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「まるでモグラんごたる…」長崎に掘られたトンネルの話
1945年夏。
長崎市住吉にトンネルが掘られました。
そのトンネルの中で行われていたのは…
こんにちは。
『魚雷モグラ'22』宣伝部です。
今回は物語の舞台となるトンネルについてのお話。
長崎市の住吉に国内屈指の魚雷工場がありました。
「三菱長崎兵器製作所」
例えば真珠湾攻撃でも使われた“91式魚雷”もこの工場で造られた魚雷です。
戦時下において大きな役割を持っていた兵器製作所でしたが、太平洋戦争末期の1944年夏。
戦況が激しくなってきたことに伴い、疎開工場を造る目的で工場近くの山でトンネルの掘削作業を始めました。
このトンネルが『魚雷モグラ』の舞台、
「三菱兵器住吉トンネル工場」です。
横並びに掘られたトンネルは全部で6本。
4本のトンネルが完成し、そのうちの2本が工場として使われ、残りの2本は掘削途中のまま終戦を迎えました。
機材が運ばれて工場となったトンネルの中では、交代制の24時間体制で魚雷部品の製造が行われていました。
そこで働いていたのは、戦地へ向かう男性たちに代わる労働力。挺身隊や動員学徒たちといった未婚の女性や10代の学生たちでした。
「私と友人のT子はロクロ機の前で小さな魚雷のネジ作りの作業をしていた。」
こちら長崎県諫早市のサイトで公開されている、当時トンネル工場で学徒動員されていた方の手記から、当時の生活や工場での様子を読むことができます。
トンネル完成から1年後。
1945年8月9日11時2分、長崎市の上空で原子爆弾が投下。
その時、魚雷部品の製造に約1800人、トンネル掘削作業に約800〜1000人が従事していたとされています。
爆心地からの距離は約2.3km。
トンネルの外にいた人のほとんどが亡くなるか、全身の火傷や大きな怪我を負いました。
トンネルの中は大きな被害は免れ、避難所として使われました。
(先に紹介した手記の中では原爆投下後のトンネル工場やその周辺の様子についても細かく記されています。)
そして現在。
終戦を期に閉鎖、放棄されたトンネル工場は、65年のときを経て、2010年に一般の方が見学できるように整備されました。
柵越しにトンネル内や当時製造されていた同じ型の魚雷などを見学することができるようになっています。
「ながさき平和の日」「国連軍縮週間」に合わせた期間中は柵の入り口が開放され、トンネル内部の様子を見ることができます。
(今年の開放期間:
・8月7日㈰〜8月10日㈬
・10月24日㈪〜10月30日㈰ )
整備されたトンネル内はコンクリートで固められた状態となっていますが、当時は岩肌そのままの空間。
学徒や挺身隊の人たちは、その中で大きな機械に囲まれて魚雷の製造に従事していました。
そこにはどんな生活があったのでしょうか。
まるでモグラのように1日の大半をトンネルの中で過ごした彼女たちにの日常はどんなものであったのでしょう。
経験していない私たちは想像するしかありません。
そんな想像のひとつが『魚雷モグラ』です。
寒か冬も暑か夏も、「きばろうっさ!」と声を掛け合い、危険な作業に従事する。
夢や恋を思い描きながら…
そして、1945年8月9日
見上げたお空からお日さまがおっちゃゆるう。
長崎弁がかわいい少女たちのキラキラとした日常と、手に入らなかった未来を思う物語を是非ご覧ください。
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