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センセーショナルの向こう側にあるもの

センセーショナルなものは、簡単に人の目を惹きやすい。

人の感情を刺激するようなタイトルや内容、逆撫でするような表現。こうしたものが特にネット上に溢れているのは、センセーショナルなものの方が単純に閲覧者が増えるからだろう。

「これ、おかしくない?」「何か腹立つ」

そういった感情は爆発しやすい。Twitterを見ていても、次々に拡散されていくものには、こうしたものが多いなあと感じる。

だからこそ、それを利用した炎上商法というものがあるのだろうけれど。


ただ、わたし個人は、たとえ同じことをいうにしても、自制されたトーンで淡々と語られている文章に惹かれる。

沸々と煮えくり返っている感情が心の底にあったのだとしても、それをそのまま出さずに表現している文章に惹かれる。

そこにその人の知性が表れる気がするし、何より、感情を一旦飲み込んで書かれた文章には、より思考に深化が見られるものが多いと感じるから。


感情のままに吐き出された言葉には、切実さが滲み出るものだと思う。数年前に広がった「保育園落ちた日本死ね」にも、ぶつけどころのない憤りが生々しく感じられた。そうせねばやるせない感情があることも理解できる。

でも、そうした言葉は、あくまで内側から溢れる個人的な「王様の耳はロバの耳ー!!」という叫びに留めておきたい。


誰かに届けるための文章は、届けるために心を尽くしたい。たとえば、手紙のように。たとえば、対面のコミュニケーションのように。

意思や意見を伝えるときには、「こう思うんです、わたしは」と伝えたい。「こうでしょ!」と強い語気で言わないようにしたい。「こうでしょ!」は、そうではない人たちのことを表立って否定していなくても、否定していることと同じだと思うから。


エモいという言葉がある。わたしは、“センセーショナル”と“エモい”という言葉は対極にあるものだと感じる。厳密にいえば違うのかもしれないけれど。

ただ、“センセーショナル”が見ず知らずの人を斬りつける可能性があることに対し、“エモい”は失笑される可能性はあっても、傷つけることはないのではないかな。

わたしは、後者を選びたい。目立たないかもしれないし、一見エネルギー量が少なく思えるかもしれない。けれども、その文章の奥底には確かに“伝えたい”熱量がある。ただ、それで読み手を焼き尽くしたくないだけだ。


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卯岡若菜
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