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無沙汰しております。4年ぶりのご連絡となってしまいまして申し訳ございません。

長らくのご無沙汰、大変失礼いたしました。アグレイです。
4年ぶりのご連絡となってしまい、申し訳ございません。
お変わりございませんでしょうか。

最後にお会いした時わたしは20代後半でしたね。心身ともにバランスを崩し、
常に何かに迷い同じところをぐるぐる回っているような、
周りから見たらご心配、ご迷惑をおかけしてしまう状況だったかと存じます。
その節は様々にお心遣いいただき誠にありがとうございました。
時の流れは誰に対しても平等ですね、私もしっかりと30代になりました。

多少のことでは泣かなくなり、何かネガティブ事項が頭を埋め尽くしたとしても、「まあどうにかなるか」と脳的な意味での(?)外付けハードディスクで対応するくらいの余裕ができました。
体も太くなりましたが、心も太くなったのです。
金銭的余裕は同年代に比べたらないかもしれませんが、まあ死なない程度にはどうにかしています。
ハラスメントにももちろん傷つきはしますが、対処能力がつきました。
ナンパに困っている女の子がいたら、知り合いのふりをして助けるくらいの度胸はつきました。(昔、そのような時に助けてくれた方々がいてくれたからこそ、恩返したと思っています。その時のお姉様方ありがとうございます。)

いくつかの形の出会いや別れも経験しました。気持ちだけではどうにもならないこと、「社会」に生き、生かされている絶望と安堵と摂理に対する諦めを覚えました。
また、ありがとうとごめんなさいの大切さを知りました。いつその人に伝えられなくなるかもわからないので。

人と話すのは得意ではありませんでしたが、定型文集が自分の中にできました。
少しはまとも寄りに話せるようになりました。
明日のことなど考えたくなかった当時の私からしたら、4年前の私が思う4年後の私よりは少しだけマシだったので、そちらはご安心ください。
苦しみはいつか自身にとって肥料となる時もある、と実感いたしました。

ただ、失ったものもあるようです。

4年前のわたしの文章を読んで、もうこの感性は取り戻せないと思いました。
(今より断然面白い。わたしの脳みそ死んでしまったんか。)

美大時代の知り合いが、こういっていたのを思い出しました。
「幸せになったらもう作品を作れないんじゃないか」

私は心の安定や社会性と引き換えに、失った何かを悼みます。
4年前に書いたこと、当時は死ぬ思いだった毎日の中で絞り出したこと(下書きの量がとんでもなくありました。)、今は絶対こんな表現はできないのです。
私にこんなテクスチャーで日々を綴れる能力があったのですね。

今自分が書いているこれなんか、つまらなくてしょうがないですね。
つまらなくてしょうがないことをつまらなくてしょうがないと表現するなんて、
自分の脳はどうにかなってしまったんだと思います。浅すぎます。
何があっても脳内は自由だと思っていたけれど、定型文しか出てこない、乏しさ。
とはいえ4年前に戻りたいとも思いません。今に至るまで、様々な変化とそれに心と体をチューニングしていくのには、本当に大きなエネルギーが要りました。ただ、その時にしかできないことの尊さには早く気づくべきであったと反省しております。

以前の投稿と今回の投稿をご確認いただけますと幸いです。
突然のご連絡となってしまい、はなはだ失礼かと存じますが、しばしばまた投稿させていただければと存じますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。






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