ひとつの物事は、着させた服で白にも黒にもなる
同じ内容であっても、伝え方次第で全然本意ではない伝わり方になってしまうことって、あるよね。
言いたいことは同じなのに、表現のしかたひとつで、ポジティブにもネガティブにもとらえられてしまう。「この人、ネガティブにとらえられてしまうような伝え方ばかりをしているなあ」と感じるとき、わたしは「もったいないなあ」と思っている。
「あの人はああいう風に言うけれど、本当はとてもいい人なんだよ」というセリフがあるけれど、それはリアルに会えるからこそ解ける可能性のある誤解だ。リアルですら、無意識に相手に悪い印象ばかり与えてしまう人はもったいないのに、ネットの中でしか関わらない人だと、誤解すら解けないまま、なんてこともありえる。もったいないなあ、と思う。
たとえば、同じことを言うのでも、「〜が嫌い」という否定で表現するのと、「〜が好き」と肯定で表現するのとでは、受け手の印象が全然違う。嫌いなものをわざわざ不特定多数に向けて言うくらいなら、好きなものを発信した方が、発信する側も受け手側も、ハッピーになれるんじゃないかな。
「こういうことをしたい!」の方が、「あれはやりたくない、やらない」とばかり言っているよりも、自分自身にとっていい気がする。
「子育てつらいよー。でも、これならやれるし、やっちゃえ!」の方が、「つらいよー。あれもこれもできないことばかりだよー」よりも、救われる気がする。
言いたいベースは同じ。だけど、印象は全然違うんだよね。
SNSでのネガティブ発言の是非が、ちょくちょく見られるのだけれど、内容のネガティブさよりも、発信の仕方次第なんじゃないかな、なんて今は思っている。
つらさに蓋をしろというわけではない。無理やりポジティブ発言をせよというわけでもない。ただ、しんどい中ででも、たとえば「でも、あれやりたいんだよね」っていう言葉を出せたら、きっとその人のネガティブは、ネガティブそのままではとらえられないんじゃないかな。むしろ、ネガティブさも出していることで、“無理してる感”も感じさせないで済むかもしれない。
炎上騒ぎになった「あたしおかあさんだから」もそうだけれど、伝えたい根っこが同じ内容でも、伝え方次第で全然結果が異なるものなのだなあ、としみじみ思う次第です。
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