家」の名前を残したいということだったので、大変嬉しく思っています。

ーーやはり「かし和家」という名前は、残っていてほしいですか?

 僕は「かし和家」でなくてもいいと思っていた。「蕎麦屋 近江」でも良いわけだから。そこに全然こだわってはいないんだけど、かし和家の長い歴史を残していきたいという話だったので、そこは大変気を遣ってくれたんだなと、嬉しく思っています。

ーー現在は蕎麦のコネ方を教えているとおっしゃっていましたが、そういうこと以外にも伝えたいことなどはありますか?

 いっぱいありますね。いっぱいあるんだけど、まずは蕎麦をコネルようになってから始まりかなと思っています。後は、タレだとかは分量などが決まっているので、そんなに難しくはないかなと。幹太くんには難しいと思うんですけどね。でも蕎麦を折れないと蕎麦屋はできないので、それを1番に考えてほしい。返しの取り方だとかはもう一回やったんだけど、ちゃんとメモしていたからそれに則してね。後は自分の味を作るんだったらなんぼでもやれば良いんじゃないかい?

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↑↑↑「かし和家」を引き継いだ近江幹太さんと

ーー話しは変わりますが、嘉一さんは蕎麦屋をやって50年ですけど、浦幌には70年間住んでいたじゃないですか。

 生まれてずっとだからね。

ーーその70年間過ごした浦幌を離れることに関して、感じることはありますか?

 時代の流れだからね。たまたま僕の子どもが池田と帯広にいるんだけど、できれは両方から近いところがいいかなと思って、中間くらいにある札内に住んでいるんです(山岸さんは既に転居して、幕別町札内から通っている)浦幌を離れたからどうのというのは今は無いかな。昔みたいに浦幌から帯広に行くのに2時間も3時間もかかるわけじゃないから、浦幌に用事があれば30〜40分で来れるから、全然その辺はないですね。

ーー浦幌を離れる時に寂しかったとかも無く?

 寂しいとかはなかったですね。札幌へ行くだとかだったらあったかもしれないけど、札内だから何か用事があればすぐに来れるし、実際にこうやって浦幌で商売もできてますしね。

ーー自分の年齢とか、お子さんの状況などに合わせて、流れに乗ってという感じなんですね。

 浦幌であったこととかは新聞でも出るし、ちょっと用事あるとなったら来れるし、そういう思いですね。

ーー最後に二つだけ。嘉一さんが浦幌で一番好きな場所はどこですか?

森永のとこの浦幌川かな。

ーーそれはなぜですか?

 昔あそこを泳いだんですよ、プールとかそういうのはなかったから。小学校の3、4年くらいの時かな。溺れて危なかったこともあった(笑)すごい深いんだよね。たまに行っていて懐かしいなと。そこで小さい頃岸から岸まで泳いだな〜と。そういう思い出がありますね。昔はみんな川とかでやばいことやって遊んでた。山だって、山ぶどうだとかをさ、学校のランドセルぶん投げてみんな山に行くんだから。そういう時代だった。よく熊に会わなかったなと思って。

ーー最後に、嘉一さんにとって浦幌とは?

 生まれ故郷ですね。僕ももう70歳だから、男性の平均寿命は80ちょっとくらいでしょ?ということはあと12、13年くらいの寿命だよね。浦幌があったんだな、浦幌で生まれたんだなと、浦幌にはこんな友だちがいたんだなと、思えるような場所だね。生まれ故郷だね。

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ーー本日は私たちのお願いにお応え頂いて、ありがとうございました。

All photo by  yuiko_pohotocco

 自分の境遇や時代の流れを、淡々と見つめ、話してくれた山岸嘉一さん。そこに「かし和家」と共に浦幌で過ごした長い歴史を感じずにはいられませんでした。本当にありがとうございました。お体に気をつけて最後のお仕事頑張って下さい!

【次回】
「かし和家」を引き継いだ近江幹太さんが、発信隊だけに語ってくれた「思い」を発信っ


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