夏草のひとりごと #31(fin) 人を殺す暑さだけを残して夏という季節は過ぎ去っていく
夏草のひとりごとは8月の間毎日更新するエッセイ(という形であっていたのだろうか)企画だった。
企画を立てたきっかけは#0に記載している。
学生時代に書いていたブログは、記憶を頼りにしかもう呼び起こせないけれど、「こうであるべきだ」という要素が強かった。
一方で、この夏草のひとりごとで綴ってきた内容は、「こうだったらいいはずなのに」という大人にも子供にも振り切れていないような、ダサさが随所に出ていた。
日々記載していく中で、たまらず嫌だったことが八月には数多く起きた。
こんなエッセイで何かを主張することに呆れ果てるくらい人として生きてるのが嫌になったのは笑える。
それでも不思議なことに今日まで、こんなしみったれた人間の言葉を読み続ける人もいたし、現実でだって耳を傾ける人たちが居た。
救われたってお世辞にも言う気にはならないけれど、ぶつぶつ言って生きるのも悪くない気がした。
また、自分にとって創作とは何だろうと青臭いことを考えた。
ここ数年は昔と違って、焼け石に水レベルだけれど映画の企画書を買い取ってもらったり、オーディオドラマ用の脚本を買ってもらったり、何かそれっぽいイベントはあった。
けれども、食えるかと言われたらちっとも食えないから会社で働いているし、働くことで何を書きたいかが湧いてくるから。
にしたって、自分は書いて何がしたいのかずっと考えてて。
僕は万人に受けるつもりがない。受ける気がしない。
そういうことを言う創作者はそこら中に沢山いる。
「エンタメだから」
「商品だから」
戒めていくつも書いてきたけれど、どうにも。
果汁100%で出来てる高い高い、至極の一杯より大量に生産できる数パーセントのジュース。分かってる。市場の価値が高いのはどっちかなんて分かってる。
今自分の創作物について、答えを出すつもりはない。
出来ることは書き続けることだけだと思っている。
今年の夏は本当に暑かった。殺されるかと思った。
でも生きている。
暑さはまだしばらく残っているけれど、9月はまた別の企画で創作を続けていきたい。
画像の蝉の羽根のきれっぱしは死んでしまったけれどその痕跡はしっかりと残すという風な意思に思えた。
僕は本棚の隅っこに隠しておきたい誰かの気持ちを書き続ける。