20240917:祖母は5歳のときに亡くなったけど、覚えていることもある

母方の祖父母には会ったことがない。
両親はなんか訳ありで結婚したぽいし、そもそも生きてる世界がちがいすぎるのにどうして籍を入れたのか子どものわたしも分からない。父は農業という名の半無職で、母は学校教員。出会う場所なくない?と思うけど、たぶん一生聞かないと思う。別にどうでもいいというか、それを知って何か変わることはない。

母が家にいなくて、父は家にいるかパチンコか半々くらいなので、わたしは小さい頃に祖母や乳母に預けられていた。
父方の祖母には5人子どもがいて、父は末っ子。
女性の気が強い家系で、罵詈雑言にはならなくても、言い方は厳しかった。
壁伝いに逆立ちしたら「壁の粉が落ちるからやめろ」というくらいに、子どもに甘くはなかったと思う。

祖母はテレビを見ながら新聞広告で千羽鶴を折っていた。
ボケ防止なんて考え方がなかった時代でも、手先を動かしていることは彼女にとって大切だったのだろう。
料理が上手だったらしいが、当時のわたしの味覚はさほど発達していないので、味噌おにぎり以外のことはあまり覚えていない。
でもこの味噌おにぎりがめちゃくちゃおいしくて、お昼を食べさせてもらう時にずっとねだっていた。味噌を自分で仕込んでいるから独自の甘さと旨みがあったのだと思う。オレンジ色が印象的だった。
もう味覚なんて衰えていくばかりだし、味噌おにぎりってあまり居酒屋とかでも見かけないから、祖母の作った味が頂点。

亡くなったときは葬式が自宅で執り行われた。
そもそも葬儀場という概念がなくて、その地域では誰か亡くなったら家に関係者を呼んで葬式をする習わしだった。
近所で2番目に大きい家だったのでたくさんの人が出入りしたことは覚えている。東京から来た女性の口紅が真っ赤だったのも覚えているが、誰だったのかは未だに分からない。
墓も寺ではなく、地域の墓があった。小さな山道を登った先に木製の四角柱で墓が建てられた。今でこそ墓の場所が変わり、遠くの寺の墓所になったが、あの当時はみんなで遺体を担いで土葬にしていた。
木製の墓だから雨風に当たると次第に崩れてくる。
学校の教室の半分くらいの広さに10基くらいあっただろうか。棺桶ごと埋めるから一人一人のスペースが必要。
長老ポジの人が場所を覚えていて、既に墓木が朽ちた場所でも「ここは○○さんの墓」とはっきり覚えていた。墓木と一緒にあまり育たない樹木も植えていたので、その名前と紐付けられていたのだと思う。

メインの道を挟んでほぼ同数の家があり、左側の家の人が亡くなったときは右側の人たちが墓穴を掘ると決まっていた。穢れの思想があるのだろう。
葬式で人々が身体を動かすというのはちょっとした祭りのように見えた。
今の葬式で汗をかく人なんていないけれど、当時は肉体労働で最後のときを一緒に過ごしていた。
この風習はおもしろいと思う。
現代の葬式は全部葬儀屋任せだけど、墓穴から墓石まで用意するような葬式だったら、送り出す人の願いだけじゃなく労働も伴って思い出になりそう。
イスラームの人たちが土葬を要求する気持ち、ほんの少しだけ分かるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?