よく分かるグラスリップ入門2024
はじめに
本稿は2014年放映のアニメーション作品「グラスリップ」の解説記事です。
「グラスリップ」は世間からとても低い評価をされています。本作の低評価の理由は「分かりづらさ」にあります。分からないから、つまらない。当然といえば当然です。
しかしながら全く面白みのない作品ではありません。正確にいえば世間にまだ面白さを理解されていない作品です。
そして本作の「分かりづらさ」には意味があります。本稿を全て読み終えれば、本作が「分かりづらい」ゆえに魅力がある作品であると理解できるでしょう。
グラスリップの狙い
繰り返しますが「グラスリップ」は分りづらい作品です。それゆえに視聴者に伝わらなかった作品の狙いがあります。それは「視点を変えることで物事の見え方が変わる」ことを視聴者に体感させることです。
本作ではたびたびオランダの画家マウリッツ・エッシャー(1898-1972)の作品が登場します。中でも象徴的なのが、作中に登場する麒麟館に展示されている「昼と夜」(1939)です。
![](https://assets.st-note.com/img/1733214624-0OjRwVymlTDK9n4cfFC5eIuS.jpg)
「昼と夜」は2つの光景が描かれたトリックアートです。作品左手の黒い鳥に着目すると昼の田園が、右手の白い鳥に着目すれば白い鳥の群れと夜の田園が目に飛び込みます。まさに「視点が変わると物事の見え方が変わる」ことを体感させてくれる作品です。
この「昼と夜」は「グラスリップ」において描かれる2つの光景のメタファーとなっています。1つは透子が仲間たちとお祭りを楽しむ「夏」。そしてもう1つは孤独な「冬」です。1話「花火」では夏の花火大会に透子たちが参加する様子が描かれる一方で、12話「花火(再び)」では「冬」が「未来の欠片」の幻影を通じて描かれます。「冬」の幻影の中で、透子と駆の立場は逆転し、透子は彼女なりの「唐突な当たり前の孤独」を経験します。これが駆の視点から見た花火大会の光景であり、花火大会を楽しんだ透子とひとりぼっちの駆の温度差が季節の違いによって表されています。それはまさに「昼と夜」のように「夏と冬」2つの景色が花火大会の中で成立していたということです。透子(そして私たち視聴者)は駆の視点に立つことで、「夏」の陰に隠れていた孤独な「冬」の光景を目にします。
「グラスリップ」に必要な視点
本作はよく意味不明と揶揄されます。たしかに素朴な視点で見ると理解できない描写が少なからずあります。しかしながら一見すると意味不明な描写でも、視点を変えることで見方が変わります。
では「視点を変える」とはいったいどういうことでしょう。本作を理解するうえでは、以下の2つに分類されます。
後々明かされる情報と照らし合わせる
本作は序盤では明かされない情報があります。沖倉駆の「唐突な当たり前の孤独」もそうですが、高山やなぎが将来的に日の出浜を出ていく予定にあるということも終盤になって明かされる事実です。
こうした情報をこれまでの彼らの言動と照らし合わせることで、初見とは違った捉え方ができるでしょう。そういった意味で本作をきちんと味わいたいならば最低でも2回以上の視聴を推奨します。
メタファーとして捉える
この作品は、直接的な描写よりも間接的な描写を好んで使っています。間接的な描写の一つとしてよく使われているのがメタファーです。登場人物の言動に違和感を感じることが多いですが、それはメタファーとして機能しているからです。キャラクターの言動に違和感があれば、それは何かを示しているメタファーだと考えてください。
また本作では文学作品や芸術作品、著名人の名前が登場します。これらは外部の文脈として使われ、メタファーとして機能します。文学作品の内容や著名人の来歴や思想を参照することで、描写の意味が理解できます。先述のエッシャーの「昼と夜」はその一例といえます。
「シーシュポスの神話」と不条理への抵抗
シーシュポスの神話
「グラスリップ」に登場する数々の文学作品は本作を理解するうえでの補助線となってくれます。よって本作を視聴する際には一読しておくことを推奨します。
とはいえアニメを1作品を視聴するためにわざわざ参考図書を読むのはなかなかハードルが高い。よってこの項目では、作中で参照される作品のうち、特に「グラスリップ」と関連の深いアルベール・カミュの随筆「シーシュポスの神話」に焦点を当てて解説します。この作品が選ばれた理由は、本作の重要なテーマに関わる内容であることと、読むのに時間と労力がかかるためです。「グラスリップ」に登場する他の参照作品は短編小説が多く、比較的短時間で読めますが、「シーシュポスの神話」はカミュの哲学が凝縮された難解な随筆で、一読するのに時間が必要です。そのため、この項目を通じて概要をつかんでいただければ十分です。興味を持たれた方は、ぜひ原作も手に取ってみてください。
「シーシュポスの神話」の内容について触れます。この作品は、カミュが「不条理」について考察した随筆です。ただし、ここでの「不条理」は一般的な意味である「筋道が通らないこと。道理に合わないこと」(デジタル大辞泉)とは異なり、カミュ独自の哲学的な概念である点に注意が必要です。
カミュは「シーシュポスの神話」で、「哲学における真に重要な問題はただ一つ。それは自殺だ」と述べ、問いを投げかけます。人は避けられない死に向かい、何かを残せたとしても、いずれすべて消え去る運命にあります。ならばなぜ生きる必要があるのか、生きる意味はあるのか。カミュがいう「不条理」とは、意味を求める人間が、その努力の先に無意味さを突きつけられる状態を指します。「シーシュポスの神話」は、この不条理を前にして、人間はどのように生きるべきかを探る哲学的な議論を展開しています。
その上でカミュは不条理に対する人間の態度として3つの類型を掲げます。1つ目は①自殺です。人生には生きる価値がないとして、「ならばこれ以上苦しむまでもない」と全てを投げ出します。2つ目は②超越的存在への逃避です。超越的存在とは神、あるいはそれに類する上位存在です。超越的存在を盲信すること(ex.「死後の世界で幸せになれる」など)で不条理を回避するのです。しかしカミュはこれら(①、②)を否定し、③不条理への反抗を説きます。人生の不条理さを受け入れたうえでこれに抗えというわけです。
カミュが不条理への反抗を語る際に例に挙げたのが、ギリシャ神話の英雄シーシュポスです。シーシュポスは神を欺いた罰として、巨大な岩を山頂まで運ぶよう命じられます。しかし、岩は山頂に到達すると重みで転がり落ち、彼は永遠にこの無意味な作業を繰り返すことにになります。この行為は明らかに無意味ですが、シーシュポスは「すべてよし」とこれを受け入れます。そしてカミュは頂上を目指して奮闘するその行為自体が人間の心を満たすと断言し、不条理に立ち向かう姿勢を肯定しています。
「唐突な当たり前の孤独」という名の不条理
前置きが長くなりましたが、ここから「グラスリップ」と「シーシュポスの神話」の関連について説明します。結論から言うと「グラスリップ」は不条理に直面した人間を描いた作品であり、「シーシュポスの神話」はそれを示唆する形で提示されたと解釈できます。カミュは不条理を人間一般の生存的問題として論じていますが、シーシュポスの課せられた罰がそうであるように、個人的な問題の中に不条理を見出すことも可能です。
「グラスリップ」の登場人物たちは、不条理な問題を抱えています。その典型的な例が、沖倉駆の抱える「唐突な当たり前の孤独」です。親の仕事の都合で各地を転々としてきた駆は、常に新参者として周囲と関わることになります。その中で、不意に疎外感を覚えることがあり、まるで自分の存在が突然忘れ去られたかのように感じるのです。
カミュ的に駆が直面している問題を捉えると「「唐突な当たり前の孤独」に意味があるのか」、さらに言えば「「唐突な当たり前の孤独」に苦しんでまで他人と関わる意味はあるのか」と表せます。そして「唐突な当たり前の孤独」に対する駆の態度は、上記の3類型でいうところの②超越的存在への逃避になります。①であれば透子に関わろうとはしません。また透子への関与は③不条理に反抗する意思によるものとはいえません。自分同様に「未来の欠片」を感知できる透子に興味を持ったからです。駆は「未来の欠片」を「自分が完全な存在になれるためのピース」と思っています。いわば彼は「「未来の欠片」によって「完全な存在になれる」」という盲信により「唐突な当たり前の孤独」の不条理性を回避しているのです。
しかしながら駆の「超越的存在への逃避」は破綻します。駆が中盤以降「未来の欠片」を感知できなくなってしまうからです。透子が「未来の欠片」で映像を見たとしても駆と共有されず、そのことが彼に疎外感を与えます。「未来の欠片」に縋れなくなった以上、駆は不条理への直面を避けられなくなりました。
「グラスリップ」の結末で駆は日の出浜から去ってしまいます。しかしながら彼の決断がどのようなものであるかははっきりと描かれていません。「もはや他人と関わる意味はない」と透子の前から去ってしまったのか。それとも別の理由があるのか。本作の理解度が深まると最初の印象とは違った見方ができるかもしれません。
他者という不条理
「グラスリップ」における不条理性は、「他者を理解する」というテーマにも表れています。透子は駆を理解しようと努め、12話で「未来の欠片」を通じて彼の「唐突な当たり前の孤独」を体験します。しかし、駆の孤独を理解したところで、それにどんな意味があるのでしょうか。むしろ、それは駆が透子の元を離れようとする理由を痛感する結果となります。
また高山やなぎは作中で透子や井美雪哉のことを「分かりやすい」「何を考えているかすぐに分かる」と言います。しかしながら彼女は透子の「未来の欠片」を知りませんでしたし、雪哉も彼女の知らないうちに黙って陸上部の合宿に行ってしまいました。他者はいくら理解しようとしてもその全て理解することは不可能です。たとえ理解した気になったとしても、他者の一面だけを捉えただけにすぎず、一面ずつの理解を重ねていったとしてもシーシュポスの罰のように永遠に終わりません。つまり「他者を理解する」ことはその不可能性ゆえに不条理なのです。
他者の理解不能性をあらわす象徴的なシーンがあります。11話「ピアノ」で永宮幸は白崎祐と共に登山をしますが、下山中に祐の前から姿を隠します。「さっちゃんには俺が見えてる?」という祐からの問いかけに、彼女は「まだよく見えない」と答えます。この場面で幸は祐の姉に車で送り届けてもらった3話「ポリタンク」とは違って自分の足で、つまり祐と同じように登山をすることで祐のことを理解しようと試みます。しかしながらこれだけで祐を理解できるわけがありません。ゆえに「まだよく見えない」のです。幸はこうした理解の不可能性を言葉だけではなく、お互いの姿が見えない状況を作り出すことでも示しています。これは言動がメタファーとして機能している描写の一例でもあります。
不条理に抵抗する者たち
では本作はどのように不条理への抵抗を描いたのでしょうか。その抵抗の在り方はキャラクターにおいて様々であり、一概に言えるものではありませんが、とても興味深い描写があります。
先述したように透子は12話で「唐突な当たり前の孤独」を経験しますが、「駆くんの気持ちが少し分かったような気がしただけ」「何もしてあげられてない」と彼女は意味を見出せませんでした。ところが駆は「それで十分だよ」と言います。透子からしてみれば意味がないことでも、駆にとってみれば十分に意味がありました。私たちは決して一人で生きているわけではありません。たとえ意味を求めた結果、その無意味さを突き付けられたとしても、他者が意味を見出してくれるかもしれません。そして他者が不条理に直面したとしても、その歩みが私たちの心を動かすこともあります。私たちは不条理な世の中においても、他者と互いに影響し合い、それを生きるうえでの励みとします。カミュがシーシュポスの孤独な闘争の中に不条理への抵抗を見出したように、私たちは透子と駆の姿から他者と不条理を乗り越える道を見出すことができるはずです。
また、このエピソードは「視点が変われば物事の見え方が変わる」の一例として捉えることもできます。物事の見方が違うのは必ずしもいいことではありません。相手と違った見方をしてしまうから、すれ違いが生まれてしまう。「グラスリップ」の序盤はこうしたキャラクター同士のすれ違いが何度か描かれていました。しかしながら本作は、人と人との見解の相違を希望としても描きます。つまり「グラスリップ」は「視点が変われば物事の見え方が変わる」ことまでも「視点が変われば物事の見え方が変わる」ものとして描いているということです。
最後に
ここまでご覧いただきありがとうございました。
本稿では「グラスリップ」は「視点を変えることで物事の見え方が変わる」作品として解説させてもらいました。視点次第で物事の見え方が変わるということは、場面ごとに解釈の余地が多いということです。そしてそれは、明瞭な表現ではまず成り立ちません。場面の意味が明瞭であるがゆえに、他に解釈のしようがなくなってしまうからです。したがって作品に解釈の余地を持たせるものとして、あえて分かりづらい表現を試みる必要があったといえます。
また本作の分かりづらさは、本作が向き合った他者の理解するという不条理、すなわち他者の理解不能性を考慮すると致し方ないものといえます。他者を理解できないものとして描いているのに、視聴者が簡単に理解できてしまったら本末転倒です。仮に本作が他者を分かりやすく描く作品であったとしたら、軽薄な作品であるとしかいいようがありません。「グラスリップ」の分かりづらさは、本作がテーマに対して真摯に向き合った証です。
さて、本稿はまだ作品の一部を解説しただけにすぎません。言いかえれば、「グラスリップ」はまだまだ解釈の余地がある作品だといえます。
実は「グラスリップ」を本稿よりも詳細に解説する記事を既に別のブログサービスで書いています。検索すれば見つけられますが、できれば読まずに自分で解釈しながら本作を視聴することをおすすめします。その方が相手を理解しようと苦心する透子たちに近い目線で「グラスリップ」を堪能できるからです。かといって、他人の意見を参考にすること自体は決して悪いことではありません。他者の視点を参考にすることは、むしろ本作の趣旨に適ったことです。
いずれにせよ「グラスリップ」は理解の仕方さえ分かれば、大いに楽しむ余地があるアニメです。「つまらない」「理解できない」と思われているからこそ、その認識がひっくり返ります。視聴者に求められることの多い、昨今のタイパ至上主義に逆行する作品ですが、きちんと向き合えば他のアニメでは得られない視聴体験ができるでしょう。
しかしながら不幸なことに、放映開始から10年経った今もなお本作の真価は理解されるに至っていません。理解されたからといって、一般的な人気が出るような作品ではないでしょうが、コアなアニメファンからの支持がもっとあってもおかしくない作品です。
「グラスリップ」にとっての不幸は視聴者に理解されなかったことよりも、その見方を伝えてくれるような存在が視聴者の周りにいなかったことです。一般的なアニメ視聴者の需要からは外れる作品なので、初見で理解されなかったり、つまらないと思われるのはある程度仕方がありません。それゆえに本作をきちんと評論して、本作への向き合い方やその価値をアニメファンたちに伝えられるような存在が必要でした。こうした特殊な作品にこそ、評論がきちんと機能すべきでしたがそれは果たされませんでした。
長くなりましたが、本稿を最後までご覧いただきありがとうございます。本稿が「グラスリップ」を楽しむ手助けとなれば幸いです。