相手を巻き込む「させていただく」
あなたが「させる」のでを私は「させていただく」--目上の用命に目下が従う意の謙譲
まずは「させていただく」の意味合いをつかみたく、調べやすそうな本を図書館で漁る。
『敬語の用法』(辻村敏樹ほか編、角川書店)という本は、何かに招待された人が「出席させていただきます」と答える一文を例に挙げていた。つい聞き流してしまう定型文ではあるが、
「出席する」のは自分であり、
「出席させる」のは相手
というように、この「させていただく」は「意味上の主語が入り組んでいる」のだという解説が目を引いた。
「出席させていただく」の成り立ちを探れば、「あなたが私を出席させるのに従う」辺りが“原義”だということらしい。この捉え方にもとづけば、
「させる」には、「あなたが自分にそうさせる」という「使役」の意味があり、
それを受け、「自分はあなたからその用命をいただいた」という意味合いで「尊敬」を表しつつ、自分が用命どおり動くという「謙譲」の形をとった一言だ
と整理できるだろう。
相手の動作があって成り立つ種類の謙譲語
世の辞書はどれも、「させる」の項で「使役」と「尊敬」の語義を別立てしているが、上記の考え方にもとづけば、「させる」の「尊敬」の意味は「使役」の意味があってこそ生じる、と解釈できそうだ。
「~させていただく」がときに押しつけがましく響くのは、このように「あなた」が「私にそうさせる」ことを前提としているためではないか。自分のへりくだりを表現するために、わざわざ相手を担ぎ出すのだ。
そのため、相手が自分に何かを求めた場合の「~させていただく」が自然に響いても、自分からサービスの提供を申し出るような場合は別なのだろう。
相手が自分に「させる」段階なしに、つまり、相手の用命なしに申し出る「~させていただく」は不自然だということだ。
謙譲にも尊敬にも使われた古語「奉る」--目下が目上に「さしあげる」意から生じた敬意
別の意味と相まって尊敬の意味が生じる言葉は、古くからあるようだ。
学生の頃に使っていた『古語辞典』(新版、旺文社)の発行年は1986年。なぜだか取り置いていたその付録『古語学習の手引き』を開くと、「敬語法」の項に「同じ語で尊敬・謙譲の両方に使われるものがある」という注意点が記されている。
その例語として添えられたのは「奉る」。現代の私の語感からすれば、「目上の人に何かをさしあげる」という謙譲の意味しか思い浮かばないが、例えばこの冊子が掲げる例文、
「〔帝は〕御輿に奉りて後に」(『竹取物語』)
は、「お乗りになる意で尊敬語」なのだそうだ。
『日本国語大辞典』(小学館)で「奉る」*を引き直すと、自動詞のの語釈の内、
「貴人の行動を、傍からその用意をするものとしていう尊敬語」
という説明が、ちょうどこれに該当するだろう。
他動詞のほうにも、
「貴人が身に受け入れたりつけたりする動作を、傍の人がしてさしあげるものとしていう尊敬語」
と記した項がある。
こうした尊敬語の項の手前には、現代にも通ずる謙譲語としての語義が記されている。
この辞典の凡例を見ると、「語義説明は、ほぼ時代を追って記述」しているそうだから、「奉る」は、
まず謙譲の意味で使われだし(用例は『古事記』『万葉集』の引用から始まっている)、
尊敬の意味でも使われる時代がそれに続いた
ということになろう。
* "たて‐まつ・る【奉】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-03)
敬意を帯びる背景を踏まえたい
「奉る」には、元々の「何かをさしあげる」とか、「何かしてさしあげる」という謙譲の意味がまずあって、しだいに、それを尊敬される側の動作と見なす場合も生じた--という流れがあったのだろう。
相手に対する謙譲と尊敬、自分の動作と相手の動作が微妙に重なり合い、入れ替わる--という変化は、言語一般に付きものだと見るべきだろうか。また、日本ではそういう変化が生じやすいということなのだろうか。
時代が下り、派生的な尊敬の用法が失せ、謙譲の意味だけが残った「奉る」の変化--
尊敬を向けたい身分の消長に応じ、言葉に変化が生じ、
そうした変化を経ながらも、元々の意味が残る
といった変化にも、何かしら示唆するものがありそうだ。
言葉に正しい用法があり、その正しさに意義や価値があるとすれば、なるべくその来し方と移り変わりを踏まえて見積もりたいものだ。