考える、について(近況)
「なんで公式を与えられて“さあ解きなさい”ってのが授業なんだろう。どうしてその公式が成立したか、をまず教えてくれた方がおもしろいよね?」
友だちと数学の愚痴を言い合っていた高校生の頃。数学が苦手だった。やる理由を飲み込めないまま難しいことをできるほど素直じゃないし、簡単にこなせるほど器用でもなかった。この「なんで」は負け犬の遠吠え、屁理屈だと言われそうだけれど、真面目な問いだった。
その後も、数学以外もずっとそう。何のために/なぜこれをしているか、納得しないとできない。納得できないままやると体調を崩す。都合の良い体だなぁと呆れつつ気に入ってもいる。
問うこと、考えること。
『なめらかな人』という本を読んだ。美術作家の百瀬文さんによるエッセイ集。読み終わってもページをめくり続けたいくらい、面白かった。
読んでいて、百瀬さんの考え方にはひとつ特徴があるように思った。どんな感情も思いも、起こったら一旦受け止める。悪い感情やずるい感情、差別的な見方についても。他者や社会の基準で否定するのではなく、自分が「感じた」こと自体をまず肯定するのだ。そこから、なぜそう感じたか、なぜそう考えたかをゆっくりと紐解く。
エッセイからは、百瀬さんの生活の細部が感じられる。周りの作家仲間たちとの会話や、作品の展示についての記述もある。彼女は普段から人とたくさん交流して、本音で語り合う(ように見える)。たまたま百瀬さんの周りがそうなのかもしれないけれど、美術は、すでにあるものを「なんで」と問うたり考え直して提示したりができる場所、で、そう考える人が行き着く場所でもあるかも、と感じた。美術、殊に現代美術には疎いけれど、面白そうだと思った。
また、百瀬さんは男性2人と一緒に、3人で暮らしている。ポリアモリー(複数愛)ではないと説明されるその関係性の話もとても面白い。同居人のおふたりの、百瀬さんへの態度や考え方が素敵だった。彼らはたくさんの話し合いを経て今の生活をしているとのことだった。本には百瀬さんの恋人も登場する。読んでいて自分のことも考えた。わたしにはパートナーほしい願望が正直めちゃくちゃある。理想はいわゆる”恋愛関係”の外側とは言い切れないがぴったりとは当てはまらない。相手に最初から一般的な恋愛関係を求められてもたぶんうまくいかない。だからパートナーを探そうにもどうしたらいいかわからなかった。百瀬さんの文章を読んで、自分は「わたしたちなりの関係性を一緒に考えてくれる人」が理想だ、とわかった。”普通はこう”にとらわれず自分たちなりの関係性を構築したい、と考えている相手に出会えたら良いな、と思えた。
他にも、わたしも考えたい、人と話し合いたい話題が多かった。この本好きかも、話したい、と思った友人にURLを送って、この本をおすすめした。友人が読み終わって話すのがたのしみ(早速図書館で予約したらしい。嬉しい)。
ひとつひとつを問い直し、考え続けること。正解はないという姿勢。たくさんの選択肢に開かれていること。その点において、ありたい姿かも、と感じた本だった。
人との関係性は他の誰かに決められることなく、”普通”に巻き込まれることもなく、相手と一緒に考えられたら良い。
選挙に行った。選択的夫婦別姓、同性婚、アフターピル、とかを重視した。なんでこれらを”認めない”という選択肢があるんだろう、と思いながら。たとえ思想は人それぞれであっても、誰かの選択肢を奪う権利がだれに、奪う意味がどこにあるのだろう。
今はフェミニズムに関連する本を読んでいる。
生活における違和感と結びついて興味を持った分野だけれど、何かの当事者である・なしに関わらず、これからを考える上で必要な知識だと思っている。
女性だからと言って家父長制を問い直せるとは限らない(家父長的な社会の影響を受けて生きているから)、とその本に書いてあった。たしかにご年配の人と接すると特に強く感じる。そう生きざるを得なかった彼女たちの半生が下の世代に重くのしかかることも多い。わたしにもその価値観に染まった部分がきっとあるだろう。そして、わたしは日本で生活する上での特権を多く持っていると思う。たとえば選挙権も持っている。当事者でないからこそ学ぶこともたくさんある。
今を考え直す。考え直して、問い続ける。
それを「めんどくさい」「考えすぎ」と思わない人、重要だと捉える人もきっとたくさんいる。そういう人たちと、一緒に考えて、生きることができるように、日々考えるための土台や知識を蓄えられたらいい、と思う。