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実学は役学に勝らないのか

日本はいつから鳳凰像の紙切れに囚われた学問を追いかけているのだろうか?
実学とはすぐにお金にならない学問とも言い換えられる。例えば、文学はすぐにお金にならない。いくら学術的価値のある日本文学の研究をしても、大金にはならない。
役学が技術な学問であるというセリフにとても共感を覚える。例えば、工学的な学問は大抵この部類になるだろう。加えて、実学のうちでも応用のものはそうだろう。前者は電子工学や生命工学がこれにあたり、後者では、統計学や流体力学がこれにあたるだろう。そう、つまるところ企業とのタイアップがすぐにでき、尚且つ、目に見える形になりやすい役学は待遇されやすいのだ。これは正義や悪といった哲学的な問題ではない。どうしたって研究には金銭的なものの動きはあるし、コンサルタントを雇うお金も安くない。事実、アメリカの理系コンテストや大学院ではその日から商品化できるものが数多く存在する。優勝しているものは大抵がそうである。

では、全て役学に変わることがこの社会に、大きく人類社会と言い換えられるレベルで、不必要かと問われればそんなことはないだろう。根底的な学問は未だに進化をそして、深化を続けいている。どんなに、工学的に世界が発展しても、文学は人生において一個人の価値観を豊かにするし、論理的思考が少ない情報から正解を導くし、人間クローンを倫理的な観点から見るのはどうしても必要だ。これらの多くは、人間の尊厳を高めるものではないだろうか。

たとえ、明日世界人類全てがAIに置き換わっても多くのことは変わらないだろう。しかし、文学や基礎数学、倫理学等は不必要になり、このとき、工学的な学問、または、役学と言い替えてもいいが、そういったものは引き続き必要になることは、根底論として、AIが工学の最果てにいること考えれば直ぐにうなずけるが、実学、特に文学や歴史的価値のあるものが彼らにとって必要でないこともまた、首を縦に触れる要因であるから、間違いはほとんどないだろう。実学は結局のところ、人間を人間たらしめている学問なのかもしれない。さらに言えば、そうであるかすらを考えるのも実学であり、今人間は「役学が勝る」という結論をAIによって賛成票を入れさせられているとも言える。飛躍するが、AIという性別が、誕生する日はそう遠くないとも言える。

だからこそ、我々は実学を大切にし、古めかしい言い方をすれば、学び続ける謙虚な精神を追求すべきではないだろうか。

追伸:性別AIに関してはこちら

追伸2:小説 性別AIについてはこちら

https://note.mu/upmocchan/n/n9f75a261cd3d


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