猿の黙示録
千葉県富津市の自然動物園で,
猿57頭が、殺処分されたという報道が、先月有りました。
処分された理由は、外来種の「アカゲザル」だったので、在来種の「
ニホンザル」との「交雑」を避ける為との事です。なんとも、乱暴な去勢だ。
また、殺処分を実行した者も、気の毒だ。
動物園に、勤めるくらいだから、当然、動物が好きだったのだろう、
断腸の想いで、その決定に職務として、従わざるを得なかったのかもしれない。
彼一個人としては、処分には断固反対だったかもしれないが、社会の中で、生きると、必ずしも、自分の行動は、自分の意思だけでは決められない。
たとえば、僕は、今日これから、買い物に行き、晩飯の準備をするが、
何故、外食をせず、自炊するか、また、何を買い、何を作るか、といえば、僕の懐具合で決まる。つまり「景気の影響」で、僕の行動が、左右される。
また、僕に限らず、誰だって、起床時間すら、自分の意思だけでは、決められない。
出社・登校時間やバスや電車の時間を考えて決めるだろう。「個人」なんて、社会に埋もれると無くなってしまう。
社会が巨大で、複雑過ぎると、個人の意思も、命の尊厳も軽くなってしまうようだ。
件の殺処分を決めたのも、環境省の官僚だけでは無い。そんな社会や、決定を「仕方ない」と思って従い、受け入れている一人一人に責があるから、
その殺戮の加担者が多過ぎて、もう個人を特定できないし、特定しても無意味だから、誰の決定でも、誰の意思でもなく、猿達は抹殺されてしまった。
社会って怖いね。
多分「次の世界大戦」も、誰の決定でも、責任でもなく、いつの間にか始まっているかも知れない。また「次の」だけでなく「前回(第二次大戦)」だって,、限られた一部の人以外にとっては「寝耳に水」の開戦だったに違いない。僕には、社会は、個人の遥か及ばないところで意思を持っているように自ら動いているように見える事がある。
「米のトランプ氏の当選」も、「英のEU離脱」も、決まった後で「まさか、本当に、こんな事になるなんて」と感想を漏らす人が多かったと聞く。
「世間の動向」なんて、いつの間にか動いていて、油断してると取り返しがつかなかったりするものだと思う。
どれほどの、権力者も、有識者も「社会の動き」を、読んだり止めたり出来はしない。
社会の前では、誰もが、等しく無力だ。
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